1942年3月1日午前11時40分、スラバヤ沖海域。病院船だと思い臨検しようと接近した駆逐艦「曙」は、その正体が英重巡洋艦「エクセター」であることに気づいた瞬間、猛烈な砲撃を受けた。燃料も残りわずか。だが艦長・中川実少佐は退却を選ばなかった。「われ燃料つく、突撃す」——たった一隻で重巡洋艦に立ち向かうという決断を、艦は実行に移した。
吹雪型駆逐艦18番艦・曙は、太平洋戦争開戦時、真珠湾攻撃の機動部隊から外れた艦のひとつである。航続力不足という現実的な理由で日本近海の哨戒に留まったが、開戦からわずか3ヵ月後、蘭印作戦の渦中で、曙はその艦歴で最も劇的な一夜を経験することになる。単艦での重巡洋艦への突撃——それは、絶望的な状況下で日本海軍駆逐艦が取った、決死の時間稼ぎだった。
そして——その後の曙は、姉妹艦「漣」の生存者を救い、重巡「最上」の乗員700名を救い、最後はマニラ湾で力尽きるまで、一貫して「誰かを助ける」という役割を担い続けた。たった一夜の突撃に終わらない、長く粘り強い戦争を、この艦は生きた。
1930年11月7日
板垣盛 少佐
34.0kt
(特II型8番艦)
3基6門
9射線
(潮・曙・漣・朧)
エクセターに突撃
マニラ湾空襲で着底
ワシントン海軍軍縮条約による主力艦保有制限の中、補助艦艇の戦力強化を目的に建造された一等駆逐艦。凌波性能を追求した船形、密閉式艦橋による居住性改善、重武装(12.7cm連装砲3基、61cm魚雷9射線)により、当時の列強海軍に衝撃を与えた。曙は大阪・藤永田造船所で建造され、特II型(吹雪型後期型)8番艦として竣工。日本海軍の艦船としては雷型駆逐艦「曙」に続いて2代目にあたる。
曙は1930年11月7日に進水し、1931年7月31日に就役。一等駆逐艦に類別され、第二艦隊第7駆逐隊(潮・曙・漣、後に朧)に編入された。1932年の第一次上海事変では長江水域の作戦に参加している。竣工から太平洋戦争開戦まで、曙は他の特型駆逐艦と同じく、訓練と地域作戦を重ねる平時の艦歴を積んでいった。
1941年12月の真珠湾攻撃の際、第7駆逐隊は第一航空艦隊第一航空戦隊に配属されたが、航続力不足のため攻撃部隊には参加せず、日本近海の哨戒に留まった。ただし、第7駆逐隊司令・小西要人大佐が指揮する第1小隊(潮・漣)は、真珠湾攻撃と並行してミッドウェー島砲撃を実施している。曙自身はこの作戦には加わらなかったが、同じ第7駆逐隊の僚艦が、開戦初日に太平洋の別の戦場で戦っていたという事実は、この駆逐隊全体が置かれていた立場をよく示している。
1942年1月13日、曙は空母「飛龍」「蒼龍」を護衛して呉を出港。1月31日にはアンボン上陸作戦を支援し、2月6日にはマカッサル攻略作戦に第11航空戦隊直衛として参加した。蘭印作戦は順調に進んでいたが、3月1日、曙はその艦歴で最も激しい戦闘に直面することになる。
「われ燃料つく、突撃す」
「エクセターと刺違えると決心した」——艦長・中川実少佐は、後にこの瞬間をこう振り返っている。
——1942年3月1日、スラバヤ沖海戦にて。『第七駆逐隊海戦記』『曙便り』5号に記録された証言より。
午前11時48分から50分にかけて、日本側の第三艦隊が現場に到着。姉妹艦「雷」が曙に接近する中、雷の乗組員は水柱に包まれる曙の姿を目撃した。後年の証言によれば「敵の砲撃する海面の一点に集中して物凄い水柱が林立しており、私は曙がやられたと思った」という。だが曙は沈んでいなかった。誘導のため反転し、駆けつけた僚艦によって「エクセター」を含む英艦2隻が撃沈された。たった一隻の駆逐艦が燃料の限界まで戦場に踏みとどまったことで、戦果に結びつく時間が生まれたのである。
3月末、修理のため横須賀海軍工廠に帰投した曙は、4月末、重巡洋艦「妙高」「羽黒」を護衛してトラック諸島へ向かい、ポートモレスビー攻略作戦に従事した。5月8日の珊瑚海海戦では、高木武雄少将率いるMO機動部隊の一員として参戦。曙は空母「翔鶴」を、姉妹艦「潮」は「瑞鶴」をそれぞれ直衛していたが、米空母ヨークタウンの攻撃隊に発見され攻撃を受ける。「瑞鶴」はスコールの下に逃れて難を逃れたが、曙が護衛していた「翔鶴」に攻撃が集中した。米攻撃隊が「敵空母撃沈」と2度も誤報するほどの被害(実際には大破)を受けながらも、翔鶴は沈まなかった。5月末、曙は瑞鶴を護衛して呉海軍工廠へ帰投した。
