1933年、大日本帝国海軍の艦艇類別等級表に、わずか数ヶ月だけ存在した艦型がある。「有明型」——初春型の5番艦「有明」と6番艦「夕暮」が、当初の計画どおり四連装魚雷発射管を搭載して独立艦型として完成していれば、最大22隻に及ぶはずの艦型だった。しかし友鶴事件による緊急改装で四連装発射管を取り上げられ、最終的には初春型の5・6番艦として類別されたまま、有明型は書類の上で1年も経たずに消えた。日本の駆逐艦史上でも最も短命な独立艦型である。
有明型は2隻のみで終わったが、その本質的な意義は大きい。「有明」が白露型のタイプシップとなる予定であり、白露型の建造には「有明以降の設計を踏台とする」という文脈があった。また後期の4隻(海風・山風・江風・涼風)の艦橋形状が、のちに朝潮型・陽炎型に継承されたのも、この流れの延長線上にある。有明と夕暮は「失敗の申し子」ではなく、条約時代の駆逐艦設計を白露型へとつなぐ「橋渡し」の艦なのである。
そして——両艦は実戦でも第27駆逐隊の一員として南雲機動部隊の護衛から真珠湾支援、蘭印作戦、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、ガダルカナル輸送と転戦を重ね、1943年7月のコロンバンガラ沖で相次いで轟沈した。「有明型」という呼称は幻に終わったが、2隻の艦歴は、条約時代の苦闘と太平洋の消耗戦を体現している。
夕暮:舞鶴海軍工廠
夕暮:1935年3月30日
(条約制限1,500tを超過)
(初春型5・6番艦)
+A型単装×1基(5門)
(計6射線・改装後)
(計画35.0kt)
(有明・夕暮・白露・時雨)
夕暮:1943年7月20日 コロンバンガラ沖 轟沈
1930年のロンドン海軍軍縮条約により、駆逐艦の個艦排水量は1,500t以下に制限された。しかし日本海軍は「吹雪型(1,680t)に匹敵する性能を1,400t以内に収める」という無謀な要求を掲げ、初春型を建造した。1933年8月、竣工した初春型1番艦「初春」は公試で旋回試験中に大傾斜を起こし、復元性能の著しい不足が判明した。
この問題が発覚した時点で、5番艦「有明」と6番艦「夕暮」はまだ設計段階だった。有明以降は初春型とは別設計(基本計画番号F45B・F45C)として進め、当初は四連装魚雷発射管2基(計8射線)を搭載する「有明型」として独立艦型に登録された。白露型(白露・時雨・村雨)も一時この「有明型」の傘下に入っている。最大で22隻に膨らむ可能性があった。
1934年3月12日、水雷艇友鶴が転覆。海軍全艦艇の復元性能を総点検した結果、初春型はもちろん建造中の有明・夕暮にも重大な設計変更が命じられた。さらに、四連装魚雷発射管は「計画値より重量が大幅超過」という問題が重なり、結局有明・夕暮は三連装×2基に縮小。武装が改装後の初春型と同一になった時点で「有明型」は消滅し、両艦は初春型の5・6番艦となった。つまり有明型は、友鶴事件という「設計の悪夢」によって設計図の上から抹消された艦型だった。
有明・夕暮(初春型改良艦)と白露・時雨(白露型)で構成された第27駆逐隊は、設計系統が異なる2つの艦型が同一駆逐隊を組むという珍しい編制だった。白露と時雨の竣工が遅れたため、開戦前年まで有明・夕暮の2隻だけで行動する期間もあったが、4隻が揃った1936年11月から1943年7月まで、第27駆逐隊は太平洋戦争のほぼ全期間を共に行動した。
有明・夕暮は「設計の失敗」として記録される初春型の系統に属するが、第27駆逐隊の実際の戦歴を見れば、「護衛」「輸送」「救援」を積み重ねた8年間は、決して平凡ではない。とりわけ白露・時雨という「幸運艦」とともに艦隊型・条約型の設計上の格差を乗り越えて戦い続けた事実は、艦型の差を超えて一つの駆逐隊として機能した証である。
