1942年8月28日、日没五分前。ソロモン海・サンタイサベル島東方洋上で、駆逐艦「朝霧」の缶室に爆弾が命中し、大火災が発生した。わずか数秒後、2発目の爆弾が前部魚雷発射管を直撃。搭載していた魚雷が誘爆し、朝霧は轟沈した。艦には川口支隊の陸軍将兵約600名のうち一部が乗艦しており、生存者は艦長以下わずか136名。陸軍将兵62名が、海に消えた。
吹雪型駆逐艦13番艦・朝霧は、太平洋戦争開戦から沈没までの約9ヵ月間、絶え間なく前線で戦い続けた艦である。マレー作戦、エンダウ夜戦、パレンバン攻略、ベンガル湾通商破壊作戦、ミッドウェー作戦——その艦歴は途切れることがなかった。そして、ガダルカナル島への陸軍増援部隊を乗せた最初の輸送任務が、そのまま朝霧にとって最後の任務になった。
そして——この日、朝霧を攻撃した米軍急降下爆撃機はわずか十数機だった。制空権を持たない海域で輸送を強行することの代償を、朝霧は身をもって示すことになる。
1928年12月12日
1930年6月30日 竣工
34.0kt
(特II型・霧級3番艦)
3基6門
9射線
(天霧・朝霧・夕霧・狭霧)
(1941年9月〜戦没時生存)
空襲・魚雷誘爆で轟沈
ワシントン海軍軍縮条約下の保有制限の中で建造された一等駆逐艦で、凌波性能と重武装(12.7cm連装砲3基、61cm魚雷9射線)を兼ね備え、世界の駆逐艦設計に衝撃を与えた。全24隻のうち4隻ごとに「雪級」「雲級」「波級」「霧級」と通称され、朝霧は天霧・夕霧・狭霧と共に「霧級」に属する。霧級は霧のように静かに、しかし確実に最前線へ投入され続けた駆逐隊だった。
朝霧は1928年12月12日、佐世保海軍工廠で起工した。仮称艦名は「第47号駆逐艦」。1929年11月18日に進水し、1930年6月30日に竣工する。同年12月、姉妹艦「天霧」と共に第8駆逐隊を新編。後に夕霧・狭霧が加わり、4隻揃った霧級は第二水雷戦隊に所属して訓練を重ねていく。1939年11月、駆逐隊の改称により第8駆逐隊は「第20駆逐隊」となった。
2月、朝霧は軽巡「由良」の指揮下でムントク泊地周辺の哨戒・掃蕩任務に従事した。13日には僚艦「吹雪」と共に特設敷設艦と商船の撃沈を報告。14日には由良・吹雪と共にイギリス軍特設掃海艇を共同撃沈、15日には由良と共にイギリス商船と特設掃海艇を撃沈している。地味な哨戒任務の中で、確実に戦果を積み重ねていったのがこの時期の朝霧だった。
1942年4月、南雲機動部隊によるセイロン島攻撃に策応し、小沢中将指揮下の馬来部隊機動部隊はベンガル湾で通商破壊作戦を実施した。朝霧は中央隊(鳥海・由良・龍驤・夕霧・朝霧)に区分され、由良による商船撃沈を支援する役割を担った。4月6日の作戦で中央隊は商船3隻を撃沈する大きな戦果を上げている。朝霧という艦の役割は、単独で戦果を挙げることではなく、主力艦の攻撃を確実に支える「支援」にあった。
南方作戦が一段落すると、第三水雷戦隊は内地に帰投し、5月下旬からミッドウェー作戦に従事した。第20駆逐隊は山本五十六大将直率の主力部隊・警戒部隊に区分され、海戦そのものへの直接交戦はなかったが、日本海軍にとって痛手となったこの海戦の後、三水戦は内地へ戻り、奄美大島方面で対潜掃蕩に従事した。
8月7日、米軍のガダルカナル島上陸に伴い、計画されていたインド洋方面のB作戦は中止された。第20駆逐隊はマカッサル、ダバオを経由して8月23日までにトラック泊地に進出。8月24日から25日の第二次ソロモン海戦で日本側の機動部隊が敗北すると、海軍は駆逐艦による急速輸送「鼠輸送」を開始する。第三水雷戦隊(旗艦川内、第20駆逐隊、輸送船佐渡丸・浅香丸)は、当初輸送船で運ぶ予定だった川口支隊の将兵を、洋上で輸送船から駆逐艦へ移乗させる形に変更し、ガダルカナル島へ向かった。
8月28日午後、ショートランド泊地から出撃した第24駆逐隊(海風・江風・磯風)との合同を予定して行動していた第20駆逐隊は、サンタイサベル島東方海域で、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場から飛来したSBDドーントレス急降下爆撃機の空襲を受けた。攻撃したのは空母エンタープライズ所属機を含む十数機。日没五分前、朝霧に爆弾2発が命中する。1発目は缶室で爆発し大火災となり、2発目は前部魚雷発射管に命中、搭載魚雷の誘爆により朝霧は轟沈した。
生存者は艦長・荒井靖夫少佐以下わずか136名(艦長以下8名、下士官兵128名)。戦死した朝霧機関長は、侍従武官・城英一郎大佐の義弟だったという。乗艦していた川口支隊(歩兵第124連隊第七中隊)も、戦死62名、重軽傷5名、大隊砲2門と弾薬を喪失し、生存者は87名にとどまった。同時に空襲を受けた僚艦「夕霧」「白雲」も大破し、第一次鼠輸送作戦は完全に失敗。第20駆逐隊で唯一健在だったのは「天霧」のみとなった。
「ガダルカナル上陸部隊川口支隊20dgにて進撃中、二八日夕刻、敵(飛行機)の空襲を受け『朝霧』沈、其他も被害あり」
軍令部総長への戦況奏上の記録に、この日の被害が簡潔に記されている。
——1942年8月29日、城英一郎大佐の日記より(侍従武官として奏上内容を記録)
1942年10月1日、朝霧は吹雪型駆逐艦・帝国駆逐艦籍のそれぞれから除籍された。同日、健在艦を欠いた第20駆逐隊も解隊される。竣工から沈没まで12年、太平洋戦争開戦からはわずか9ヵ月——その短い戦争期間の中で、朝霧はマレーからベンガル湾、そしてソロモンまで、日本海軍の作戦範囲のほぼ全域を駆け抜けた。
しかし、その堅実さは制空権を持たない戦場では何の保証にもならなかった。十数機の急降下爆撃機による攻撃が、艦と600名近い将兵を一瞬で奪った。輸送船の代わりに駆逐艦で兵員を運ぶという「鼠輸送」そのものが抱えていた構造的な脆さを、朝霧の最期は何よりも明確に物語っている。
朝霧が残したものは、勝利の記録ではなく、制空権を失った戦場で輸送任務を強行することの重さそのものだ。今を生きる私たちに、この艦が問いかけるのは——どれほど堅実に任務を重ねても、戦場の構造そのものが崩れたとき、個々の艦の努力では覆せないものがある、という事実かもしれない。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書14『ガダルカナル島・ソロモン諸島方面陸軍作戦』朝雲新聞社、1968年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書77『陸軍航空作戦』朝雲新聞社、1974年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年
- ・雑誌「丸」編集部『陽炎型(光人社)』潮書房光人社、2014年
- ・「歴群、水雷戦隊II」学習研究社、1998年
- ・城英一郎『城英一郎日記』山川出版社、1982年
- ・Wikipedia「朝霧 (吹雪型駆逐艦)」