1943年3月5日午後11時1分、コロンバンガラ島クラ湾。輸送任務を終えて帰途にあった駆逐艦「村雨」と僚艦「峯雲」は、夜空からの砲撃を受けた。レーダーを持たない両艦は、最初それを夜間空襲だと思い込んだ。種子島洋二艦長が「対空戦闘」を命じた直後、敵艦隊だと悟り「右砲戦」を下令するも、もう遅かった。米軍3隻の巡洋艦は、レーダーで完全に村雨たちを捉えていた。
白露型駆逐艦3番艦・村雨は、第2駆逐隊(村雨・夕立・春雨・五月雨)の司令艦として、橘正雄大佐を座乗させ太平洋戦争を戦い続けた艦である。第三次ソロモン海戦では魚雷7本を発射し3本命中、敵巡洋艦轟沈と認定される戦果を上げた——夜戦における日本海軍の技術と度胸を象徴する一夜だった。
そして——その村雨を最後に沈めたのは、夜戦の闇に乗じた肉眼の戦いではなく、レーダーという新しい技術だった。日本海軍が「十八番」としてきた夜戦という戦闘形式そのものが、この一夜で時代から取り残されていくことになる。
1937年1月7日 竣工
34.0kt
(第2駆逐隊司令艦)
単装砲1基(計5門)
(計8射線)
(戦没時生存)
敵巡洋艦轟沈と認定
ビラ・スタンモーア夜戦でレーダー射撃を受け戦没
ロンドン海軍軍縮条約下に計画された初春型駆逐艦の後続艦として建造された一等駆逐艦。主要兵装と機関は初春型を踏襲したが、魚雷兵装は日本海軍初の四連装発射管を採用し、8射線を実現した。村雨は当初「有明型」3番艦として命名されたが、1934年11月の再編で白露型に類別された。竣工当時は初春型駆逐艦の最新鋭艦として紹介されたこともある。日本海軍の艦船としては春雨型駆逐艦「村雨」に続いて2隻目にあたる。
村雨は1934年2月1日、藤永田造船所で起工した。1935年6月20日に進水、1937年1月7日に竣工。竣工は浦賀の3番艦村雨と佐世保の4番艦夕立が同日付という巡り合わせだった。同年12月1日、第2駆逐隊(村雨・夕立・春雨・五月雨)が編成され、村雨は常に司令・橘正雄大佐が座乗する司令艦(第1小隊1番艦)として行動することになる。1940年10月、第2駆逐隊は紀元二千六百年特別観艦式に参加した。
8月7日のガダルカナル島の戦い開始により、インド洋通商破壊作戦「B作戦」は中止され、村雨はソロモン方面へ転戦した。10月5日、ガ島輸送中に急降下爆撃機の空襲を受け、村雨は至近弾による浸水で速力21ノットに低下し揚陸を断念。トラック泊地で応急修理後、戦線に復帰している。
11月12日、第四水雷戦隊(朝雲・村雨・五月雨・夕立・春雨)は、戦艦比叡・霧島によるヘンダーソン飛行場艦砲射撃を護衛してアイアンボトム・サウンドに進入した。スコールの中で陣形が乱れ、村雨・五月雨は旗艦朝雲に近接して航行する一群、夕立・春雨は前方に突出する一群に分離してしまう。米軍巡洋艦部隊の誤判断と、夕立・春雨の単艦突入により、第三次ソロモン海戦第一夜戦という大混戦が始まった。五月雨を率いて旗艦朝雲に続行していた村雨は魚雷7本を発射、3本命中により敵巡洋艦轟沈と認定された。だが村雨にも高角砲弾1発が命中し機関部が損傷、乗組員5名が負傷。この被害のため、13日の比叡護衛や14日の第二夜戦には参加できなかった。
同じ海戦で、春雨と分離した後も単艦で米艦隊に突入した「夕立」は損傷して航行不能となり、最終的に五月雨によって処分された後、米重巡洋艦の砲撃で沈没した——第2駆逐隊として初めての戦没艦だった。村雨は11月18日にトラックへ帰投し、その後12月にはニューギニア方面のウェワク攻略部隊支援にも従事している。
1943年2月、村雨は第四水雷戦隊旗艦として行動し、空母「冲鷹」の護衛任務に従事。横須賀での整備中には、対空火器を毘式四十粍機銃から九六式二十五粍高角機銃に換装している。同じ時期、僚艦「春雨」が米潜水艦ワフーの雷撃で大破し、10ヵ月近くの戦線離脱を余儀なくされていた。
2月、日本海軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)し、ニュージョージア島を防衛拠点とする方針に転換した。ムンダ飛行場建設のための輸送船3隻のうち1隻が沈没、1隻が炎上し、弾薬・糧食の不足という事態に陥る。トラック泊地にいた第2駆逐隊司令艦「村雨」と第9駆逐隊「峯雲」に緊急輸送命令が下り、2月28日トラックを出撃、ラバウル経由でコロンバンガラ島への輸送任務に就いた。
