離れることを選ばなかった艦——203名を救った吹雪型「漣」の全記録

1944年1月14日正午過ぎ、ヤップ島南東300海里の洋上。間隔5000m、速力16ノットの単縦陣で航行していた駆逐艦「漣」に、米潜水艦アルバコアが放った魚雷3本が命中した。弾薬庫の誘爆で艦は前後に分断され、被雷からわずか2分で海に消えた。次期艦長への転任が決まっていた前艦長・菅明次少佐を含む154名が死亡。89名の生存者を救助したのは、5000m先を同航していた姉妹艦「曙」だった。

吹雪型駆逐艦19番艦・漣は、太平洋戦争のほぼ全期間を、空母の護衛と輸送任務に費やした艦である。真珠湾攻撃の直後にはミッドウェー島を砲撃し、スラバヤ沖海戦では米潜水艦と交戦し、珊瑚海海戦では沈みゆく空母「祥鳳」の生存者203名を救助した。地味だが確実な任務の積み重ねは、この艦の艦歴を特徴づける一貫した姿勢だった。

そして——その漣の最期は、戦闘の華々しさとは無縁だった。輸送船団護衛という日常的な任務の最中、見えない敵の魚雷によって、艦はわずか2分で姿を消した。だが、漣が救った命の数を思えば、この艦の本当の戦果は、撃沈報告には表れない場所にあったのかもしれない。

建造所 / 起工日
舞鶴工作部
1930年2月21日
進水 / 就役
1931年6月4日(6日説も)
1932年5月19日
基準排水量 / 速力
1,700t
34.0kt
艦型・番艦
吹雪型19番艦
(朧型・特II型9番艦)
主砲型式・門数
12.7cm連装砲
3基6門
魚雷兵装
61cm3連装発射管
9射線
所属駆逐隊
第7駆逐隊
・曙・漣・朧)
特筆データ
空母祥鳳生存者
203名を救助
最終的な結末
1944年1月14日
米潜水艦の雷撃で被雷後2分で轟沈
■ 吹雪型(特型)駆逐艦・朧型とは
ワシントン海軍軍縮条約による主力艦保有制限の中、補助艦艇の戦力強化を目的に建造された一等駆逐艦。凌波性能を追求した船形、密閉式艦橋による居住性改善、重武装(12.7cm連装砲3基、61cm魚雷9射線)により、当時の列強海軍に衝撃を与えた。漣は舞鶴工作部で建造され、吹雪型後期型「朧型」8隻(朧・曙・・漣・響・雷・電・暁)の一艦として竣工した。日本海軍の艦船としては雷型駆逐艦「漣」に続いて2代目にあたる。戦後、海上自衛隊のたかなみ型護衛艦「さざなみ」がその名を継承した。

漣は1930年2月21日、舞鶴工作部で起工した。同じ日、同じ造船所で姉妹艦「響」の建造も始まっている。進水は1931年6月、就役は1932年5月19日——響の竣工がこの約1年後だったことを思えば、漣はこの「同日起工」の組の中でいち早く戦力化された艦だった。就役後、一等駆逐艦に類別され、第二艦隊・第7駆逐隊(・曙・朧、後に漣)に編入される。1937年の日中戦争では上海・杭州湾上陸作戦、仏印作戦に参加した。

■ 開戦前夜——第7駆逐隊の編成変遷 ■
1940年4月
漣の復帰で第7駆逐隊は4隻(・曙・朧・漣)に。同年10月、漣のみ紀元二千六百年特別観艦式に参加。
1941年7月
第7駆逐隊は南雲忠一中将の第一航空艦隊・第一航空戦隊(空母赤城・加賀)に編入。
1941年9月1日
漣・朧が第7駆逐隊から除籍、第五航空戦隊(空母翔鶴・春日丸)に編入。だが9月25日、漣のみ第7駆逐隊に復帰。第7駆逐隊は「・曙・漣」の3隻で太平洋戦争に突入する。
■ ミッドウェー島砲撃——真珠湾攻撃の十数時間後
太平洋戦争開戦劈頭、漣は第7駆逐隊司令艦「」と共にミッドウェー島への砲撃を敢行した。11月27日に館山湾を出撃して東進、南雲機動部隊が真珠湾を攻撃してから十数時間後の12月8日午後6時40分、艦砲射撃を開始する。20分ほど砲撃を行って退避したが、この時米空母「レキシントン」は同島まであと1日の距離にまで近づいていた。また米潜水艦アルゴノートと遭遇していたが、・漣はその存在に気づかなかった。12月22日、呉に到着している。

