蘭印作戦1942——H作戦・石油を巡る帝国の闘い:タラカンからジャワ島降伏まで全記録

石油なき帝国は動けない——1942年1月11日、蘭印作戦が発動された。タラカン・メナド・バリクパパン・アンボン・パレンバン・バリ島・スラバヤ沖・ジャワ島。8つの作戦と海戦を参加艦隊・艦名・時系列で克明に記録した完全版。

1942年1月11日未明——ボルネオ島北部の暗い海岸に、日本軍の上陸用舟艇が殺到した。タラカン島。そこには蘭印最初の油田があった。石油なき帝国は動けない。この一点に向けて、日本軍は太平洋戦争開戦以来、すべての作戦を積み上げてきた。マレー、フィリピン、香港——それらはすべて、この瞬間のための布石だった。H作戦、始動。

IJA/IJN · DUTCH EAST INDIES CAMPAIGN · 1942 蘭印作戦 H作戦 Dutch East Indies Campaign
作戦期間
1942年1月11日
〜 1942年3月9日
作戦名
H作戦
Holland → 石油資源獲得
日本軍司令官
今村均 中将
第16軍司令官
日本軍総兵力
約97,800名
第一次上陸:55,000名
連合軍総兵力
約81,000名
蘭印軍65,000 + 米英豪16,000
結果
日本軍の完全勝利
捕虜82,618名・石油資源確保
南方作戦・蘭印作戦展開図
H作戦(蘭印作戦)の展開図。ボルネオ・スマトラ・ジャワへの段階的攻略ルート。©猫工艦

H作戦の戦略的背景——「石油なき帝国は動けない」

蘭印(オランダ領東インド・現インドネシア)は1939年時点で年産800万トンの石油を産出していた。当時の日本の年間需要量500万トンを大幅に上回るこの数字が、南方作戦全体の根幹に横たわっていた。

1941年8月、米国の石油禁輸措置により日本の石油備蓄は急速に枯渇し始めた。計算では18ヶ月で底をつく。海軍の艦船は動けなくなり、航空機は飛べなくなる。帝国の存続そのものが蘭印の石油にかかっていた。

蘭印の資源(1939年)
石油:年産800万トン(日本需要500万トンを超過)
錫:世界第3位の産出量
ボーキサイト:航空機生産に必要な原料
ゴム:世界第2位の産出量

E作戦(マレー)・M作戦(フィリピン)・C作戦(香港)——これらすべての作戦は、最終目標であるH作戦のための「包囲網形成」だった。英米の軍事力を削ぎ落とし、援軍ルートを遮断した上で、石油資源を持つ蘭印を一気に攻略する——これが南方作戦の本命だった。

日本軍の全参加部隊

陸軍・第16軍(今村均中将)

部隊 師団長 編成地 主な担当
第2師団丸山政男 中将仙台ジャワ島西部・バタビア攻略
第38師団佐野忠義 中将香港攻略後転属パレンバン・ジャワ中部
第48師団土橋勇逸 中将マニラ攻略後転属ジャワ島東部・スラバヤ攻略
坂口支隊坂口静夫 少将第56師団歩兵第146連隊基幹タラカン・バリクパパン・ジャワ東部
第1挺進団久米精一 大佐仏印編成パレンバン空挺作戦
第3飛行集団菅原道大 中将制空権確保・地上支援(179機)

海軍・蘭印部隊(高橋伊望中将)

部隊 指揮官 主力艦艇
第五戦隊高木武雄 少将重巡那智(旗艦)・羽黒
第七戦隊栗田健男 少将重巡熊野鈴谷三隈最上
第二水雷戦隊田中頼三 少将軽巡神通・駆逐艦7隻(雪風・天津風 他)
第四水雷戦隊西村祥治 少将軽巡那珂・駆逐艦6隻(村雨・夕立・春雨 他)
第11航空艦隊塚原二四三 中将陸上攻撃機190機
第1航空艦隊(機動部隊)南雲忠一 中将空母6隻・艦載機190機(作戦終盤参加)

第一幕:タラカン・メナド——1942年1月11日 蘭印作戦開始

1942年1月11日、二つの作戦が同時に発動された。ボルネオ島北部の油田地帯タラカンと、セレベス島メナドへの上陸だ。

タラカン上陸(1月11日)——最初の油田へ

坂口支隊(坂口静夫少将)と呉第2特別陸戦隊は、1月11日未明にタラカン島に上陸した。守備する蘭印軍は約1,400名。沿岸砲による砲撃で日本軍の掃海艇2隻が撃沈され海軍は戦死156名を出したが、陸軍の坂口支隊の戦死はわずか7名にとどまった。

