1942年(昭和17年)6月15日、未明の北太平洋——艦首が90度に折れ曲がり、垂れ下がったまま、一隻の駆逐艦がたった5ノットの後進で霧の海を這っていた。前進できない。砲が撃てない。燃料もほぼない。普通の艦なら三日前に沈んでいる状況だ。しかしこの艦だけは、沈まなかった。艦名は「響(ひびき)」——特型駆逐艦Ⅲ型(暁型)2番艦。
「響」は太平洋戦争を通じて3度の甚大な損傷を被った。艦首を失い、台湾沖で機雷に触れ、大和特攻の直前にも機雷に触れた。その度に、沈まなかった。不沈艦、不死鳥、戦争を生きのびる運命の艦——多くの異名がこの艦に与えられた。特型24隻のうち終戦まで航行可能だったのは、「潮」と「響」のみだった。
そして戦後、「響」は異国の海へと旅立った。ソ連海軍は彼女に新しい名を与えた——「ヴェールヌイ(Верный)」。ロシア語で「真実の、信頼できる」という意味。幾多の死の淵から蘇り続けた艦にふさわしい名だった。その名の響きは今もウラジオストク沖の深い海の底で鳴り続けている。
「響」は1933年(昭和8年)3月31日、舞鶴海軍工廠で竣工した。特型駆逐艦Ⅲ型(暁型)の2番艦——艦型シリーズ全体では22番艦にあたる。竣工後、「響」は「暁」「雷」「電」とともに第六駆逐隊を編成した。この4隻は常に一体となって行動し、「戦場の四姉妹」と呼ばれた。
竣工から太平洋戦争開戦まで、「響」は日中戦争(支那事変)における中国北部での船団護衛、杭州湾上陸作戦、青島上陸作戦などに従事した。1939年(昭和14年)には、ワシントンで客死した前駐米大使・斎藤博の遺骨を運ぶ米重巡「アストリア」を、日星両旗を半旗に掲げながら横浜港へ先導するという、異例の外交的任務も担った。「響」の艦歴は戦争だけではなく、こうした平和の記憶も刻んでいる。
| 艦名 | 竣工 | 最期・結末 | 代表エピソード |
|---|---|---|---|
| 暁(あかつき)★型名艦 | 1932.11.30 | 1942.11.13 第三次ソロモン海戦で探照灯照射・散華 | キスカ爆撃後の響を曳航して護衛。最後に響を救った姉 |
| 響(ひびき)★不死鳥 | 1933.3.31 | 特型唯一・終戦時航行可能。ソ連へ「ヴェールヌイ」として渡る | 3度の大破を乗り越え生還。キスカ撤退作戦418名収容 |
| 雷(いかづち)★騎士道の艦 | 1932.8.15 | 1944.4.13 パラオ北方、米潜水艦に撃沈 | 工藤俊作艦長、英兵422名救助「海の武士道」 |
| 電(いなづま)★救助の僚艦 | 1932.11.15 | 1944.5.15 パラオ南方、米潜水艦に撃沈 | 英重巡エクセター乗員376名救助。雷の前日に実施 |
雪風が「主要な海戦に参加しながら傷つかなかった」不沈艦であるのに対し、「響」の生還の特徴は少し異なる。レイテ沖海戦も大和特攻も、「響」はその直前の損傷修理で出撃できなかったことで死の海峡を回避している。「響」自身の言葉として語り継がれる——「不死鳥の秘密は、修理のタイミングにもあるんだよ」。運命の偶然が、幾度も「響」の命を救った。
1942年(昭和17年)6月12日——キスカ島近海。AL作戦(アリューシャン作戦)でキスカ島を占領した直後の「響」は、「暁」と共に島近海を航行中だった。そこへ5機の米軍爆撃機(B-24またはPBYカタリナ飛行艇)が急降下してきた。
キスカからの帰路、無防備な「響」を守り続けた「暁」は、その4か月後の第三次ソロモン海戦で探照灯を照射しながら散った。「響」は修理中だったため「暁」の最期を直接見届けることができなかった。「私が傷を癒している間、暁たちはソロモン海に行ってしまった。それが私と暁との今生の別れになってしまった——暁に恩返しできなかった」という言葉が乗組員の間で語り継がれた。
1943年(昭和18年)7月——「響」は再びキスカ島近海へ向かっていた。1年前に自分が傷ついた戦場——今度は救出者として。アッツ島玉砕の後、孤立したキスカ島の守備隊約5,200名を撤退させる「奇跡の作戦」に参加するためだ。
