1945年7月25日、小スンダ列島・ロンボク海峡。バリクパパンを拠点に船団護衛を続けていた「第二号哨戒艇」は、イギリス潜水艦「スタッボーン」の雷撃を受け沈没した。終戦のわずか3週間前——この艦は、峯風型・野風型駆逐艦15隻の中で、最後に失われた1隻となった。艇長・鬼頭竹次郎少佐もこの日戦死し、同日付で昇進している。
かつて「灘風」と呼ばれたこの艦は、峯風型駆逐艦の5番艦として、舞鶴海軍工廠で建造され、1921年9月30日に竣工した。竣工後直ちに第三駆逐隊に編入され、日中戦争での沿岸作戦、そして1940年の哨戒艇への改装後は、太平洋戦争開戦直前に強襲揚陸艦へと生まれ変わり、フィリピン・蘭印攻略戦の緒戦を戦い抜いた。
その艦歴には、英国王室の使節を出迎えるという、駆逐艦としては異例の栄誉ある任務も刻まれている。竣工から24年、日本海軍の駆逐艦として最後まで戦い続けた末に散った「灘風」の物語を辿る。
→哨戒艇1,270t
竣工した「灘風」は横須賀鎮守府に所属し、竣工後直ちに第三駆逐隊に編入された。1937年から1939年にかけては、日中戦争に伴う華中・華南での沿岸諸作戦に参加している。1938年12月、第三駆逐隊は解隊され、「灘風」は馬公要港部付属となり、翌1939年1月には予備艦となった。竣工から20年近くを経て、この艦は一時的に第一線を退くことになる。
だがその予備艦としての期間は長くは続かなかった。1940年4月、老朽化していた「灘風」は哨戒艇へと改装され、「第二号哨戒艇」に艦種変更・改名される。そして太平洋戦争開戦直前、この艦はさらに大きな改造を受けることになった。後甲板と艦尾を改造し、大発動艇2隻を搭載できる強襲揚陸艦へと生まれ変わったのである。12cm単装砲1門と魚雷兵装を撤去し、代わりに陸戦隊約250名を収容できる居住区を新設した。かつて第一線の駆逐艦だったこの艦は、こうして上陸作戦支援という新たな役割を担うことになった。
1929年5月2日、英国王ジョージ5世の名代として、ガーター勲章を日本の天皇陛下へ贈進する使命を帯びたグロスター公殿下が、御召艦「サフォーク」で来日した。城ヶ島沖でこの艦を出迎えたのが、「灘風」を含む第三駆逐隊(灘風・島風・夕風・汐風)だった。重巡「加古」「古鷹」の両接伴艦、そして海軍航空隊の歓迎も受けながら、御召艦は予定通り午前8時に横浜へ入港し、皇礼砲が交わされる中、盛大な歓迎式典が執り行われた。
日本と英国の外交儀礼における重要な場面で、峯風型駆逐艦4隻がその護衛を任されたという事実は、これらの艦が竣工から10年近くを経てもなお、日本海軍にとって信頼できる戦力であり続けていたことを物語っている。この栄誉ある任務に参加したのは、「灘風」だけでなく、既に本サイトで紹介した初代「島風」、そして「汐風」も含まれていた——峯風型の仲間たちが、共にこの歴史的な瞬間に立ち会っていたのである。
「灘風」「島風」「汐風」——この記事で紹介する艦を含め、複数の峯風型姉妹艦が同じ護衛任務に参加していたという事実は、艦隊としての結束と、それぞれの艦が個別に歩んだ後の運命の対比を、鮮やかに物語っている。
太平洋戦争開戦後、強襲揚陸艦へと姿を変えた「第二号哨戒艇」(灘風)は、フィリピン・蘭印攻略作戦に投入される。1942年3月29日から31日にかけて、後に「不沈艦」として名を馳せることになる駆逐艦「雪風」、そして同じく旧樅型駆逐艦「蓼」から改装された「第39号哨戒艇」と共に、セラム島北岸のブラ攻略作戦に参加した。
西部ニューギニア戡定作戦の一環として行われたこの上陸作戦で、「灘風」が搭載する大発動艇と、収容していた陸戦隊員たちは、緒戦の勝利を支える重要な役割を果たした。その後もラバウル方面で対潜哨戒、人員輸送、船団護衛に従事し続け、1943年1月には内地へ帰投、第1海上護衛隊に編入されている。高雄を基地として、門司・サイゴン・シンガポール・マニラ方面への船団護衛を担い、1943年12月には第22特別根拠地隊に編入され、バリクパパンを根拠地とする船団護衛任務に従事し続けた。
1945年7月25日、小スンダ列島のロンボク海峡で、バリクパパンを拠点に船団護衛を続けていた「第二号哨戒艇」は、イギリス潜水艦「スタッボーン」(HMS Stubborn)の雷撃を受けた。竣工から24年、太平洋戦争のほぼ全期間を戦い抜いてきたこの艦は、終戦からわずか3週間前という時期に、ついに戦没した。艇長・鬼頭竹次郎少佐(予備大尉から少佐まで昇進を重ねてきた人物)もこの日戦死し、同日付で最後の昇進を果たしている。
「灘風」の戦没は、峯風型・野風型駆逐艦15隻の艦歴の中で、特別な意味を持っている。竣工から25年近くを経たこの艦型は、太平洋戦争の全期間を通じて8隻が戦没してきたが、「灘風」はその中で最後に失われた艦となった。もしこの艦が3週間だけ生き延びていれば、終戦を迎えて生存艦の1隻に数えられていたかもしれない。戦争という現実が、いかに最後の瞬間まで容赦なかったかを、この艦の最期は静かに物語っている。
「灘風」の本質は、竣工から24年、日本海軍の変遷と共に、駆逐艦から哨戒艇へ、そして強襲揚陸艦へと姿を変えながら戦い続け、そして戦争が終わるまさに直前まで、その任務を全うし続けた艦だった、という一点にある。英国王室使節の護衛という栄誉ある任務、雪風と共に戦った緒戦の上陸作戦、そして終戦間際まで続いた地道な船団護衛——この艦は、常に時代の要請に応え続けてきた。
しかし「灘風」の物語で最も重い意味を持つのは、その最期のタイミングだろう。終戦のわずか3週間前という時期に失われたという事実は、戦争がどれほど最後の瞬間まで人々の命を奪い続けたかを、何より雄弁に物語っている。峯風型・野風型15隻の中で最後に失われた艦として、「灘風」はこの艦型全体の物語に、苦い結びを与えることになった。
「灘風」が残したものは何か。それは、竣工から終戦間際まで、駆逐艦という存在がどれほど柔軟に、そしてどれほど過酷に運用され続けたかという記録である。派手な戦果を持たない艦だからこそ、私たちに戦争の終わりが、決して穏やかに訪れるものではなかったことを教えてくれる。猫工艦は、峯風型5番艦「灘風」と、鬼頭竹次郎少佐をはじめとする乗組員たちに、深い敬意を表したい。
▼ 関連記事
■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)海軍辞令公報(部内限)各号
- ・『秘海軍制度沿革』巻4、1939年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻・第9巻、第一法規出版、1995年
- ・『丸スペシャル』第51号 日本の駆逐艦Ⅱ、潮書房、1981年
- ・『写真日本の軍艦(3) 空母(I)』1989年
- ・秘露日々新聞(Perú Nichinichi Shinbun)1929年5月4日
- ・Wikipedia「灘風 (駆逐艦)」「峯風型駆逐艦」「夕風 (駆逐艦)」「雪風 (駆逐艦)」