1月13日、タラカン守備隊降伏。蘭印最初の油田が日本の手に落ちた。

メナド上陸(1月11日)——史上初の海軍空挺作戦

同日、セレベス島メナドへの攻略が行われた。ここで歴史的な作戦が実行された——日本軍史上初の空挺作戦だ。

史上初の日本海軍空挺作戦
横須賀第1特別陸戦隊(堀内豊秋中佐)の落下傘兵334名がランゴアン飛行場へ降下。陸軍に配慮して報道は留め置かれた。日本軍の損害はほとんどなかった。

地上からは佐世保連合特別陸戦隊(合計3,200名)がメナド東西両岸に上陸。空挺と地上部隊の挟撃によりメナドは迅速に攻略された。南洋の航空基地として次の作戦への足がかりが確保された。

第二幕:バリクパパン沖海戦——1942年1月24日 米駆逐艦の夜間急襲

1月24日、坂口支隊はタラカンを出発し、次の目標ボルネオ島のバリクパパンへ上陸を開始した。しかし夜明け前、思わぬ反撃が待っていた。

■ バリクパパン沖海戦(1942年1月24日)■
夜間
アメリカ海軍駆逐艦4隻(ジョン・D・フォード・ポール・ジョーンズ・パロット・ポープ)が上陸中の日本輸送船団へ急襲
結果
日本輸送船2隻沈没・戦死39名。米駆逐艦は全艦離脱成功。しかし坂口支隊主力の上陸は完了しており作戦への影響は限定的
1月25日
坂口支隊がバリクパパン一帯の占領完了。陸上戦死はわずか8名

バリクパパンの油田施設は蘭印軍によって破壊工作が施されていたが、日本軍は迅速な占領により大規模破壊を防ぐことに成功した。

第三幕:アンボン攻略——1942年1月31日 モルッカの要衝

モルッカ諸島の中心地アンボンは、オランダが1599年以来の拠点として要塞と航空基地を構築していた。守備するのはオーストラリア軍1,200名・蘭印軍400名・現地軍1,400名、計3,000名だった。

攻略部隊

部隊 指揮官 兵力
東方支隊(第38師団歩兵第228連隊基幹)伊東武夫 少将5,300名
呉第1特別陸戦隊750名

1月24日、空母「蒼龍」「飛龍」の艦載機がアンボンを空襲。1月31日未明、東方支隊主力がアンボン東側に、呉第1特別陸戦隊が北側に上陸した。

激しい戦闘の末、2月3日にラハ飛行場守備隊が降伏。アンボン市内の蘭印軍司令官カーピス中佐以下800名は2月1日未明に投降していた。東方支隊の損害は戦死55名・戦傷135名。蘭印軍の遺棄死体340名・捕虜2,182名。

第四幕:パレンバン空挺作戦——1942年2月14日 「空の神兵」油田を奪取

南方作戦最大のヤマ場の一つが、スマトラ島パレンバンへの空挺作戦だった。パレンバンにはロイヤル・ダッチ・シェルが操業する東南アジア最大の製油所があった。これを無傷で奪取できるかどうかが、H作戦成否の鍵を握っていた。

なぜ空挺作戦が必要だったか
パレンバンはムシ川河口から約100km内陸。上陸用舟艇で遡上中に製油所を破壊される危険があった。空挺部隊で奇襲占領し、次いで地上部隊で確保する——これしか方法がなかった。

2月14日——降下開始

■ パレンバン空挺作戦 時系列 ■
2月14日
挺進第2連隊329名が一〇〇式輸送機・ロ式輸送機に搭乗。加藤隼戦闘隊(飛行第64戦隊・一式戦「隼」)が直掩
11時30分
パレンバン市街地北方10kmの飛行場東西両側に落下傘降下。久米大佐の団長機が湿地帯に強行着陸。完全な奇襲となった
空中戦
帰還中のイギリス軍ハリケーン15機と加藤隼戦闘隊が交戦。ハリケーン2機撃墜(うち1機は加藤建夫少佐の戦果)・2機不時着。隼側の損害ゼロ
21時
降下部隊が飛行場を確保
2月15日
第2梯団がパレンバン市街地南側に降下。パレンバン市街を占領。石油25万トン・製油所を大規模破壊なしに確保

