1935年9月7日——ロンドン海軍軍縮条約脱退を見込んで起工された「朝潮」は、日本が条約の縛りを取り払い、再び吹雪型並みの大型駆逐艦を建造できるようになった時代の「第一号」だった。計画排水量2,000トン、速力35ノット、12.7cm連装砲3基6門、四連装魚雷発射管2基——これは初春型や白露型が散々苦労して実現できなかった要求値を、余裕をもって満たす設計だった。「条約時代の悪夢」は終わり、日本海軍の駆逐艦は吹雪型の延長線上に戻った。
しかし「特型の復活」として期待を集めた朝潮型は、竣工後にタービン翼の折損という「臨機調事件」が発覚し、全艦が一時予備艦に指定された。さらに艦尾形状の改修、推進器の変更——完成した後にも修正が繰り返された。それでも朝潮型は太平洋戦争の全期間を通じて水雷戦隊の中核として戦い、10隻全てが戦没した。バリ島からソロモン、レイテ、そして坊ノ岬沖まで——最後の1隻「霞」が1945年4月7日に大和とともに沈んだ時、朝潮型は完全に消滅した。
そして——朝潮型の消耗は驚くほど急速だった。10隻中6隻が、1943年3月という「1ヶ月以内」に集中して戦没している(朝潮・荒潮がビスマルク海海戦で3月3日・4日、峯雲が3月5日、夏雲が前年10月)。さらにビスマルク海海戦では、ネームシップ「朝潮」の沈没により1943年には「満潮型」と改称されるという皮肉な結末も待っていた。
2,635t(公試)
3基6門
×2基(計8射線)
艦本式タービン2基
1934年頃から、日本海軍の用兵側は中型駆逐艦(初春型・白露型)の航続距離・速力・凌波性に強い不満を持っていた。「白露型以下の性能では決戦海域での活動に限界がある」という判断のもと、1934年には「②計画(マル2計画)」で白露型14隻の建造が進められていたが、国際情勢の緊迫化と条約脱退の見込みを受けて方針転換。4隻で打ち切り、残り10隻を大型駆逐艦として再設計することが決まった。これが朝潮型の出発点である。
①九六式25mm機銃の艦艇初搭載(朝潮のみ竣工時から。他艦も後次採用)
②ソナー(九三式水中探信儀)の搭載——日本駆逐艦で初めて本格的な対潜装備を標準化
③交流電源の試験採用(後の夕雲型で本格採用)
つまり朝潮型は「吹雪型の復活」という評価に留まらず、後の甲型駆逐艦(陽炎型・夕雲型)への橋渡しとなる技術試験場でもあった。
| 艦名 | 建造所 | 起工日 | 竣工日 | 特記・最期 |
|---|---|---|---|---|
| 朝潮(あさしお)★型名艦 | 佐世保海軍工廠 | 1935年9月7日 | 1937年8月31日 | バリ島沖海戦・第三次ソロモン海戦等に参加。1943年3月3日ビスマルク海海戦で米機に撃沈。沈没後「満潮型」に改称。艦名は海自「あさしお」に継承 |
| 大潮(おおしお) | 佐世保海軍工廠 | 1935年11月4日 | 1937年10月31日 | バリ島沖海戦で活躍後、ガダルカナル輸送に従事。1943年2月20日ショートランド沖で米潜水艦アンビージャックの雷撃を受け沈没 |
| 満潮(みちしお)★スリガオの生き残り | 藤永田造船所 | 1935年12月4日 | 1937年10月31日 | 第8駆逐隊の中で最も長く生き残った艦。レイテ沖海戦・西村艦隊に合流し1944年10月25日スリガオ海峡夜戦で戦没。艦名は海自「みちしお(潜水艦)」に継承 |
| 荒潮(あらしお) | 藤永田造船所 | 1936年6月22日 | 1937年12月31日 | バリ島沖海戦でトロンプを損傷。ビスマルク海海戦翌日の1943年3月4日、生存者救助中に米機に再攻撃され沈没 |