3月3日、村雨はコロンバンガラへ向け出撃するが、輸送船団全滅のため引き返し、ラバウル入港時に座礁する一幕もあった。離礁・入港できたのは翌日の夜明け前だった。3月4日夕刻、村雨・峯雲はドラム缶200本と弾薬糧食を上甲板に満載し、再びラバウルを出撃する。
3月5日午後9時30分から10時30分、村雨・峯雲はコロンバンガラ島クラ湾での補給を実施。帰途は北上してショートランド泊地へ向かう航路をとった。しかしこの行動はアメリカ軍に察知されており、PBYカタリナ飛行艇が偵察し、潜水艦2隻がクラ湾出口に配備されていた。アーロン・S・メリル少将指揮の第68任務部隊(軽巡3隻・駆逐艦3隻)は、レーダーで22時57分に目標を探知、23時1分に射撃を開始した。レーダーを持たない村雨・峯雲は当初、これを夜間空襲と誤認。種子島艦長が「対空戦闘」を命じた後、ようやく敵艦隊と悟って「右砲戦」を命じるが、まず峯雲が被弾炎上、続いて村雨も主砲・機関部を破壊され航行不能となった。村雨は艦尾から沈没した。コロンバンガラ島守備隊は、北東方面での海戦で1隻が大爆発するのを目撃している。
対空戦闘——そして「右砲戦、右80度、反航する敵艦に射撃開始」
種子島洋二駆逐艦長は、砲撃を受けた当初「対空戦闘」を下令し、続いて敵艦隊だと悟って砲戦を命じた。だが、その間にレーダーで照準を合わせた米艦隊の砲弾はすでに村雨を捉えていた。
——1943年3月5日23時頃、ビラ・スタンモーア夜戦にて。
村雨の乗員245名中、生存者は129名、戦死者は116名だった。僚艦「峯雲」は乗員255名中生存者45名、戦死者210名という、より深刻な被害を受けている。沈没時には多数の乗組員が生存していたが、大発動艇による救助が遅れたため溺死者が増えたという。同日、コロンバンガラ島守備隊もメリル隊の艦砲射撃で甚大な被害を受けており、救助に向かうまでに時間を要したことが一因だった。3月8日、輸送のため到着した駆逐艦部隊に分乗し、第2駆逐隊司令や種子島艦長以下の生存者はラバウルへ、その後横須賀へ送還された。
第2駆逐隊司令は、村雨・峯雲の沈没原因を「敵巡洋艦3隻の砲撃と、B-17十数機の空襲」と報告し、レーダーへの厳重警戒を警告した。だがこの夜戦こそが、日本側がレーダーの実戦的威力を初めて痛感させられた戦闘でもあった。4月1日、ビスマルク海海戦で沈没した「時津風」たちと共に、村雨は第2駆逐隊・白露型・帝国駆逐艦籍のそれぞれから除籍された。村雨の喪失により、第2駆逐隊の残存艦は五月雨と大破修理中の春雨のみとなり、7月1日付で同隊は解隊。2隻は白露型2隻編制だった第27駆逐隊(白露・時雨)に編入された。
最初、村雨と峯雲は砲撃を「夜間空襲」と誤認した。これは決して油断ではなく、レーダー射撃という戦術そのものが、それまでの日本海軍の常識の外側にあったことを示している。種子島艦長の対応は速やかだったが、それでも間に合わなかった。
村雨が残したものは、第三次ソロモン海戦での戦果だけではない。米軍のレーダー射撃という新たな脅威を、身をもって日本海軍に知らせた一艦としての記録こそが、この艦の最大の遺産なのかもしれない。
⚓ 猫工艦ミリタリーグッズはこちら
第三次ソロモン海戦で轟沈を成し遂げた第2駆逐隊司令艦——村雨の物語を、その身に纏う。
「夜戦の十八番が時代に追い越された夜——村雨、レーダーに沈んだ艦」
SHOP を見る →■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・高松宮宣仁親王『高松宮日記』第6巻、中央公論社、1997年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・原為一『帝国海軍の最後』恒文社(復刻版)
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「村雨 (白露型駆逐艦)」「白露型駆逐艦」「ビラ・スタンモーア夜戦」