1933年8月——竣工からわずか数日後の公試運転で、舵角10度に対して38度もの大傾斜を見せた駆逐艦「初春」の姿は、乗員だけでなく帝国海軍全体を震撼させた。「1,400トンに吹雪型と同等の性能を押し込む」という軍令部の要求がいかに無謀だったか、完成した瞬間に証明されてしまった。バルジ増設、大改装、友鶴事件、第四艦隊事件——4度の大きな設計変更を経てようやく水雷戦隊で動けるようになった時、速力はすでに33ノットまで落ちていた。計画値から3ノット低下した駆逐艦が誕生した。
初春型は、ロンドン海軍軍縮条約(1930年)が産んだ「矛盾の申し子」である。条約で1,500トン超の駆逐艦に制限が設けられたにもかかわらず、海軍は1,400トン型に吹雪型(1,680トン)以上の重武装を詰め込もうとした。設計を担当した藤本喜久雄造船大佐の技術力をもってしても、物理の壁を超えることはできなかった。初春型6隻のうち前4隻(初春・子日・若葉・初霜)が第21駆逐隊を組み、残る2隻(有明・夕暮)は設計を改めて「有明型(改初春型)」となり白露型へとつながった。
そして——「失敗作」のレッテルを貼られた初春型が、実際の戦争でどう戦ったかは、また別の話だ。第21駆逐隊は序盤の南方攻略からアリューシャンの霧の中の死闘、キスカ島撤退、フィリピンの最終決戦まで転戦を重ねた。初春は1944年11月13日にマニラ湾で沈み、最後まで残った初霜だけが1945年7月30日に宮津湾で触雷大破着底し——初春型はついに終戦を「戦闘可能な艦」として迎えることができなかった。
+A型単装×1(5門)
(計6射線)
艦本式タービン2基
(初春・子日・若葉・初霜)
1930年のロンドン海軍軍縮条約は、吹雪型(1,680トン)のような大型駆逐艦に対して「1,500トン超は保有量の16%以内」という制限を設けた。これに対し日本海軍が出した答えが「1,400トンに吹雪型と同等の性能を持たせる」という要求だった。藤本喜久雄造船大佐が設計を担当し、1931年5月14日に佐世保工廠で起工した初春は、竣工時には以下の問題が重なった。
計画値:1,400t / 速力36.5kt / 主砲3基5門 / 三連装魚雷3基9射線
問題点①:重武装と軽量化の両立が不可能。排水量は計画の1,400tを超えて1,680t相当に。
問題点②:復元性能が著しく不足。舵角10度で38度傾斜。60度傾斜で転覆するほどGMが低かった。
問題点③:バルジ増設 → 友鶴事件後の大改装 → 第四艦隊事件後の船体補強 → 速力が33ktに低下。
つまり「1,400tに吹雪型の性能」を詰め込もうとした結果、「1,700t・33kt・6射線」という特型より重くて遅い駆逐艦が完成した。
| 艦名 | 建造所 | 起工日 | 竣工日 | 特記・最期 |
|---|---|---|---|---|
| 初春(はつはる)★型名艦 | 佐世保海軍工廠 | 1931年5月14日 | 1933年9月30日 | 竣工直後の公試で大傾斜が判明、設計失敗が発覚したネームシップ。1944年11月13日、多号作戦後のマニラ湾で米軍機の空襲を受け沈没 |
| 子日(ねのひ)★最初の戦没艦 | 浦賀船渠 | 1931年12月15日 | 1933年9月30日 | 初春型前期4隻の中で最初の戦没艦。1942年7月5日、アッツ島ドッグ岬沖で米潜水艦グロウラーの雷撃を受け沈没。寺内三郎艦長(中佐)戦死 |
| 若葉(わかば)★キスカ撤退の幸運と不運 | 佐世保海軍工廠 | 1931年12月12日 | 1934年10月31日 | キスカ島撤退作戦では途中で衝突事故を起こし離脱。南方へ転戦し、1944年10月24日、レイテ沖海戦(志摩艦隊)でパナイ島西方に米艦載機の攻撃を受け沈没 |
| 初霜(はつしも)★最後の生き残り | 浦賀船渠 | 1932年1月31日 | 1934年9月27日 | 初春型唯一の終戦時存命艦(ただし大破着底)。坊ノ岬沖海戦にも参加。1945年7月30日、宮津湾で触雷大破着底し、終戦を着底のまま迎えた。艦名は海自に継承されず |
| 有明(ありあけ)★改初春型1番艦 | 川崎造船所(神戸) | 1933年1月14日 | 1935年3月25日 | 第27駆逐隊。第21駆とは別行動で蘭印〜ソロモン戦。1943年7月28日ツルブ輸送中に空襲沈没。艦名は海自「ありあけ型護衛艦」1番艦に継承 |
| 夕暮(ゆうぐれ)★改初春型2番艦 | 舞鶴海軍工廠 | 1933年4月9日 | 1935年3月30日 | 第27駆逐隊。四水戦解隊・二水戦編入のその瞬間に轟沈。1943年7月20日コロンバンガラ近海で夜間空襲により艦体切断沈没。乗員全員行方不明。艦名は海自「ありあけ型護衛艦」2番艦に継承 |
初春型の艦名規則は「時節の始まり」を表す雅語で統一されている。初春は「新年」、子日は「正月の子の日の遊び」、若葉は「生え始めの葉(初夏の季語)」、初霜は「晩秋に降る最初の霜」、有明は「夜明け前に月が残る空」、夕暮は「夜の始まり」——有明と夕暮は対を成す言葉でもある。なお戦後、「わかば」(若葉)、「ありあけ」(有明)、「ゆうぐれ」(夕暮)の艦名が海上自衛隊に引き継がれた。
