山城(やましろ)は、大日本帝国海軍の戦艦。扶桑型戦艦の2番艦として横須賀海軍工廠で建造され、大正6年(1917年)3月31日に竣工した。艦名は畿内の旧国名・山城国に由来する。
日本初の純国産超弩級戦艦として設計された扶桑型は、36センチ連装砲6基12門という強大な主砲を持ちながら、砲塔配置の問題や速力の低さなど構造上の欠陥を抱えた艦でもあった。しかし山城は昭和天皇の御召艦を務めるなど帝国海軍を代表する艦として長く活躍し、最後はレイテ沖海戦・スリガオ海峡夜戦において旗艦として西村祥治中将とともに散った。
大正2年(1913年)11月20日、横須賀海軍工廠で「仮称第四號戦艦」として起工。大正3年(1914年)10月12日に「山城」と命名され、翌大正4年(1915年)11月3日に伏見宮博恭王臨席のもと進水式が挙行された。そして大正6年(1917年)3月31日に竣工した。
姉妹艦の扶桑より2年遅れての就役であったが、この2年の差が艦橋構造など細部の違いを生み出すこととなった。特に山城の前檣楼(艦橋)背面には大きく張り出した構造物があり、これは戦隊司令部の作戦室・通信室として機能した。後にこの設備が「山城を旗艦とした理由」のひとつになる。
昭和2年(1927年)7月、昭和天皇が「聯合艦隊の戦闘射撃及爆撃実験御覧」の際、山城が御召艦に指定された。乗員1,334名で横須賀を出港し、佐伯湾・奄美大島・小笠原諸島を航海。豊後水道では空母赤城・鳳翔の艦載機訓練や戦艦長門・陸奥の夜間射撃訓練を天皇が天覧した。
昭和3年(1928年)12月から翌年にかけては連合艦隊旗艦も務め、昭和9年(1934年)から1年間は後の南雲機動部隊司令長官・南雲忠一大佐が艦長を務めた。
太平洋戦争開戦後は、扶桑とともに内地での待機・練習艦任務が続いた。「艦内は隅々まで手入れが行き届き光り輝いていた」との証言がある一方、『鬼の山城・蛇の長門』と乗組員から畏れられた艦でもあった。昭和18年(1943年)10月には航空戦艦伊勢とともに輸送任務にも従事している。
昭和19年(1944年)9月10日、第二戦隊が再編され西村祥治中将が司令官に着任。山城は第二戦隊旗艦となった。同月23日、山城は柱島を出撃してリンガ泊地へ進出し第二艦隊に合流した。
10月、米軍がレイテ島への上陸を開始し捷一号作戦が発令される。第一遊撃部隊(栗田艦隊)の一部として、山城・扶桑を中核とする第三部隊(西村部隊)はスリガオ海峡からレイテ湾へ突入する別働隊に指定された。燃料補給の遅延により栗田艦隊主力との共同行動が不可能となったためだ。
10月22日午後3時30分、西村部隊7艦はブルネイを出撃した。
| 艦種 | 艦名 | 備考 |
|---|---|---|
| 戦艦(旗艦) | 山城 | 西村中将座乗 |
| 戦艦 | 扶桑 | 扶桑型1番艦 |
| 航空巡洋艦 | 最上 | 偵察目的で参加 |
| 駆逐艦 | 満潮・朝雲・山雲 | 第4駆逐隊(朝潮型) |
| 駆逐艦 | 時雨 | 第27駆逐隊・白露型 |
10月24日午前9時頃、スルー海で米空母機27機の攻撃を受け扶桑・最上・時雨が被弾するも各艦の戦闘能力に影響はなかった。山城は生存者の証言によればレーダーが被弾・使用不能となり右舷に5度傾斜したが、左舷への注水により平衡を回復している。
栗田艦隊は激しい空襲で反転。西村中将はこれを知らぬまま10月25日午前0時13分、「二五日〇四〇〇ダラグ沖ニ突入ノ予定」を発信し、単独突入を決意した。
25日未明、西村部隊はスリガオ海峡へ突入。しかし海峡北口には米第7艦隊オルデンドルフ少将の迎撃部隊——戦艦6・重巡4・軽巡4・駆逐艦28の計42艦——が丁字陣形で待ち受けていた。さらに暗号解読により突入時刻・ルートは筒抜けだった。
午前3時10分過ぎ、米駆逐艦部隊が左右から挟撃を開始。扶桑が被雷・落伍し大爆発を起こし沈没。護衛駆逐艦も山雲が轟沈、満潮・朝雲が被雷して脱落。戦列を維持できたのは山城・最上・時雨の3艦のみとなった。
午前3時40分、西村司令官は山城から最後の命令を発した。
午前3時51分、米巡洋艦群が砲撃を開始。続いて米戦艦群もレーダー射撃を始め、史上最後の戦艦同士の砲撃戦が展開された。米戦艦6艦の主砲発射弾数は計272発、巡洋艦部隊は8インチ・6インチ砲計約3,000発を山城に集中させた。
山城は満身創痍になりながらも副砲で応戦を続けた。4時11分、米駆逐艦から発射された魚雷が命中し航行不能に陥る。篠田艦長が総員退去を命じてから2分以内に、山城は右舷へ傾斜し艦尾から沈没した。
沈没時刻:昭和19年10月25日 午前4時19分
沈没位置:北緯10度22.3分、東経125度21.3分(米軍記録)
水深:約75m
山城沈没時の乗組員は約1,500名。生存者は10名のみで、米軍に救助され戦後帰還した。漂流中に救助を拒み溺死した者、陸地に上陸したが現地住民に殺害された者が多数に上ったとされる。
機動部隊を率いた小沢治三郎中将は戦後、こう語っている。
山城の生還者のひとりで主計長を務めた江崎寿人主計大尉は次のように証言している。「日本海軍がアメリカ海軍に負けたのであって、西村司令官の責任ではない。当時の誰でも西村司令官以上の指揮はできず、あの状況下では最善の指揮だったと信じている」「艦を沈めたのは4発の魚雷であり、艦砲射撃は終末を早めたのみである」
圧倒的な兵力差のなか、旗艦山城が沈没する直前まで主砲・副砲による反撃を続けた事実は米軍記録にも記されている。スリガオ海峡の暗い海に眠る山城と西村艦隊の将兵たちの奮戦は、太平洋戦争史に永く刻まれるべきものである。
本記事は猫工艦資料集シリーズVer4「扶桑・山城/戦史スリガオ海峡夜戦」およびWikipedia「山城(戦艦)」をもとに構成しています。
参考:学研歴史群像各号、モデルアート社艦船模型スペシャル各号、アジア歴史センター所蔵図面、福田幸弘『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』他