6月のミッドウェー海戦では、アラスカ・ダッチハーバーの米海軍基地を攻撃する北方部隊の一員として参戦し、その後横須賀へ帰投。以後、曙は各種南方進攻作戦や、北方・南方での海上護衛・輸送作戦に従事し続けた。
1942年1月の竣工から12年。曙は同じ第7駆逐隊の艦として、姉妹艦「漣」の最期を間近で見届け、その乗員を救うという役割を担った。地味だが確実な救助の積み重ねは、曙の艦歴を特徴づける一貫した姿勢になっていく。10月24日、曙は志摩清英中将の艦隊の一員としてレイテ沖海戦に参戦する。
10月25日、スリガオ海峡海戦で大破し撤退中の重巡「最上」を護衛していた曙は、途中で米軍の空襲を受け、最上が航行不能となる場面に遭遇する。曙は最上の生存者約700名を救助した後、雷撃処分を行った。700名という規模の救助は、この艦が経験した中でも最大規模のものだった。10月31日には、上海から到着した陸軍第一師団をオルモックへ輸送するため、第二次多号作戦に参加。11月1日にオルモックへ到着し、揚陸はほぼ完了。輸送作戦はほぼ成功し、11月4日にマニラへ帰投した。
11月5日、マニラ湾一帯を米軍が空襲し、停泊中の曙は直撃弾2発を受けて炎上、航行不能となった。このため参加予定だった第四次多号作戦に参加できず、代役として駆逐艦「秋霜」が参加することになる。修理のため、曙はキャビテ港第2桟橋に係留された。
キャビテ港第2桟橋には、機関故障を起こしたタンカー「第5蓬莱丸」と、艦首切断の損傷を負った「秋霜」も回航され、岸壁から第5蓬莱丸・曙・秋霜の順で係留されていた。1944年11月13日午後、米空母艦載機がマニラ湾を再び空襲する。第5蓬莱丸は船体後部に直撃弾を受け同日中に大破着底。曙は直撃弾1発・至近弾10数発を受けて左舷に傾斜。外側の秋霜も直撃弾3発を受け、弾薬庫が誘爆して炎上した。曙は翌14日朝、艦橋部のみを海面上に露出させて着底。秋霜も同日朝、右舷を下にして転覆し着底した。乗員48名が戦死、43名が負傷した。同じ湾内に停泊していた「初春」「沖波」も空襲により沈没、「木曾」も着底している。
1945年1月10日、曙は初雪型駆逐艦・第7駆逐隊・帝国駆逐艦籍のそれぞれから除籍された。同年5月5日、第7駆逐隊は解隊された。戦後、曙の船体は1955年から1956年にかけて、「木曾」「秋霜」とともにマニラ現地で浮揚・解体された。播磨造船所(現IHI)の技師による作業だったが、独立直後で財政難だったフィリピン政府にサルベージの資金がなかったため、長らく放置された末の解体は、日本の戦後賠償事業の一環として行われたものだった。
しかし、その粘り強さも無敵を意味するものではなかった。最終的に曙を沈めたのは、敵の決定的な一撃ではなく、停泊中に繰り返された空襲という、艦としてもっとも無防備な状態での被弾だった。「戦って沈む」のではなく、「動けないまま力尽きる」という最期は、戦争末期の日本海軍が置かれていた制空権を失った状況そのものを表している。
曙が残したものは、単艦突撃という一度の英雄的行動だけではない。漣の89名、最上の700名——曙が救った命の総数を思えば、この艦の本当の戦果は、撃沈数ではなく救助数にあったのかもしれない。
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■ 参考文献・資料
- ・大高勇治『第七駆逐隊海戦記』光人社、2010年
- ・あけぼの会編『駆逐艦曙便り1号〜14号』あけぼの会、1979〜1984年
- ・雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集16 駆逐艦 吹雪型[特型]』光人社、1997年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年
- ・歴史群像編集部/田村俊夫「昭和19年の特型(3)」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ70 完全版 特型駆逐艦』学習研究社、2010年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・Morison, S.E. “Coral Sea, Midway and Submarine Actions” / “Leyte, June 1944-January 1945”
- ・Brown, D. “Warship Losses of World War Two”
- ・Wikipedia「曙 (吹雪型駆逐艦)」