1942年1月25日朝、スラウェシ島ケンダリー攻略の増援として急行中の第21駆逐隊は、軽巡「長良」の旗艦部隊と海上で合流しようとした。速力21ノットで航行中の初春は、長良の右舷中央部に衝突した。初春の第1砲塔から前部が大破し、長良にも損傷が及んだ。初春は若葉・子日に護衛されてダバオへ後退し、その後長期にわたる修理に入った。さらに1942年10月17日にはキスカ輸送中に米軍機の攻撃を受けて大破し、2度目の長期修理に入っている。
初春型は設計上の失敗から「新鋭でありながら第二線任務」に回されたが、それは「安全な任務」を意味しなかった。輸送護衛・対潜哨戒・北方哨戒と次々に酷使され、特に北方のアリューシャン方面では霧と悪天候の中を走り続けた。「平凡な性能」だからこそ使い倒された——これが初春型の本当の戦歴だった。
1942年から1943年にかけて、第21駆逐隊の主戦場は北方のアリューシャン方面だった。濃霧・悪天候・機雷・潜水艦という過酷な環境の中、初春型は繰り返し物資を輸送した。1943年3月27日のアッツ島沖海戦では、那智・摩耶・多摩・阿武隈・若葉・初霜・雷・電のほか、若葉が距離16,000メートルで魚雷6本を発射するも命中せず。海戦は日本側が米艦隊を退けたが弾薬が欠乏し、アッツ島への輸送は断念という「事実上の失敗」に終わった。
キスカ撤退で無傷の初霜は、1945年4月7日の坊ノ岬沖海戦(大和特攻)にも随伴参加し、大和・矢矧・6駆逐艦と共に出撃した。初霜は生還し、7月30日の宮津湾で触雷大破着底という形で艦歴を終えた。「終戦を迎えた」のではなく「着底したまま終戦を迎えた」——それが初春型最後の生存艦の末路だった。
| 項目 | 仕様値 |
|---|---|
| 艦型・区分 | 初春型駆逐艦(前期4隻:初春・子日・若葉・初霜) |
| 起工日 | 初春:1931年5月14日 / 子日・若葉・初霜:1931年12月 |
| 竣工日 | 初春・子日:1933年9月30日 / 初霜:1934年9月27日 / 若葉:1934年10月31日 |
| 全長 / 全幅 | 109.5m / 10.0m(改装後) |
| 基準排水量 | 約1,700t(改装後)——計画値1,400t、条約制限1,500tをいずれも超過(秘匿) |
| 機関 | 艦本式缶3基 / 艦本式タービン2基 / 2軸 |
| 速力 | 33.0ノット(改装後)——計画値36.5ktから約3.5kt低下 |
| 航続距離 | 14ノットで4,000海里(吹雪型の5,000海里より短い) |
| 主砲 | 12.7cm B型改二 連装×2基 + A型単装×1基(計5門) (2番砲塔を後部移設。初春・子日は改装後も外観が大きく変化) |
| 魚雷発射管 | 61cm三連装×2基(計6射線) 当初計画の三連装3基(9射線)から削減 |
| 乗員 | 約205名(定員) |
| 特記 | 後部マストは日本駆逐艦初の三脚式採用。竣工時の初春は三連装魚雷3基(9射線)の異形艦だったが、友鶴事件後の改装で2基(6射線)に削減 |
初春型の試行錯誤から生まれた技術は白露型・朝潮型・陽炎型へと受け継がれた。特に後部三脚マスト、友鶴事件後の復元性設計手法、第四艦隊事件後の船体強度基準——これらはすべて「初春型という失敗」が海軍設計に強制的に与えたアップデートだった。つまり初春型は「失敗作」であると同時に、日本駆逐艦設計を次の段階へ引き上げた「教訓の塊」だった。
初春型の本質は、「要求と現実の乖離を艦型で体現した艦」にある。1,400トンに吹雪型と同等の性能を求めた軍令部の要求は、設計段階から不可能に近いものだった。しかし藤本喜久雄は「できません」と言えず——あるいは言えない状況に置かれ——無理を通した結果、公試で大傾斜を起こした。友鶴事件という外部の衝撃がなければ、初春型はあのまま不安定な艦として使われ続けたかもしれない。
しかし、「失敗作」という評価は結果論であり、戦争の現場で初春・子日・若葉・初霜が「失敗作」として扱われたわけではない。4艦は南方攻略から北方のアリューシャン、そしてフィリピンの最終決戦まで転戦し、消耗した。初霜だけが「着底」という形で終戦を迎えたという事実は、「平凡な性能の艦がいかに酷使されたか」を無言で語っている。
この艦型が残したものは、「設計の失敗」という記録だけではない。友鶴事件・第四艦隊事件という「設計の再教育」を通じて、後の白露型・朝潮型・陽炎型という傑作群への道を開いた。失敗しなければ気づかなかったことを、6隻という最小の犠牲で証明した——それが初春型の最大の遺産かもしれない。猫工艦は、不完全なまま戦い続けた6隻の航跡に、敬意を捧げたい。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書『北東方面海軍作戦』『中部太平洋方面海軍作戦』朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)初春・子日・若葉・初霜公文備考 / 第21駆逐隊戦時日誌
- ・Wikipedia「初春型駆逐艦」「初春 (初春型駆逐艦)」「子日 (初春型駆逐艦)」「若葉 (初春型駆逐艦)」「初霜 (初春型駆逐艦)」
- ・片桐大自『帝国海軍全艦艇史』ベストセラーズ
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫
- ・佐伯玲治「北方から南方へ第二十一駆逐隊の栄光」歴史群像太平洋戦史シリーズ
- ・田村俊夫「「初春」型戦時兵装の変遷」歴史群像太平洋戦史シリーズ57