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陽炎の諸元(設計・兵装)
項目 | 内容 |
---|---|
艦種 | 駆逐艦 |
艦型 | 陽炎型(一番艦) |
建造所 | 川崎重工業神戸造船所 |
起工 | 1937年9月3日 |
進水 | 1938年9月27日 |
竣工 | 1939年11月6日 |
基本性能
項目 | 数値 |
---|---|
排水量 | 常備:2,033トン、満載:約2,500トン |
全長 | 118.5 m |
全幅 | 10.8 m |
吃水 | 3.76 m |
主機 | 艦本式タービン2基2軸、蒸気ボイラー3基 |
出力 | 52,000 馬力 |
速力 | 35ノット |
航続距離 | 18ノットで5,000海里 |
兵装(竣工時)
- 12.7cm連装砲C型:3基6門(前部1基、後部背負式×2基)
- 九二式魚雷発射管(61cm四連装):2基8門(九三式酸素魚雷)
- 25mm連装機銃:2基
- 爆雷投射機・投下軌条装備
※戦時中、対空兵装などの改装あり。
駆逐艦陽炎 図面 12.7センチ連装砲C型俯瞰図

1. 概要
陽炎(かげろう)は、大日本帝国海軍の陽炎型駆逐艦の1番艦であり、1930年代後半に建造された一等駆逐艦である。陽炎型は、軍縮条約の制約から解放された後に設計され、復元性能や船体強度に留意した日本海軍の艦隊型駆逐艦の集大成として評価される。全19隻が建造された陽炎型は、太平洋戦争において新鋭駆逐艦として第一線で活躍したが、終戦まで生き残ったのは同型艦および次級の夕雲型、先行する朝潮型を合わせて48隻中、雪風ただ1隻であった。陽炎は書類上、沈没後に不知火型駆逐艦に改称されたが、本記事では陽炎として扱う。
陽炎は、艦隊決戦を想定した設計思想のもと、強力な魚雷戦能力(特に「長槍」こと九三式酸素魚雷)を備え、同時期の他国駆逐艦と比較して重武装であった。しかし、対空・対潜能力の不足が後年の戦闘で露呈し、護衛任務や輸送作戦での損失を招いた。
2. 諸元・性能
陽炎の主要諸元と性能は以下の通りである。これらは陽炎型駆逐艦全体の標準仕様に基づくが、陽炎個艦の竣工時の状態を反映している。
諸元
- 基準排水量: 2,033トン
- 全長: 118.5m(垂線間長:111.0m)
- 全幅: 10.8m
- 喫水: 3.76m
- 乗員: 240名(士官および下士官兵)
機関
- 主機: 艦本式蒸気タービン2基、3軸推進
- ボイラー: 艦本式重油専焼水管ボイラー3基
- 出力: 52,000馬力
- 最大速力: 35.0ノット
- 航続距離: 5,000海里(18ノット時)
- 燃料: 重油搭載量(詳細は非公開だが、陽炎型標準で約500トン程度と推定)
兵装
- 主砲: 50口径12.7cm連装砲3基6門(艦首1基、艦尾2基)
- 対空兵装: 25mm連装機銃2基4挺(初期装備、後期に増設の可能性)
- 魚雷: 61cm四連装魚雷発射管2基8門(九三式酸素魚雷、予備魚雷8本搭載)
- 爆雷: 爆雷投射機2基、爆雷36個
- その他: 掃海具装備
陽炎の設計は、先行する朝潮型駆逐艦を基盤に拡大改良され、安定性と魚雷戦能力を強化。特に九三式魚雷の長射程と高威力は、夜戦での艦隊決戦において大きな脅威となり、陽炎型を当時世界最強クラスの駆逐艦に位置づけた。しかし、対空機銃の不足やレーダー未搭載(初期)は、太平洋戦争の空母中心の戦闘環境で弱点となった。
3. 建造経緯
陽炎は、1937年(昭和12年)の第三次軍備補充計画(③計画)に基づき、仮称「第17号艦」として計画された。1937年9月3日に舞鶴海軍工廠で起工し、1938年4月15日に陽炎型駆逐艦として命名。同年9月27日に進水し、1939年11月6日に竣工した。陽炎型の中では3番目の起工だが、最も早く竣工し、名実ともに1番艦となった。艤装員長(初代駆逐艦長)は山本岩多中佐。
建造は、1934年のワシントン海軍軍縮条約破棄通告後の自由な設計環境下で行われ、太平洋広域での作戦を想定した大型駆逐艦として整備された。陽炎の竣工は、日本海軍が艦隊決戦型駆逐艦の完成形を追求した時期を象徴する。
4. 戦歴
