白露型駆逐艦 村雨——第2駆逐隊司令艦・諸元と全戦歴

白露型 · 3番艦(第2駆逐隊司令艦)
MURASAME 駆逐艦 村雨
夜戦の十八番が時代に追い越された夜

1937年竣工、白露型駆逐艦3番艦。第2駆逐隊(村雨・夕立・春雨・五月雨)司令艦として太平洋戦争を戦った。第三次ソロモン海戦では魚雷7本のうち3本を命中させ敵巡洋艦轟沈と認定される戦果を上げたが、1943年3月、ビラ・スタンモーア夜戦で米軍のレーダー射撃を受け戦没した。

諸元データ
竣工時兵装基準・サマリー
艦型
白露型3番艦
建造所
藤永田造船所
基準排水量
1,685t
最大速力
34.0kt
主砲
12.7cm連装砲2基・
単装砲1基(計5門)
魚雷兵装
61cm4連装発射管2基
(計8射線)
艦名村雨(むらさめ)
艦型・番艦白露型(一等駆逐艦)3番艦
艦名の由来春雨型駆逐艦「村雨」に続き2隻目
建造所藤永田造船所
起工日1934年(昭和9年)2月1日
進水日1935年(昭和10年)6月20日
竣工日1937年(昭和12年)1月7日
除籍日1943年(昭和18年)4月1日
類別一等駆逐艦
基準排水量1,685t(白露型標準値)
全長111.0m(白露型標準値、初期公表値では102.96m)
全幅9.9m(白露型標準値、初期公表値では9.94m)
機関艦本式タービン2基2軸、艦本式重油専焼缶3基、出力42,000馬力
速力34.0kt(公試では35kt前後を発揮)
航続距離4,000海里/18kt(計画値、実績は5,000海里前後)
乗員245名(戦没時の乗員数記録)
主砲50口径三年式12.7cm連装砲2基・単装砲1基:計5門(C型平射砲・全周囲シールド付)
魚雷発射管61cm4連装水上発射管:2基(計8射線、九〇式魚雷→開戦前に九三式酸素魚雷へ改造)
機銃(最終)毘式四十粍機銃から九六式二十五粍高角機銃へ換装(1943年1月実施)
所属駆逐隊履歴第2駆逐隊(村雨・夕立・春雨・五月雨、1937年12月〜)司令艦として終始所属
主要艦長履歴脇田喜一郎少佐(1936年7月22日〜)/種子島洋二中佐(戦没時艦長、生存)
特記事項①第2駆逐隊司令・橘正雄大佐の座乗艦(第1小隊1番艦)として終始行動
特記事項②1942年11月12日、第三次ソロモン海戦第一夜戦で魚雷7本発射、3本命中により敵巡洋艦轟沈と認定。高角砲弾1発命中、機関部損傷、乗組員5名負傷
特記事項③1942年12月21日〜、第四水雷戦隊旗艦に指定された時期がある
最終結末1943年3月5日23時頃、コロンバンガラ島クラ湾沖でビラ・スタンモーア夜戦が発生。米第68任務部隊(軽巡3・駆逐艦3)のレーダー射撃を受け、僚艦「峯雲」と共に被弾。村雨は艦尾から沈没。乗員245名中、生存者129名、戦死者116名
■ 白露型駆逐艦について
ロンドン海軍軍縮条約下に計画された初春型駆逐艦の後続艦として建造された一等駆逐艦。主要兵装と機関は初春型を踏襲したが、魚雷兵装は日本海軍初の四連装発射管を採用し、8射線を実現した。村雨は当初「有明型」3番艦として命名されたが、1934年11月の再編で白露型に類別された。竣工時は前期艦の角張った艦橋を持つ3番艦として、藤永田造船所で建造された。
全戦歴タイムライン
竣工から戦没・除籍まで
1933年12月15日 — 命名
有明型3番艦として「村雨」命名
  • 1934年2月1日、藤永田造船所で起工。1935年6月20日進水。竣工当時は初春型駆逐艦の最新鋭艦として紹介されたこともあった。1937年1月7日、浦賀の3番艦村雨と佐世保の4番艦夕立が同日付で竣工。
1937年12月1日
第2駆逐隊編成、司令艦に
  • 司令・橘正雄大佐が座乗する第2駆逐隊(村雨・夕立・春雨・五月雨)の司令艦(第1小隊1番艦)として常に行動。
1940年10月11日
紀元二千六百年特別観艦式に参加
  • 第2駆逐隊4隻が観艦式の第二列に配置。11月、第二艦隊・第四水雷戦隊に編入。
1941年12月10日
ビガン攻略作戦で被弾
  • 比島ビガン攻略作戦で敵機の銃撃を受け戦死者5名・負傷者9名。その後リンガエン湾上陸作戦、タラカン上陸作戦、バリックパパン攻略作戦(バリクパパン沖海戦)に参加。