1942年1月、アンボン上陸作戦で空母「飛龍」「蒼龍」の護衛を行った後、ジャワ島攻略のため第7駆逐隊(・漣・曙)は1月28日付で蘭印部隊に編入された。2月5日から8日、漣は掃海艇部隊を指揮してアンボンの掃海を実施し、これにより輸送船団がようやく入港できるようになった。

■ スラバヤ沖海戦——燃料不足で離脱、その先に米潜水艦
2月27日夕刻以降、重巡2・軽巡2・駆逐艦14隻からなる大兵力が、輸送船団を護衛しつつジャワ島へ向かいスラバヤ沖海戦に突入した。漣・潮は第二水雷戦隊(旗艦「神通」)に臨時編入され、第一次・第二次昼戦に参加。2月28日、燃料不足になった・漣は田中頼三司令官の指示でボルネオ島バンジャルマシンへ向かった。3月2日、前日に沈没した英重巡「エクセター」の生存者を捜索していた漣・潮は、米潜水艦「パーチ」を発見し魚雷攻撃を行っている。3月末、修理のため横須賀海軍工廠へ帰投した。

4月、ドーリットル空襲を受けて第二艦隊司令長官・近藤信竹中将は米軍機動部隊追撃を下令。第7駆逐隊(・曙・漣)は空母「祥鳳」の護衛に指定されたが、合流できないまま4月20日に作戦中止となった。それでもなお、漣はこの直後、その艦歴で最も大規模な救助活動に挑むことになる。

■ 珊瑚海海戦——沈んだ空母のもとへ単艦で引き返す ■
【4月末】:漣は空母「祥鳳」を護衛してトラック諸島へ、ポートモレスビー攻略作戦に従事
【5月7日 9時35分】:米空母レキシントン・ヨークタウン艦載機の攻撃で「祥鳳」が撃沈
【離脱】:護衛部隊(青葉・衣笠・加古・古鷹・漣)は第二次空襲を避け、いったん現場を離れる
【12時以降】漣は単艦で反転し、祥鳳の沈没現場へ向かう
【15時30分】:現場到着。最終的に203名を救助して戦場を離脱した

護衛部隊全体が空襲を避けて現場を離れた後、漣だけが単艦で引き返すという判断を下した。同日18時55分、軽巡「夕張」も祥鳳生存者を発見し、駆逐艦「弥生」が乗員2名を救助。さらに漣は、母艦を見失った自艦の内火艇を発見し、艦に帰艦させている。その後、漣は損傷した空母「翔鶴」の護衛に加わり、サイパンを経由して横須賀へ帰投した。

5月20日、第7駆逐隊(・曙・漣)は北方部隊に編入され、第二機動部隊として四航戦(龍驤・隼鷹)と行動を共にした。6月のミッドウェー作戦では、アラスカ・ダッチハーバーの米海軍基地を攻撃する北方部隊の一員として参戦している。

■ ガダルカナル方面での鼠輸送(1942年8〜9月) ■
8月17日
戦艦「大和」(山本五十六長官・宇垣纏参謀長座乗)と共にトラック泊地へ。たびたび大和から燃料補給を受け、宇垣参謀長は「四日毎に腹を減らす赤坊にも困りものなり」と陣中日誌に記す。
8月28日
トラック泊地目前で「大和」が米潜水艦フライングフィッシュに雷撃される。・漣と大和搭載機が爆雷攻撃を実施、再襲撃を防いだ。
9月12-21日
ガダルカナル島への鼠輸送に複数回従事。9月17日には天霧と共にカミンボへ揚陸、9月20日には漣・・敷波・夕立で陸兵600名と弾薬糧食を輸送。

9月28日、トラック泊地到着寸前の空母「大鷹」と駆逐艦「・曙」が米潜水艦に襲撃され、艦尾に被雷した大鷹は付近を航行中の漣に水路嚮導を依頼した。10月4日、漣は陽炎型「時津風」と共に損傷した大鷹を護衛して日本へ戻っている。以後、漣の任務は輸送と特設航空母艦の護衛が中心になっていく。

■ 第一次ベララベラ海戦——旗艦としての夜戦
1943年8月15日、米軍がベララベラ島へ上陸。日本軍は緊急輸送を決定し、第三水雷戦隊司令官・伊集院松治大佐は漣を旗艦とする夜戦隊(漣・時雨・浜風・磯風)を率いて出撃した。これを迎撃しようとした米駆逐艦4隻との間で夜間水上戦闘が発生(第一次ベララベラ海戦)。巡洋艦または大型駆逐艦1隻の撃沈を報告したが、実際の戦果はなかった。駆潜艇4隻を喪失したものの、輸送作戦そのものは成功した。