陽炎は太平洋戦争開戦から沈没まで、多様な作戦に参加し、特に機動部隊の護衛とソロモン方面の輸送作戦で活躍した。以下に主要な戦歴を時系列でまとめる。
1939年~1941年:訓練と初期配備
- 1939年11月6日: 竣工後、陽炎は第18駆逐隊(霞、霰、不知火)に編入され、第二艦隊・第二水雷戦隊に所属。主に内地で訓練に従事。
- 1940年10月11日: 横浜港沖の紀元二千六百年特別観艦式に参加。
- 1941年12月: 開戦直前、第18駆逐隊は南雲機動部隊(第一航空艦隊)の護衛部隊として真珠湾攻撃に参加準備。
1942年:機動部隊護衛と南方作戦
- 1941年12月7日: 真珠湾攻撃。陽炎は南雲機動部隊の護衛として参加し、空母6隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴)を護衛。戦闘には直接関与せず、無事に帰還。
- 1942年1月: ラバウル攻略作戦を支援。翔鶴、瑞鶴をトラックからラバウルまで護衛。
- 1942年2月: ポートダーウィン空襲、ジャワ南方機動作戦に参加。第18駆逐隊として第二航空戦隊を護衛。
- 1942年3月1日: オランダ商船モッドヨカード(8,020トン)を不知火、磯風、有明、夕暮と共同で撃沈。遠距離砲撃による弾薬消費が問題視された。
- 1942年4月: セイロン沖海戦(インド洋作戦)。英軍の軽空母ハーミーズや重巡2隻などを撃沈する戦果を間接的に支援。作戦後、呉で入渠修理。
- 1942年6月: ミッドウェー作戦。陽炎は輸送船団護衛を担当し、主力空母部隊の壊滅を遠方から目撃。戦闘には関与せず、撤退。
1942年7月~1943年:ソロモン方面への転戦
- 1942年6月~7月: 第18駆逐隊は北方作戦(アリューシャン方面)に従事。陽炎はキスカ島への輸送船護衛を担当。7月5日、僚艦の不知火、霞、霰が米潜水艦グロウラーに攻撃され、霰沈没、不知火・霞大破。陽炎は出港遅延により難を逃れる。
- 1942年7月20日: 第18駆逐隊の戦力喪失により、陽炎は第15駆逐隊(黒潮、親潮、早潮)に編入され、第二水雷戦隊の指揮下でソロモン方面へ転戦。
- 1942年8月: 第二次ソロモン海戦。陽炎はガダルカナル島のヘンダーソン飛行場への艦砲射撃に参加。米潜水艦撃沈を報告したが、記録の裏付けなし(誤認の可能性)。単艦でガダルカナル島への偵察・対地砲撃も実施。
- 1942年11月: 第三次ソロモン海戦。戦艦サウスダコタと遭遇したが、識別遅延と魚雷射点の喪失により攻撃失敗。ルンガ沖夜戦では輸送隊として参加し、ドラム缶投入中に米重巡ノーザンプトンを僚艦(黒潮、親潮ら)と共同で撃沈する大戦果を挙げる。
- 1942年12月: ガダルカナル島やムンダへの輸送作戦(鼠輸送)に従事。陽炎は黒潮、親潮、浦風らと複数回の輸送を成功させる。
1943年:最期
- 1943年5月8日: ソロモン諸島クラ湾での輸送作戦中、陽炎は黒潮、親潮と共に米軍敷設の機雷に触雷。損傷により航行不能となり、米軍機の攻撃を受けて沈没。生存者の詳細は不明。同年6月20日、除籍。
5. 戦史的評価
陽炎は、陽炎型駆逐艦の1番艦として、太平洋戦争の初期から中期にかけて多様な任務を遂行した。真珠湾攻撃やセイロン沖海戦では機動部隊の護衛として間接的な役割を果たし、ソロモン方面では輸送作戦や夜戦で直接的な戦果を挙げた。特にルンガ沖夜戦でのノーザンプトン撃沈は、陽炎型駆逐艦の魚雷戦能力の高さを示す戦果である。
しかし、陽炎の戦歴は陽炎型の設計思想の限界も浮き彫りにする。艦隊決戦を前提とした重魚雷装備は夜戦で有効だったが、対空・対潜能力の不足は護衛任務や敵航空機・潜水艦の脅威が増す後期の戦局で致命的だった。陽炎の沈没原因である機雷と空襲は、この弱点を象徴する。戦史研究家の大浜啓一は、陽炎型が「第一線級駆逐艦として奮戦した」と評価する一方、輸送作戦での損耗を指摘している。
また、陽炎の戦歴は、駆逐艦の多機能化の必要性を示唆する。陽炎は護衛、輸送、夜戦、対地攻撃と多岐にわたる任務をこなしたが、設計段階で想定されていなかった任務(特に空母護衛や鼠輸送)での酷使が、陽炎を含む陽炎型の高い損失率(19隻中18隻戦没)に繋がった。

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