挺進兵329名中の損害は戦死39名・戦傷入院37名・戦傷在隊11名。しかし製油所をほぼ無傷で確保したという戦果は計り知れなかった。日本内地では大本営発表第192号で「空の神兵」として喧伝され、国民の熱狂を呼んだ。

第五幕:バリ島沖海戦——1942年2月19日 ABDA艦隊の最初の反撃

2月19日、金村支隊(第48師団台湾歩兵第1連隊の一部)がバリ島に上陸。守備隊の抵抗はほとんどなかった。しかしカレル・ドールマン少将率いるABDA艦隊が黙っていなかった。

バリ島沖海戦(2月19日深夜〜20日早朝)

陣営 兵力 損害
日本(駆逐艦4隻)駆逐艦4隻駆逐艦1隻大破
ABDA艦隊(軽巡3・駆逐7)軽巡3隻・駆逐艦7隻駆逐艦1隻沈没・軽巡1隻中破・撃退

数的に優勢なABDA艦隊が撃退された。多国籍艦隊のため部隊として円滑に行動できなかったことが敗因だった。ドールマン少将はこの教訓を胸に、次の決戦へと向かう。

第六幕:スラバヤ沖海戦——1942年2月27日 ABDA艦隊の落日

蘭印作戦最大の海戦。第16軍のジャワ島上陸を阻止すべく、ドールマン少将率いるABDA打撃艦隊が出撃した。

双方の艦隊

陣営 主力艦 指揮官
🇯🇵 日本重巡那智(旗艦)・羽黒、軽巡神通那珂、駆逐艦14隻高木武雄 少将
🇳🇱🇺🇸🇬🇧🇦🇺 ABDA軽巡デ・ロイテル(旗艦)・ジャワ、重巡ヒューストンエクセター、軽巡パース、駆逐艦9隻カレル・ドールマン 少将
■ スラバヤ沖海戦 時系列 ■
16時過ぎ
ジャワ海で両艦隊が会敵。那智・羽黒の20cm砲が先制砲撃開始
16時30分
九三式酸素魚雷がオランダ駆逐艦「コルテノール」に命中・轟沈
17時頃
イギリス重巡「エクセター」が機関室に被弾・大破落伍。ABDA陣形崩壊
17時30分
イギリス駆逐艦「エレクトラ」撃沈。米駆逐艦群が魚雷撃ち尽くし撤退
夜間
イギリス駆逐艦「ジュピター」が機雷触れ沈没
深夜
「Ik val aan, volg mij!(我、攻撃す。全艦我に続け!)」——ドールマン少将、残存4隻で輸送船団への最後の突撃を命令
深夜
那智・羽黒の魚雷が「ジャワ」「デ・ロイテル」に命中・両艦沈没。ドールマン少将、愛艦と共に戦死

第七幕:バタビア沖海戦——1942年3月1日 最後の抵抗

スラバヤ沖海戦を生き延びた「ヒューストン」と「パース」はジャワ海からの脱出を試みた。しかし3月1日未明、バンタム湾で日本軍の上陸輸送船団を発見し攻撃を敢行した。

時刻 出来事
3月1日未明「ヒューストン」「パース」がバンタム湾の日本輸送船団を発見・砲撃
直後重巡「三隈」「最上」(第七戦隊)が応戦。バタビア沖海戦となる
3月1日パース」撃沈・「ヒューストン」撃沈。ABDA艦隊事実上壊滅
〔日本側の損害〕「最上」の魚雷誤射により揚陸艦「神州丸」・輸送船「佐倉丸」等が沈没。今村均中将も海に投じられ重油の海を3時間漂流
第16軍司令官・今村均中将が重油まみれの海を漂流するという前代未聞の事態が発生したが、上陸作戦全体への影響は限定的だった。今村中将は後にジャワ統治において現地人への温情ある施政で知られることになる。

さらに3月1日、脱出を試みていたイギリス重巡「エクセター」と駆逐艦「エンカウンター」「ポープ」も日本艦隊に捕捉され撃沈された。駆逐艦4隻が辛うじてオーストラリアへ脱出したのみで、ABDA艦隊は完全に消滅した。