8月22日以降、漣は時雨・浜風・磯風と共にサンタイサベル島レカタの撤退・転進作戦「E作戦」に従事。8月28日には川内と共に七聯特転進隊をブーゲンビル島ブインへ輸送した。12月3日、空母「冲鷹」が米潜水艦セイルフィッシュの雷撃で航行不能となり沈没する際には、漣は運用長以下約30名を救助している(同艦には1250名近い戦死者が出た)。

■ 漣の全戦歴ハイライト ■
【1932年5月】:吹雪型・朧型として就役。第7駆逐隊(・曙・朧)編入
【1941年12月8日】:真珠湾攻撃直後、潮と共にミッドウェー島を砲撃
【1942年2〜3月】:スラバヤ沖海戦に参戦、米潜水艦パーチを攻撃
【1942年5月7日】:珊瑚海海戦。沈没した空母祥鳳の現場へ単艦で引き返し、生存者203名を救助
【1942年6月】:ミッドウェー海戦。北方部隊としてダッチハーバー攻撃に参加
【1942年8〜9月】:ガダルカナル島への鼠輸送に複数回従事
【1943年8月】:第一次ベララベラ海戦で旗艦を務める
【1943年12月3日】:空母冲鷹沈没時、生存者約30名を救助
【1944年1月14日】:ヤップ島南東で米潜水艦アルバコアの雷撃を受け、被雷後2分で轟沈。戦死154名、生存者89名は曙が救助

1944年1月8日、福留繁連合艦隊参謀長は漣・曙の北方部隊(第五艦隊)復帰を内示する。1月12日、パラオからトラックへ向かう輸送船団護衛のため両艦はラバウルを出港。だが、この船団は米潜水艦3隻で構成されたウルフパックの待ち伏せを受けていた。

■ 最期——5000m先で見守った僚艦の轟沈
1944年1月14日、漣と曙は間隔5000mの単縦陣・速力16ノットで航行していた。正午ごろ、漣に米潜水艦アルバコアの魚雷3本が命中。弾薬庫の誘爆により艦は前後に分断し、被雷からわずか2分で沈没した。天津風の艦長に転任予定だった前艦長・菅明次少佐を含む154名が死亡(160名死亡・80名生存とする文献もある)。89名の生存者は、5000m先を同航していた姉妹艦「曙」によって救助された。この海戦では、輸送船「日本丸」「健洋丸」も同じウルフパックの雷撃で撃沈されている。

漣の沈没後、連合艦隊司令部は「島風・曙」に対し輸送船団のトラック回航を下令。曙はその後、トラックから駆け付けた第27駆逐隊「春雨」と共に、漣を失った船団を護衛し続けた。1944年3月10日、漣は初雪型駆逐艦・第7駆逐隊・帝国駆逐艦籍のそれぞれから除籍された。

■ 猫工艦の考察 漣という艦の本質は、「離れることを選ばなかった艦」だったことにある。珊瑚海海戦で護衛部隊全体が空襲を避けて現場を離れる中、漣だけが単艦で引き返し、203名の命を救った。空母「冲鷹」の沈没時にも、漣は30名を救助している。この艦の戦歴を貫いているのは、撃沈の記録ではなく、引き返す判断の記録だ。

しかし、その粘り強さも、見えない敵の前では何の防御にもならなかった。最終的に漣を沈めたのは、戦闘の応酬の末ではなく、輸送船団護衛という日常的な任務の中で、潜水艦の魚雷3本がもたらした、わずか2分間の出来事だった。漣が救った89名の生存者を救助したのは、かつて漣自身が救助に駆けつけたのと同じように、僚艦「曙」だった——救う側と救われる側が、姉妹艦という関係の中で、繰り返し入れ替わっていたのである。

漣が残したものは、撃沈数ではなく救助数だ。祥鳳の203名、冲鷹の30名——そしてその漣自身もまた、最後は89名の命を僚艦に託すことになった。

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▼ 関連記事

■ 参考文献・資料

  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年
  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書29『北東方面海軍作戦』朝雲新聞社、1969年
  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975年
  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦(2)昭和十七年六月以降
  • ・宇垣纏『戦藻録』原書房、1968年
  • ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
  • ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
  • ・D’Albas, Andrieu. “Death of a Navy: Japanese Naval Action in World War II”
  • ・Brown, David. “Warship Losses of World War Two”
  • ・Wikipedia「漣 (吹雪型駆逐艦)」

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