| 朝雲(あさぐも)★スリガオの証人 | 舞鶴海軍工廠 | 1936年5月20日 | 1938年3月31日 | 第9駆逐隊で緒戦の南方攻略を歴任。西村艦隊の一員として1944年10月25日スリガオ海峡夜戦で戦没。艦名は海自「やまぐも型護衛艦」の3番艦「あさぐも」に継承 |
| 山雲(やまぐも)★スリガオの最期 | 浦賀船渠 | 1936年11月5日 | 1938年1月28日 | 開戦時リンガエン上陸作戦中に触雷し長期修理。復帰後は朝雲と共に西村艦隊に加わり1944年10月25日スリガオ海峡夜戦で戦没。艦名は海自「やまぐも型護衛艦」1番艦に継承 |
| 夏雲(なつぐも)★御召艦・サボ島沖の犠牲 | 浦賀船渠 | 1936年12月2日 | 1938年2月10日 | 竣工後の1938年8月、昭和天皇の御召艦を務めた。1942年10月12日サボ島沖海戦(第二次ソロモン海戦後)で米軍機の空襲を受け沈没。艦名は海自「みねぐも型護衛艦」2番艦に継承 |
| 峯雲(みねぐも) | 舞鶴海軍工廠 | 1936年9月30日 | 1938年4月30日 | 1943年3月5日、クーラ湾(ニュージョージア島方面)で米軍機の攻撃を受け沈没。ビスマルク海海戦の2日後。艦名は海自「みねぐも型護衛艦」1番艦に継承 |
| 霰(あられ)★キスカ湾の最期 | 佐世保海軍工廠 | 1937年5月8日 | 1939年4月15日 | 陽炎型「陽炎・不知火」と第18駆逐隊を組み、南雲機動部隊と共に真珠湾攻撃・セイロン沖海戦・ミッドウェーに参加。1942年7月5日、キスカ湾で米潜水艦の雷撃・触雷を受け沈没。朝潮型最初の戦没艦 |
| 霞(かすみ)★最後の生き残り・大和と共に | 佐世保海軍工廠 | 1937年12月1日 | 1939年5月28日 | 朝潮型10隻中最後まで生き残った艦。真珠湾・セイロン・ミッドウェー・スリガオ(志摩艦隊で生還)・坊ノ岬と転戦。1945年4月7日、天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)で米機に撃沈。処分は「冬月」が担当。艦名は海自艦艇に継承 |
1942年2月19日夜から20日未明、ジャワ攻略のためバリ島ビノン泊地への輸送を終えた第8駆逐隊(朝潮・大潮・満潮・荒潮)は、待ち受けるABDA連合艦隊と交戦した。相手は軽巡3隻・駆逐艦7隻という数的優位の艦隊だったが、第8駆逐隊は劣勢を跳ね返し、オランダ駆逐艦「ピートハイン」を撃沈、蘭軽巡「トロンプ」・米駆逐艦「スチュワート」に損傷を与えた。ただし夜間2波にわたる海戦の最中、後から参加した第2小隊(満潮・荒潮)は反撃を受けて満潮が大破した。
1943年3月2日、第51師団をラエに輸送するため8隻の輸送船と8隻の駆逐艦が出撃した(輸送船護衛:荒潮・時津風・浦風・雪風、輸送船護衛:朝潮・大潮・荒潮)。ところが制空権を握る連合軍の大規模な爆撃により、3月3日から4日にかけて輸送船8隻と駆逐艦の朝潮(3日)・荒潮(4日)が撃沈され、輸送部隊は壊滅した。さらに3月5日には峯雲がクーラ湾で撃沈。大潮も2月20日に既に失っており、この時期に第8・第9駆逐隊は合計4隻を喪失した。
大潮(2月20日)・朝潮(3月3日)・荒潮(3月4日)・峯雲(3月5日)の4隻が2週間以内に相次いで戦没した。これは制空権を失った状態での水上艦艇輸送の限界を示しており、ビスマルク海海戦の教訓は「もはや駆逐艦による大規模輸送は不可能」という結論をもたらした。ガダルカナル後のソロモン・ニューギニア方面における日本海軍の輸送能力は、この「3月」を境に根本的に瓦解した。
1944年10月25日未明、西村祥治中将率いる第一遊撃部隊第三部隊(西村艦隊)がレイテ湾突入を目指してスリガオ海峡に進入した。戦艦「山城」「扶桑」、重巡「最上」、そして朝潮型の満潮・山雲・朝雲の3隻は、オルデンドルフ少将率いる米艦隊が敷いた「T字戦法」の罠に陥り、次々と撃沈された。満潮・山雲・朝雲の3隻は全て10月25日に戦没し、西村艦隊はほぼ全滅した。
