1944年1月25日23時5分、ポナペ島北東の闇の中。輸送船「興津丸」「日豊丸」を護衛していた駆逐艦「涼風」は、米潜水艦スキップジャックが放った魚雷3本のうち1本を受けた。轟沈——山下正男艦長以下231名がこの一瞬に運命を共にした。生存者はわずか13名。改白露型(海風型)4隻の最後の1隻が、ここで歴史を終える。数時間後、同じスキップジャックは輸送船「興津丸」も撃沈し、護衛部隊は事実上壊滅した。
涼風は、白露型駆逐艦10番艦であり、改白露型(海風型)の4番艦にして最終艦である。海風・山風・江風・涼風の4隻で第24駆逐隊を編制し、太平洋戦争の緒戦からフィリピン攻略、蘭印作戦、そしてガダルカナルの死闘まで、常に同じ隊列で戦い続けた。涼風という艦の物語は、単艦での派手な武勲ではなく、雷撃で大破しながらも戦線に復帰し、輸送任務と僚艦救援を黙々と支え続けた——その地味さこそが本質である。
そして——この艦の航跡をたどると、ある奇妙な巡り合わせに行き当たる。1942年2月、涼風は米潜水艦スカルピンの雷撃で大破した。だが2年後、同じ第24駆逐隊で苦楽を共にした僚艦・山風と江風は、すでにこの世になかった。最後まで生き残った涼風を待っていたのも、結局は米潜水艦の魚雷だった。
1937年8月31日 竣工
34.0kt
(改白露型・海風型4番艦・最終艦)
単装砲1基(計5門)
(計8射線・魚雷16本)
(海風・山風・江風と編制)
軍縮条約脱退と本艦をもって建造打ち切り。残り10隻は朝潮型へ移行
米潜水艦スキップジャックの雷撃
第二次軍備補充計画(②計画)では、海風型(改白露型)を14隻建造する予定だった。だが軍縮条約脱退の動きの中、航続距離向上や特型駆逐艦の性能復活を実現できないという問題が浮かび、「涼風」をもって改白露型の建造は打ち切られた。残りの予定艦は設計を改め、より大型の「朝潮型」として完成している。すなわち涼風は、ある艦型の系譜が終わる、まさにその境界線に立つ艦だった。
1942年2月4日夕刻、セレベス島スターリング湾外で哨戒中の涼風は、米潜水艦スカルピンの雷撃を受けた。右舷前部に魚雷1本が命中し機関室に浸水、戦死者9名を出しながらも湾内に避退して応急修理にあたった。2月7日、僚艦「満潮」がスカルピンへの爆雷攻撃を報告し、スカルピンは退避した。損傷した涼風は佐世保に帰投し、7月まで半年近い修理を要した。この間、艤装員長を務めていた涼風駆逐艦長・神山昌雄少佐は4月15日付で第四水雷戦隊附となり、後任に柴山一雄少佐が着任している。
復帰直後の6月23日、僚艦「山風」が東京湾沖で米潜水艦ノーチラスの雷撃により撃沈された。改白露型最初の喪失艦である。第24駆逐隊は海風・江風・涼風の3隻編制となり、7月14日には第二水雷戦隊(田中頼三少将、旗艦神通)に編入される。8月7日、ガダルカナル島の戦いが始まると、涼風を待っていたのは終わりのない消耗戦だった。
8月25日午前6時、ガ島砲撃を終えて北上してきた駆逐艦5隻が涼風以下の輸送船団と合流した直後、急降下爆撃機とB-17の空襲を受けた。駆逐艦「睦月」と輸送船「金龍丸」が沈没、旗艦「神通」が炎上し戦闘不能となる。田中頼三司令官は旗艦を「陽炎」に変更し、涼風を「神通」の護衛につけて2隻をトラック泊地へ退避させた。輸送船団によるガ島揚陸作戦はこの日中止され、第二次ソロモン海戦は米軍の勝利に終わる。
9月以降、第24駆逐隊は鼠輸送に従事。10月中旬には戦艦「金剛」「榛名」によるガダルカナル島砲撃に参加し、10月26日の南太平洋海戦にも加わった。11月中旬の第三次ソロモン海戦では輸送船団の護衛を担当。11月18日、僚艦「海風」が空襲で損傷し戦線を離脱、11月25日には第24駆逐隊司令駆逐艦が「海風」から「江風」に変更された。
12月11日、第24駆逐隊(涼風・江風)は秋月型駆逐艦「照月」(第二水雷戦隊旗艦)の沈没に遭遇する。続く12月18日、軽巡「天龍」(第十八戦隊旗艦)を護衛し輸送船2隻と共にマダン上陸作戦に従事していた涼風は、米潜水艦アルバコアの雷撃で大破した天龍を曳航しようと試みた。しかし損傷は重く、天龍は曳航中に沈没してしまう。曳航という任務は戦果には数えられないが、僚艦を救おうとする駆逐艦の本質的な役割そのものである。涼風はこの種の「目立たない任務」を、戦争を通じて何度も担い続けた。