第八幕:ジャワ島上陸・降伏——1942年3月1日〜9日

海上の制海権を完全に確保した日本軍は、3月1日、ジャワ島への一斉上陸を開始した。

三方向からの電撃上陸

上陸部隊 上陸地点 目標
第2師団(今村中将直率)ジャワ島西部・メラク海岸バタビア・バンドン要塞攻略
東海林支隊(第38師団歩兵第230連隊)ジャワ島中部・エレタンカリヂャチィ飛行場占領
第48師団・坂口支隊ジャワ島東部・クラガンスラバヤ・チラチャップ攻略
■ ジャワ島攻略 時系列 ■
3月1日
三方向から一斉上陸開始
3月3日
蘭印軍がカリヂャチィを奪回しようと戦車・装甲車で逆襲。若松挺身隊が撃退
3月5日
佐藤支隊が首都バタビア占領
3月6日
那須支隊がボイテンゾルグ占領。第48師団が東部兵団司令官イルヘン少将を降伏させる
3月7日
若松挺身隊700名がバンドン要塞外郭レンバンへ電撃突入。バンドン地区防衛兵団司令官ペスマン少将が降伏を申し入れ
3月7日
坂口支隊がチラチャップへ突入(400km踏破)
3月9日
蘭印総督スタルケンボルフおよび連合軍全部が降伏。H作戦完全達成。

バンドン要塞——700名が5万を降伏させた奇跡

バンドン要塞には5万の連合軍があると予想されていた。しかし若松挺身隊わずか700名が要塞の一角レンバンに電撃突入し重要陣地を占領した時、バンドン守備司令部は「わずかな兵力で突入してくるはずがない、背後に大部隊がいるに違いない」と判断した。3月7日22時、ペスマン少将は若松挺身隊に降伏を申し入れた。

翌8日の交渉でオランダ側は守備隊のみの降伏を主張したが、日本側は連合軍全部の降伏を要求。3月9日、ラジオ放送で全軍降伏の指示が伝達された。12日にはバンドン東方の英豪軍8,000名も降伏し、連合軍全部の降伏が完了した。

H作戦の戦果——大本営の予想を超えた圧勝

項目 大本営予想 実際の結果
ジャワ島上陸開戦後103日84日(19日早く)
蘭印軍降伏開戦後120日90日(30日早く)
捕虜数82,618名
輸送船損失2隻のみ(バリクパパン沖)
石油施設一部確保大規模破壊なしに確保

「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」——帰還した日本兵たちはこう語った。H作戦は大本営の予想をはるかに超える圧勝で終わった。

猫工艦の考察:H作戦が示した「短期決戦の完成形」と「その後の悲劇」

蘭印作戦を通じて見えてくるのは、日本軍が緒戦においていかに精密で合理的な作戦を遂行できたかという事実だ。空挺作戦・海上護衛・陸上電撃戦——各戦力が有機的に連携し、大本営予想を30日も上回るスピードで全目標を達成した。

しかし同時に、この「完璧な勝利」がその後の悲劇の種を蒔いていた。蘭印の石油は確かに手に入った。しかし海上護衛の体制が整わないまま戦争が長引くにつれ、内地との輸送路が米潜水艦に断ち切られ、豊富な資源を持ちながらも蘭印は戦略的価値を失っていく。

また蘭印はオランダの植民地支配への反感から当初日本軍を歓迎したインドネシア人も多かった。「ジョヨボヨの予言」——黄色い肌の民族が白人を追い払い、やがて去り、独立が訪れる——この伝説が現実となり、1945年8月17日、スカルノとハッタはインドネシア独立を宣言した。H作戦の「副産物」として、インドネシアという国家の独立が生まれたのだ。

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■ 参考文献・資料

  • ・防衛庁防衛研修所戦史室(編)『戦史叢書 蘭印攻略作戦』朝雲新聞社、1967年
  • ・防衛庁防衛研修所戦史室(編)『戦史叢書 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』1969年
  • ・アジア歴史資料センター(JACAR)Ref.C08030042300〜C08030043000「第5戦隊戦闘詳報」
  • ・アジア歴史資料センター(JACAR)Ref.C08030091000〜C08030092100「蘭印部隊第2護衛隊」
  • ・Wikipedia「蘭印作戦」「スラバヤ沖海戦」「パレンバン空挺作戦」「バタビア沖海戦」
  • ・伊藤正徳『帝国陸軍の最後 1 進攻篇』1981年
  • ・奥宮正武『蘭印作戦』(学研M文庫)
  • ・米国陸軍公刊戦史 “East Indies – 1 January-22 July 1942″(Center of Military History)

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