1943年7月12日、コロンバンガラ島沖海戦。第二水雷戦隊旗艦「神通」(司令官伊崎俊二少将)がアメリカ艦隊の集中砲火を受けて沈没し、伊崎司令官以下司令部が全滅した。夕暮はこの海戦を生き延びたが、7月20日の再出撃で命運が尽きる。コロンバンガラ島方面の重巡護衛任務中、チョイセル島沖で夜間空襲を受け、夕暮は艦体が切断されるほどの直撃を受けて轟沈した。加茂喜代之艦長(この日付で大佐に昇進・戦死)以下乗員全員が行方不明となった。
城英一郎日記(昭和18年7月20日)には「夕暮、爆撃により艦体切断沈没、救援の清波、消息不明」と記録されている。同じ日付で四水戦が解隊され第27駆逐隊は二水戦へ編入されたが、その瞬間に夕暮は海に没していた。新水雷戦隊が編成された日に、その構成員が既にいない——これが夕暮の最期の皮肉だった。
夕暮の戦没から8日後の1943年7月28日。有明は睦月型駆逐艦「三日月」とともに、ニューブリテン島ツルブへの輸送作戦に参加した。ガダルカナルを失った後も続く「死線の輸送」——輸送隊は敵の空振りをかわしながら揚陸を試みたが、任務遂行中に空襲を受け、有明と三日月はともに撃沈された。城英一郎日記には「ツルブ輸送の有明と三日月、ともにリーフに座礁す」という記述も残っており、空襲の衝撃による事故も重なっていた可能性を示している。
有明と夕暮が初春型に戻された1934年から戦没した1943年まで、両艦の類別は一貫して「初春型」だった。「有明型」として分類された期間はほぼ1年に満たない。しかしその短い「有明型」時代が設計の転換点となり、白露型への道を開いた。書類上は「改初春型」の2隻として消えた有明と夕暮だが、その存在が日本海軍の条約型駆逐艦設計を「初春型の失敗」から「白露型の成功」へと導いた橋渡し役を果たしたことは、歴史的事実として残る。
| 艦名 | 建造所 | 竣工日 | 初代艦長 | 特記・最期 |
|---|---|---|---|---|
| 有明(ありあけ)★橋渡し役 | 川崎造船所(神戸) | 1935年3月25日 | 石渡良市 少佐 | 第27駆逐隊で蘭印作戦・珊瑚海・ミッドウェー・鼠輸送を歴任。1943年7月28日ツルブ輸送中に空襲で沈没 |
| 夕暮(ゆうぐれ)★コロンバンガラの最期 | 舞鶴海軍工廠 | 1935年3月30日 | 安武史郎 少佐 | 「四水戦解隊=二水戦編入」その瞬間に轟沈。1943年7月20日、コロンバンガラ近海の夜間空襲で艦体切断・乗員全員行方不明 |
「有明」は夜明け前に月が残る空——夜から朝への境界。「夕暮」は日が落ちる黄昏——昼から夜への境界。対を成す2つの名は、条約時代の終わりと太平洋戦争を生きた2隻の運命を暗示するかのようだ。失敗のイメージとは裏腹に、「有明」「夕暮」の名は戦後、海上自衛隊「ありあけ型護衛艦」の1番艦・2番艦にそれぞれ引き継がれた。
| 項目 | 有明 | 夕暮 |
|---|---|---|
| 艦型・番艦 | 初春型5番艦(改初春型/有明型) | 初春型6番艦(改初春型/有明型) |
| 建造所 | 川崎造船所(神戸) | 舞鶴海軍工廠 |
| 起工日 | 1933年(昭和8年)1月14日 | 1933年(昭和8年)4月9日 |
| 進水日 | 1934年(昭和9年)9月23日 | 1934年(昭和9年)5月6日 |
| 竣工日 | 1935年(昭和10年)3月25日 | 1935年(昭和10年)3月30日 |
| 全長 | 109.5m(夕暮とほぼ同一) | 109.5m |
| 全幅 | 9.9m(有明:胴部フレアあり) | 9.9m(夕暮:胴部フレアなし、白露型に近い船体) |