「響」の乗員の一人がこう残している——「キスカ島撤退作戦のとき、去年ここで暁に助けてもらったことを思い出した。今度は自分が人を助ける番だ、と思った」。戦場は変わらず霧に包まれていた。しかし「響」の胸には、失った姉妹艦の記憶が確かにあった。
1945年(昭和20年)3月29日——「響」は第七駆逐隊の一員として、戦艦「大和」率いる第二艦隊と共に周防灘を航行していた。4月6日、大和以下の艦艇が沖縄へ向けて出撃する予定だった。「響」もその護衛艦として編入されていた。
そのとき「響」の艦底に、磁気機雷が触れた。スクリューとタービンが損傷し、「響」は航行不能となった。大和特攻への参加は取り消された。
「何度も死にかけた。でも、結局最後まで沈まなかった。なぜかはわからない。ただ——沈まなかった」
「響」の生還を語る乗員たちが口を揃えて言ったとされる言葉(伝承)
——3度の大破を経験しながらも、理由がわからないほど「響」は沈まなかった
1945年(昭和20年)8月15日、終戦。「響」は復員輸送艦として14回、かつての戦地と日本国内を往復し、帰国を待つ将兵・一般市民を送り届けた。戦争が終わっても、「響」の仕事は続いた。
そして1947年(昭和22年)7月5日——ナホトカ港。「響」はソ連海軍に引き渡された。この場に居合わせた日本側の残留乗員たちは、ソ連側乗員に操作法を指導したが、機関関係の説明ではソ連側がただ驚くばかりで自分たちで動かそうともしなかったという。日本の蒸気タービン技術の高さを、引き渡しの瞬間にも「響」は証明した。
「Верный(ヴェールヌイ)——真実の、信頼できる」
ソ連海軍が「響」に与えた新たな艦名・1947年7月22日
——幾多の死の淵から蘇り、決して沈まなかった艦にふさわしい名だった
「響」が授かった「ヴェールヌイ」という艦名は、後にソ連第5艦隊に所属した30-bis型駆逐艦にも受け継がれた。「信頼」という名は、この海の不死鳥にふさわしい遺産となった。そして海上自衛隊の音響測定艦「ひびき」は、名所の響灘に由来するものだが、「響」という名の共鳴は今も海に続いている。
「響」の本質を一言で言えば——「不死鳥の理由は、偶然と必然の重なりにある」だと思う。艦首が吹き飛んでも沈まなかったのは乗員の決死の応急修理という「必然」、台湾沖機雷と周防灘機雷でそれぞれ修理に入ったために大きな海戦を回避できたのは「偶然」——両方が重なって「響」は生き延びた。
「雪風」が「主要な海戦に参加しながら傷つかなかった」不沈艦であるのに対し、「響」は「傷つくたびに蘇った」不死鳥だ。どちらが「より運がよい」のかは問題ではない。大切なのは、どちらも乗員が艦を諦めなかったという事実だ。キスカからの後進帰投も、応急修理も、戦後の復員輸送も——すべて「響」という艦体と乗員の意志が支えた。
「ヴェールヌイ——真実の、信頼できる」という名は、ソ連が「響」に与えた評価だが、猫工艦には別の意味に聞こえる。幾多の死を超えて生き続け、戦後は人を運び、異国の海で静かに眠るまで——「響」という艦は、最後まで本物だった。ウラジオストク沖の冷たい海の底で、その名の響きはまだ続いている。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書『南東方面海軍作戦(1)〜(3)』朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考
- ・片桐大自『帝国海軍全艦艇史』ベストセラーズ
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫
- ・Wikipedia「響 (吹雪型駆逐艦)」「キスカ島撤退作戦」「天一号作戦」
- ・japanese-warship.com「響【暁型駆逐艦 二番艦】」
- ・写真日本の軍艦 第11巻 光人社
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