1942年2月末 — スラバヤ沖海戦
第一次・第二次昼戦に参加
  • 戦闘後、四水戦は輸送船団を護衛して戦場を離脱。2月28日、村雨はオランダ病院船「オプテンノール」を臨検(第五戦隊記録では僚艦「夕立」の任務とも記載)。同船は後に日本軍に接収され「天応丸」と改名。
1942年4月〜7月
クリスマス島攻略、ミッドウェー作戦、B作戦進出
  • 4月1日、四水戦旗艦「那珂」が米潜水艦シーウルフの雷撃で大破、旗艦は夏雲に変更。6月、ミッドウェー海戦に攻略部隊として出撃。7月17日、インド洋通商破壊作戦(B作戦)のためマレー半島メルギーへ進出。
1942年8月7日
B作戦中止、ソロモン方面へ転戦
  • ガダルカナル島の戦い開始によりB作戦中止、トラック泊地へ向かう。8月24日以降の第二次ソロモン海戦では戦艦「陸奥」を護衛。
1942年9月8-20日
ブイン飛行場建設輸送、飛行艇撃墜捕虜収容
  • 特設水上機母艦「國川丸」を護衛しブーゲンビル島ブイン飛行場建設の資材・設営隊を揚陸。9月10-19日、東方哨戒隊として行動。9月11日、撃墜した飛行艇搭乗員8名を捕虜とし、重巡「愛宕」(近藤信竹司令長官座乗)へ引き渡す。9月17-19日、特別奇襲隊としてヌデニ島へ向かうが敵影なし。
1942年10月2-6日 — ガダルカナル鼠輸送
空襲で速力低下、揚陸断念
  • 10月2日、駆逐艦5隻でガ島輸送成功。10月5日、急降下爆撃機の空襲で僚艦「峯雲」が至近弾被害、続いて村雨も至近弾で浸水、負傷者10数名、速力21ノットに低下し揚陸断念。
  • 10月6日、トラック泊地で応急修理。「峯雲」は長期修理、「夏雲」は10月12日のサボ島沖海戦で沈没。
1942年10月12-17日
大規模輸送作戦の護衛
  • 10月12日、四水戦旗艦が秋月に変更。村雨はショートランド泊地へ直行。10月17日、第2小隊(村雨・夕立・春雨・五月雨)として陸軍兵2159名・大砲18門の揚陸成功。軽巡「由良」が魚雷1本被弾(不発)も損害軽微。
1942年11月12日 — 第三次ソロモン海戦
魚雷7本発射、3本命中で敵巡洋艦轟沈認定
  • 第四水雷戦隊(朝雲・村雨・五月雨・夕立・春雨)が戦艦比叡・霧島の艦砲射撃を護衛してアイアンボトム・サウンドへ進入。スコールで陣形が乱れ、村雨・五月雨(旗艦朝雲に近接航行)と夕立・春雨(前方突出)の二群に分離。
  • 米軍巡洋艦部隊の誤判断と夕立・春雨の単艦突入で第一夜戦が生起。五月雨を率いて朝雲に続行していた村雨は魚雷7本発射、3本命中により敵巡洋艦轟沈と認定。高角砲弾1発命中、機関部損傷、乗組員5名負傷。13日の比叡護衛、14日の第二夜戦には参加できず。
  • 同海戦で夕立が単艦突入の末に航行不能、五月雨による処分後、米重巡の砲撃で沈没——第2駆逐隊初の戦没艦となった。
1942年11月18日〜12月20日
四水戦旗艦指定、ウェワク攻略支援
  • 11月18日トラック帰投。11月21日、四水戦旗艦が長良に変更。28日、村雨・初雪はブイン基地の空母飛鷹航空隊撤収任務。12月、ウェワク攻略部隊の上空警戒のため第二航空戦隊(空母隼鷹)護衛部隊として派遣。12月21日、長良の内地帰投で四水戦旗艦が村雨に変更。
1943年1月6-28日
空母冲鷹護衛、横須賀で整備
  • 空母「冲鷹」護衛任務でカビエン経由トラック〜横須賀往復。整備・補修および対空火器換装(毘式四十粍機銃→九六式二十五粍高角機銃)を実施。1月24日、僚艦「春雨」が米潜水艦ワフーの雷撃で大破(10ヵ月近く戦線離脱)。1月28日、浦賀船渠に入渠。
1943年2月3-27日
トラック往復、ニュージョージア防衛準備
  • 横須賀回航後、高間完少将(旗艦村雨)指揮で空母冲鷹等を護衛しトラックへ。2月、日本海軍はガダルカナルから撤退(ケ号作戦)、ニュージョージア島ムンダに飛行場建設するが輸送船が空襲で被害、弾薬・糧食不足に陥る。
1943年2月27日〜3月4日
緊急輸送命令、ラバウルで座礁
  • 村雨・峯雲に緊急輸送命令、南東方面部隊編入。2月28日トラック出撃、3月2日ラバウル到着。3月3日コロンバンガラへ出撃するが輸送船団全滅で引き返し、ラバウル入港時に座礁。翌日夜明け前に離礁・入港。