| 基準排水量 | 約1,700t(条約制限1,500t超過・秘匿) | 約1,700t(同) |
| 機関 | ロ号艦本式缶3基 / 艦本式タービン2基 | ロ号艦本式缶3基 / 艦本式タービン2基 |
| 速力(公試) | 33.4kt(計画35.0kt/2枚舵試験で低下) | 約34kt(1枚舵に戻し若干回復) |
| 航続距離 | 14ktで4,000海里 | 14ktで4,000海里 |
| 主砲 | 12.7cm C型連装2基+A型単装1基(5門) | 12.7cm C型連装2基+A型単装1基(5門) |
| 魚雷発射管 | 61cm三連装2基(6射線) ※当初予定の四連装から変更 |
61cm三連装2基(6射線) ※同上 |
| 乗員 | 約209名(定員) | 約209名(定員) |
| 特記(有明固有) | 初春型5番艦として最初に傾斜型2枚舵を試験。効果なく1枚舵に戻された | 胴部フレアなし、船体が白露型に類似。後の白露型のタイプシップ的性格を持つ |
| 戦没 | 1943年7月28日 ツルブ輸送中 空襲 | 1943年7月20日 コロンバンガラ近海 夜間空襲 轟沈 |
| 除籍 | 1943年10月15日 | 1943年10月15日 |
| 後継艦名 | 海上自衛隊「ありあけ」(ありあけ型護衛艦)に引き継がれた | 海上自衛隊「ゆうぐれ」(ありあけ型護衛艦)に引き継がれた |
有明型は「失敗の連鎖」の中で生まれた艦型だが、その「改設計」の意義は大きい。吹雪型→初春型→有明型(消滅)→白露型→朝潮型という系譜において、有明型は「初春型の失敗を修正する実験台」として機能した。特に夕暮の船体(胴部フレアなし・白露型に近い)は、白露型以降の船体設計の原型となっており、後の朝潮型・陽炎型の艦橋設計も有明型の試行から学んでいる。
有明型の本質は、「消えることで完成した設計」にある。友鶴事件によって四連装魚雷発射管を失い、独立艦型としての根拠を失い、1年足らずで書類から消えた。しかしその設計の試行——胴部フレアの有無、艦橋形状、舵の実験——が白露型の設計基盤となり、朝潮型・陽炎型まで続く日本駆逐艦の「標準形」を形作る礎石となった。消えた艦型が、残った艦型を育てた。
しかし、その「橋渡し」としての役割と、実際の戦闘での有明・夕暮の消耗は切り離せない問題でもある。2隻は1935年の竣工から1943年の戦没まで8年間、機動部隊護衛から鼠輸送まで酷使され続けた。設計上の「妥協の産物」である2隻が、設計上より優れた白露型・陽炎型と同じ戦場に立ち続けた事実は、駆逐艦という艦種がいかに消耗戦の道具として扱われたかを映し出している。
「有明型」という名は1年で消えたが、有明と夕暮という2隻の艦は8年間消えなかった。そして1943年7月、ソロモン諸島の夜の空に、同じ月を見ながら8日の差で相次いで沈んだ。猫工艦は、幻の艦型を背負いながら戦い続けた2隻の航跡に、今も敬意を捧げたい。
▼ 関連記事
■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書『南東方面海軍作戦』朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)有明・夕暮公文備考 / 四水戦日誌
- ・Wikipedia「有明 (初春型駆逐艦)」「夕暮 (初春型駆逐艦)」「初春型駆逐艦」「白露型駆逐艦」「コロンバンガラ島沖海戦」
- ・城英一郎著/野村実編『城英一郎日記』中公文庫
- ・片桐大自『帝国海軍全艦艇史』ベストセラーズ
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫
- ・鈴木範樹「日本海軍の足カセ”ロンドン条約”」『写真日本の軍艦第11巻』