三亜(楡林)——日本海軍南方作戦の前進基地:マレー作戦出撃地の全貌

1941年12月4日、海南島南端の三亜(楡林港)から日本海軍の大艦隊が出撃した。重巡「鳥海」を旗艦とする馬来部隊・輸送船18隻——マレー作戦の幕を開けたこの港の正体とは。楡林港・三亜航空基地・海南警備府の全貌を一挙解説。

1941年12月4日、南シナ海に面した海南島南端の港——三亜(楡林)から、日本海軍の大艦隊が静かに錨を上げた。輸送船18隻・護衛艦艇21隻。マレー半島へ向かうこの船団が、太平洋戦争の幕を開ける作戦の主役だった。三亜とはいかなる場所だったのか。

三亜(楡林)——マレー作戦出撃ルート地図
三亜(海南島南端・楡林港)からマレー半島へ向かう1941年12月の出撃ルート。©猫工艦
IJN · SANYA / YULIN BASE · 1939–1945 三亜(楡林)海軍前進基地 基本データ
占領
1939年2月
海南島上陸作戦
司令部
海南警備府
Samah(三亜)に設置
終戦
1945年9月
米軍空襲を経て終戦

三亜の地理——なぜここが選ばれたのか

海南島は中国本土の南端、雷州半島の先端から南に約20kmに位置する大島だ。その最南端に位置する三亜(当時の呼称:Samah、楡林)は、南シナ海に突き出た天然の良港を持ち、古くから海上交通の要衝として知られていた。

日本海軍がこの地に目をつけた理由は明快だ。三亜から南に針路を取れば、マレー半島まで約1,800km。フィリピンへは約1,200km。南方資源地帯——蘭印(現インドネシア)のボルネオ油田まで約2,500kmという絶好の中継地点だった。

戦略的価値まとめ
・南シナ海を制する天然の深水港(楡林港)
・マレー半島・フィリピン・蘭印への中間拠点
・航空機の行動半径内に英領マラヤを収める
・鉄鉱石・銅など資源略奪の前線基地

1939年——海南島占領作戦

1939年2月9日から11日にかけて、日本軍(第5艦隊ほか)は海南島への上陸作戦を敢行した。北部の海口(ハイコウ)と南部の三亜・楡林を同時に攻略するという電撃作戦だった。

南部への上陸は迅速だった。楡林(Yulin)とYai-Hsienを短時間で制圧し、天然良港・楡林港を無傷で確保することに成功した。この時点から三亜は、日本海軍南支那方面の前進基地としての整備が本格的に始まる。

楡林港——南海艦隊の泊地

楡林港(Samah Harbour)は海南島南端に位置する深水の天然港だ。大型艦艇の停泊が可能で、補給・修理機能を備えた海軍泊地として整備された。

ここに置かれた海南警備府は、南支那海一帯の海軍行政を統括する司令部として機能した。舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊などの警備部隊が常駐し、作戦に応じて艦隊が進出・出撃する体制が整えられた。

水上機基地も併設され、哨戒・索敵任務に当たる零式水上偵察機が常駐。広大な南シナ海の「目」として機能した。

三亜航空基地——十字型滑走路の要塞

1939年の占領直後から第44根拠地隊が設営を開始した三亜航空基地は、当時としては本格的な設備を誇った。

施設 仕様
第1滑走路NNW/SSE方向 コンクリート舗装 1,100m × 60m
第2滑走路WSW/ENE方向 コンクリート舗装 1,350m × 70m
格納庫大型格納庫複数棟
水上機設備南側に水上機誘導路・スロープあり

常設部隊は少なく、作戦に応じて各航空隊が進出する運用がとられた。1943年10月以降は海口航空隊・第254航空隊(戦闘機)・三亜航空隊(練習・防空・対潜)が活動。戦争末期には米軍の空襲に対応する防空任務が主となった。

※三亜航空基地の跡地近くには、現在三亜鳳凰国際空港が建設されている。

1941年12月——マレー作戦出撃

三亜が歴史にその名を刻んだ最大の瞬間が、1941年12月4日の出撃だった。

小沢治三郎中将率いる馬来部隊(南遣艦隊)——重巡「鳥海」を旗艦とする艦隊と輸送船18隻——が楡林港から静かに出撃。マレー半島のコタバル・シンゴラ・パタニへ向かう大船団だった。この艦隊がマレー半島に到達した12月8日(日本時間)、太平洋戦争の幕が切って落とされた。

三亜はまさに「開戦の出撃地」だった。

▼ 三亜から出撃した主要艦艇(マレー作戦)

  • 重巡洋艦:鳥海・熊野・鈴谷・三隈・最上
  • 軽巡洋艦:川内・香椎
  • 駆逐艦:綾波・磯波・浦波・敷波ほか計14隻
  • 輸送船:18隻(将兵約2万名)

南方作戦全体における三亜の役割

マレー作戦だけではない。三亜は日本海軍の南方進出全体において、補給・中継・哨戒の要として機能し続けた。

蘭印作戦(1942年1〜3月)、ビルマ作戦支援、インド洋通商破壊作戦——いずれの作戦においても、三亜は南シナ海を渡る艦船の補給拠点として重要な役割を果たした。水上機母艦から発進する零式水偵は南シナ海の広大な海域を哨戒し、連合軍艦船の動向を本国へ送り続けた。

1943年——米軍の空襲と基地の苦境

1943年5月以降、米軍による三亜への空襲が本格化した。B-24爆撃機による滑走路・港湾施設への攻撃は繰り返され、基地機能は徐々に低下していった。

それでも三亜の戦略的価値は失われず、日本軍は終戦の1945年9月まで海南島を保持し続けた。

現代の三亜——遺構と継承

戦後、三亜は中国に返還された。現在の三亜市は人口約100万人を擁する中国有数のリゾート都市として発展している。

しかし軍事拠点としての三亜は今も健在だ。楡林港は現在も中国人民解放軍海軍・南海艦隊(楡林海軍基地)の重要基地として使用されており、旧日本軍施設の遺構の一部が残る可能性があるが、軍事区域のため詳細確認は困難な状況だ。

また三亜航空基地の跡地近くには三亜鳳凰国際空港が建設され、現在は年間数百万人が利用する民間空港として機能している。戦時中の滑走路レイアウトの痕跡を現代の衛星写真に重ねると、基地の規模と当時の日本軍の土木技術の高さが浮かび上がってくる。

猫工艦の考察:三亜が示す「南進論」の現実

三亜という場所を深く調べると、日本海軍の南方作戦が単なる「侵略」ではなく、綿密な地政学的計算の上に構築されていたことが見えてくる。天然良港・深水泊地・十字型コンクリート滑走路——これだけの設備を1939年から2年かけて整備したことは、1941年のマレー作戦が決して即興ではなかったことを示している。

マレー作戦で「不沈艦」プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈した第一航空部隊の陸攻隊も、三亜・海南島を拠点として作戦行動を行った。三亜なくして、マレー沖海戦の奇跡的勝利はなかったとも言える。

そして現代——同じ楡林港に今は中国海軍の原子力潜水艦が停泊している。三亜という場所が持つ地政学的価値は、80年の時を経ても変わっていない。

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参考:en.wikipedia.org「Hainan Island」、ww2db.com「Hainan」、navgunschl2.sakura.ne.jp、fepow.family、アジア歴史資料センター(JACAR)ほか

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