  • 3月4日夕刻、ドラム缶200本・弾薬糧食を満載し再出撃。同日、ビスマルク海海戦の生還者を収容した駆逐艦部隊もラバウルに帰着。
1943年3月5日 23時頃 — 戦没
ビラ・スタンモーア夜戦、レーダー射撃で被弾
  • 21時30分〜22時30分、コロンバンガラ島クラ湾で補給実施後、北上してショートランド泊地へ向かう。この行動はPBYカタリナ飛行艇に察知され、潜水艦2隻がクラ湾出口に配備されていた。
  • アーロン・S・メリル少将指揮の米第68任務部隊(軽巡3隻・駆逐艦3隻)が22時57分にレーダー探知、23時1分射撃開始。レーダーのない村雨・峯雲は当初夜間空襲と誤認。種子島艦長は「対空戦闘」を下令後、敵艦隊と悟り「右砲戦」命令。
  • まず峯雲が被弾炎上、続いて村雨も主砲・機関部を破壊され航行不能。艦尾から沈没。コロンバンガラ守備隊は北東方面で1隻が大爆発するのを目撃。アメリカ軍記録では峯雲は駆逐艦ウォーラーの魚雷で轟沈、村雨は巡洋艦3隻の砲撃で沈没。
  • 村雨の乗員245名中、生存者129名、戦死者116名。峯雲は乗員255名中生存者45名、戦死者210名。大発動艇による救助の遅れで溺死者が増加。
1943年3月8日
生存者帰還、レーダー警戒の警告
  • 輸送のため到着した駆逐艦部隊に分乗し、第2駆逐隊司令・種子島艦長以下生存者がラバウル経由で横須賀へ送還。第2駆逐隊司令は沈没原因を「敵巡洋艦3隻の砲撃とB-17十数機の空襲」と報告、レーダーへの厳重警戒を警告。
1943年4月1日 — 除籍
第2駆逐隊解隊への道
  • ビスマルク海海戦で沈没した「時津風」たちと共に村雨の除籍が決定。第2駆逐隊・白露型・帝国駆逐艦籍のそれぞれから削除。
  • 村雨喪失により第2駆逐隊残存艦は五月雨と大破修理中の春雨のみとなり、7月1日付で解隊。2隻は白露型2隻編制の第27駆逐隊(白露・時雨)に編入された。
まとめ
夜戦の十八番が時代に追い越された夜
白露型3番艦・村雨は、第2駆逐隊の司令艦として、フィリピン攻略戦から蘭印作戦、ガダルカナル輸送、第三次ソロモン海戦まで太平洋戦争の前半を戦い抜いた艦である。第三次ソロモン海戦では魚雷7本のうち3本を命中させ、敵巡洋艦轟沈と認定される戦果を上げ、肉眼と度胸による日本海軍の夜戦戦術の頂点を見せた。

しかし、わずか4ヵ月後のビラ・スタンモーア夜戦では、米軍のレーダー射撃によって、その夜戦の優位性が一夜で覆された。村雨と僚艦峯雲はレーダーを持たず、当初は砲撃を夜間空襲と誤認するほどだった。村雨は艦尾から沈没し、乗員245名のうち116名が戦死した。

村雨が残したものは、第三次ソロモン海戦の戦果だけではない。米軍のレーダー射撃という新たな脅威を、身をもって日本海軍に知らせた一艦としての記録こそが、この艦の最大の遺産である。

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■ 参考文献・資料

  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975年
  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
  • ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • ・高松宮宣仁親王『高松宮日記』第6巻、中央公論社、1997年
  • ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
  • ・原為一『帝国海軍の最後』恒文社(復刻版)
  • ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
  • ・Wikipedia「村雨 (白露型駆逐艦)」「白露型駆逐艦」「ビラ・スタンモーア夜戦」
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