1943年1月2日、ガダルカナル島輸送作戦中に空襲を受け涼風は至近弾で損傷、ショートランド泊地へ引き返している。応急修理後、ガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)では補給部隊の護衛艦として参加した。2月、第24駆逐隊は全艦が損傷状態となるが、涼風は2月12日にトラックを出発し2月18日に佐世保へ帰投、本格的な修理に入った。
1943年7月5日、コロンバンガラ島輸送の途中、クラ湾夜戦が勃発した。日本側は支援隊(新月:第三水雷戦隊司令官秋山輝男少将座乗、第24駆逐隊《涼風》、第17駆逐隊《谷風》)、第一次輸送隊、第二次輸送隊という編制で出撃。米軽巡「ヘレナ」撃沈に対し、駆逐艦2隻(新月・長月)が沈没し、秋山三水戦司令官と三水戦司令部も総員戦死した。涼風も被弾し損傷を受け、戦死者2名を出している。司令部が全滅するほどの激戦を生き延びたことは、この艦の生命力を象徴する出来事だった。
7月13日のコロンバンガラ島沖海戦で第二水雷戦隊旗艦「神通」が沈没し、司令官伊崎俊二少将以下司令部が全滅。第四水雷戦隊が解隊され、その戦力と二水戦残存艦艇が統合されて新たな第二水雷戦隊が編成された。涼風は7月21日にトラックを出発し横須賀へ帰投、修理にあたった。
1944年1月18日、ポナペ島方面の輸送を担当していた涼風はトラック泊地に帰投。1月19日、米潜水艦の雷撃を受けた空母「雲鷹」の救援命令を受けるが、途中で引き返している。1月20日には、給糧艦「伊良湖」が米潜水艦シードラゴンに雷撃される事態が発生し、涼風は重巡「鳥海」等と共に救援に出動した。
1月24日、特設運送船「興津丸」「日豊丸」がトラックからブラウン環礁へ向けて出発し、涼風と第三十三号駆潜艇がこれを護衛した。1月25日23時5分、ポナペ島北東で米潜水艦スキップジャックの雷撃を受け、涼風は轟沈した。山下正男駆逐艦長以下231名が戦死し、生存者は13名だったとされる。スキップジャックはこの直後、後部発射管のバルブ故障により自艦も浸水の危機に陥ったが、なんとか持ち直し、翌1月26日には特設運送船「興津丸」も撃沈している。3月10日、涼風は白露型駆逐艦・第24駆逐隊・帝国駆逐艦籍のそれぞれから除籍された。
涼風が沈んだわずか7日後の2月1日、僚艦「海風」も米潜水艦ガードフィッシュの雷撃で同じように沈没している。これにより第24駆逐隊は、新たに加わっていた朝潮型「満潮」のみとなり、3月31日に解隊された。改白露型(海風型)4隻——海風・山風・江風・涼風——は、すべてが米潜水艦(江風のみ駆逐艦群の奇襲雷撃)によって失われたことになる。
しかし、その地味な勤勉さもまた、潜水艦という静かな脅威からは逃れられなかった。改白露型4隻すべてが米潜水艦の雷撃(あるいはその関連)によって失われたという事実は、太平洋戦争後半における対潜戦の致命的な遅れを、何より雄弁に物語っている。
この艦が残したものは何か。それは、戦果として記録されにくい「支える仕事」こそが、駆逐艦という艦種の真の役割であったという事実である。猫工艦は、最後まで隊列を離れなかった一艦の航跡に、今も敬意を捧げたい。
▼ 関連記事
■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書46『海上護衛戦』朝雲新聞社、1971年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書49『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1971年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書62『中部太平洋方面海軍作戦<2>』朝雲新聞社、1973年
- ・半藤一利『航空戦史シリーズ41 ルンガ沖夜戦』朝日ソノラマ、1984年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)涼風公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「涼風 (駆逐艦)」「海風 (白露型駆逐艦)」「山風 (白露型駆逐艦)」