一方、志摩艦隊の一員として同じスリガオ海峡に進入した霞は、戦況を見て撤退に成功した。その後もオルモック輸送・礼号作戦・北号作戦と転戦し、1945年4月7日の坊ノ岬沖海戦(天一号作戦)に戦艦「大和」と共に出撃。米軍機の集中攻撃を受けて航行不能となり、秋月型「冬月」の雷撃によって処分された。これが朝潮型最後の戦没艦であり、10隻全滅の完結だった。
| 項目 | 仕様値 |
|---|---|
| 艦型 | 朝潮型駆逐艦(ネームシップ沈没後「満潮型」に改称) |
| 起工日 | 1番艦朝潮:1935年9月7日(以降1937年12月まで順次起工) |
| 竣工日 | 1番艦朝潮:1937年8月31日 / 最終艦霞:1939年5月28日 |
| 全長 / 全幅 | 118.0m / 10.386m(吹雪型118.5mとほぼ同等) |
| 基準排水量 | 1,961t(基準)/ 2,635t(公試)——白露型1,685tから大幅拡大 |
| 機関 | ロ号艦本式缶3基 / 艦本式タービン2基 / 2軸 / 出力52,000馬力 |
| 速力 | 34.85ノット(大潮公試成績)——艦尾改修後は約0.7kt向上 |
| 航続距離 | 18ノットで5,000海里——白露型4,000海里より改善 |
| 主砲 | 50口径三年式12.7cm C型連装砲 3基6門(全周シールド付き、荒天対応設計) |
| 魚雷発射管 | 九二式61cm四連装水上発射管 2基8射線(九三式酸素魚雷搭載) |
| 対空機銃(初期) | 九六式25mm連装機銃 / 九三式13mm機銃(艦によって相違あり) 朝潮型は日本駆逐艦で最初に九六式25mm機銃を搭載(朝潮のみ竣工時から) |
| 対潜装備 | 九三式水中探信儀(ソナー)——日本駆逐艦で初めて対潜装備を標準化 |
| 乗員 | 約230名(定員) |
| 電源方式 | 交流電源を試験採用(夕雲型で本格採用。日本駆逐艦で最後の直流艦となった陽炎型と並行) |
朝潮型は速力・航続距離が陽炎型以降の要求に届かなかった。臨機調事件によるタービン問題、旋回圏問題と修正工事の連続が示すように、朝潮型は「設計の過渡期」の産物だった。用兵側は速力35ノット以上・航続距離さらに延長を求め、これを実現した陽炎型に移行した。朝潮型は10隻の「試作量産型」として、甲型駆逐艦の完成への道を切り開く役割を担った。
朝潮型の本質は、「条約の呪縛が解けた最初の答え」にある。初春型・白露型という「不可能な要求を満たそうとした失敗の連鎖」を経て、朝潮型はようやく「吹雪型並みの大型駆逐艦を無理なく作る」という当初あるべき答えに辿り着いた。臨機調事件・旋回圏問題という新たなトラブルも、「設計を一から見直す機会」として次の陽炎型の完成度を高める糧となった。
しかし、その完成度と引き換えに朝潮型が払った代償は重かった。10隻全てが戦没し、1943年3月という「魔の1ヶ月」に集中して4隻が消えた。バリ島沖海戦での輝きは本物だったが、制空権を失った海域での水上艦艇輸送という「不可能な任務」に駆り出された朝潮型は、設計上の完成度とは無関係に消耗していった。
この艦型が残したものは何か。霞という最後の1隻が、坊ノ岬沖で大和と共に沈んだという事実が、朝潮型の終わりを象徴している——条約時代の夢と現実の狭間で産まれ、条約脱退後の「大型艦時代」の担い手として働き、最後は1945年4月の海に全艦が没した。猫工艦は、特型の復活を担いながら時代の消耗戦に飲み込まれた10隻の航跡に、今も敬意を捧げたい。
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