「秋雲型になるはずだった、陽炎型最後の1隻」——ホーネットの最期を見届け、キスカの奇跡を成し遂げ、ザンボアンガ沖に消えた陽炎型19番艦「秋雲」の全記録

1942年10月26日22時過ぎ、南太平洋海戦。傾斜を強めながら燃え続ける米空母「ホーネット」の姿を見た駆逐艦「秋雲」艦長・相馬正平中佐は、この光景を記録に残すよう命じた。しかし夜間の撮影は不可能。そこで絵の心得がある信号員にスケッチを命じるが、「細部が見えない」との申し出を受けた相馬艦長は、なんと敵の目前で探照灯を照射させる。僚艦「巻雲」からは驚いた様子で「如何セシヤ」の発光信号が送られたというが、艦長は構わず5回、6回とサーチライトを浴びせ続けた。この危険を顧みない行為の末、信号員は見事にホーネット最期の姿を描き切っている。

陽炎型19番艦、そして最終艦として1941年9月に竣工した「秋雲」は、実はもともと「秋雲型」1番艦となるはずだった艦だった。対米関係悪化を受け、1隻でも多くの新造駆逐艦を求めた海軍の要請により陽炎型の図面が流用されたのである。この経緯もあって、戦後長らく「夕雲型2番艦」と誤って分類され続け、実際には陽炎型だったという事実が判明したのは、1994年になってからのことだった。

そして——真珠湾攻撃で唯一機動部隊に随伴した空母護衛艦としての栄誉、山本五十六元帥の遺骨護送という重い任務、そして一人の死者も出さなかった「奇跡」のキスカ島撤退作戦——秋雲は太平洋戦争を通じて、数々の重要な瞬間に立ち会い続けた。しかし1944年4月11日、この艦の艦歴もついに終わりを迎える。皮肉にも、それは進水からちょうど3年後の同じ日だった。

■ 陽炎型19番艦「秋雲」基本諸元 ■
建造所
浦賀船渠
起工 1940年7月2日
進水 / 竣工
1941年4月11日 / 9月27日
基準排水量
2,033t
垂線間長111.0m/全幅10.8m
最大速力
35.0ノット
出力52,000馬力
主砲
三年式12.7cmC型連装砲
3基6門
魚雷
61cm4連装発射管×2基
(九三式酸素魚雷)
特筆データ
元は「秋雲型」1番艦の予定
1994年まで夕雲型と誤認
所属駆逐隊
第十駆逐隊
(夕雲・巻雲・風雲、夕雲型混成)
最終結末
1944年4月11日
ザンボアンガ近海で戦没
戦死137名、陽炎型最後の喪失艦
「島風」になるはずだった名前——秋雲型という幻

秋雲は1940年7月2日、浦賀船渠で起工した。当初、陽炎型は18番艦「舞風」までとし、改良型として新たに「秋雲型」を建造する構想があった。計画上の仮称艦名でも秋雲は第115号艦、後の夕雲型ネームシップとなる「夕雲」は第116号艦と、秋雲の方が先に位置づけられていた。しかし、駆逐艦の増産を急ぐ方針転換により、第115号艦は陽炎型の図面をそのまま流用して建造されることになる。皮肉なことに、当初この第115号艦に予定されていた艦名は「島風」だったが、この名前は後に丙型(高速)駆逐艦に転用されることになり、繰り上がる形で「秋雲」の名が与えられた。

1941年4月11日に進水、9月27日に竣工した秋雲は、当初、僚艦「朧」と共に第五航空戦隊(翔鶴・瑞鶴)の護衛(通称「トンボ釣り」)を担当していた。しかし真珠湾攻撃への長躯進出には高い航続力が必要とされ、護衛の駆逐艦の中で唯一、秋雲だけがこの任務に参加することになる。1941年12月8日、秋雲は南雲機動部隊の警戒隊の一員として真珠湾攻撃に立ち会った。帰投後、開戦時の艦長・横井稔中佐が脳溢血で倒れ、12月22日付で有本輝美智中佐が後任に着任している。

■ 秋雲 全戦歴ハイライト ■
【1941年12月8日】:真珠湾攻撃。五航戦護衛の中で唯一参加
【1942年10月26日】:南太平洋海戦。米空母「ホーネット」の最期を目撃
【1943年5月23日】:山本五十六元帥の遺骨を「武蔵」と共に護送
【1943年7月29日】:キスカ島撤退作戦、死者ゼロの「奇跡」に立ち会う
【1943年10月26日】:第二次ベララベラ海戦、僚艦「夕雲」喪失も撤退成功
【1944年4月11日】:ザンボアンガ近海で米潜水艦レッドフィンに撃沈される
エピソード① 南太平洋海戦——「東京空襲の仇を取ったぞ」

1942年10月26日、南太平洋海戦。米空母「ホーネット」——同年4月のドーリットル空襲の発進母艦——が日本軍機の攻撃を受け、大破炎上する。傾斜を強めながら燃え続けるその姿を見た秋雲艦長・相馬正平中佐は、この光景を軍令部への報告資料として記録に残すよう命じた。しかし夜間であり、写真撮影は不可能だと航海長から指摘される。そこで相馬艦長は、絵の上手な中島斎信号員にスケッチを命じた。中島信号員が「細部が見えない」と申し出ると、艦長は驚くべき決断を下す——「探照燈照射用意」。ホーネットに向けて探照灯を照射させたのである。

この行為は自艦の存在を敵潜水艦に知らしめかねない、大胆かつ無謀な判断だった。事情を知らない秋雲の他の乗組員たちは驚き、僚艦「巻雲」からは「如何セシヤ(どうしたのか)」という発光信号が送られている。それでも相馬艦長は動じることなく、5回、6回とサーチライトを浴びせ続けた。この助けを得て、中島信号員は見事にホーネット最期の姿を描き切る。このスケッチは後世に残されることになった。同日22時34分、ホーネットはサンタクルーズ諸島沖に沈んでいった。乗組員の中には「東京空襲の仇を取ったぞ」と喝采をあげる者もいたという。

■ 記録への執念が生んだ危険な判断
相馬艦長の行動は、軍事的合理性だけで見れば明らかに無謀だった。しかし「歴史的な瞬間を正確に記録に残す」という強い執念が、この危険な決断を後押ししたのだろう。つまりどういうことか——太平洋戦争の記録の一部は、こうした個々の乗員・艦長の並々ならぬこだわりによって、危険を冒してまで残され続けてきたのである。
エピソード② 山本長官の遺骨と、奇跡のキスカ撤退

1943年4月18日、連合艦隊司令長官・山本五十六元帥が、前線視察中に搭乗機を撃墜され戦死する(海軍甲事件)。5月23日、木更津沖に停泊していた連合艦隊旗艦「武蔵」に横付けした秋雲は、山本元帥の遺骨を引き取り、横須賀へ上陸させるという大任を仰せつかった。太平洋戦争の帰趨に大きな影響を与えたこの海軍甲事件において、秋雲は元帥の遺骨を本土へ送り届ける最後の一区間を担った艦の一つとなった。

同年6月10日、秋雲は電波兵器(電探)を装備して横須賀を出港、北方部隊に編入されて幌筵海峡へ向かう。7月、アリューシャン列島キスカ島からの撤退作戦(キスカ島撤退作戦)に、収容駆逐艦として参加した。この作戦は当初中止となった第一次作戦を経て、7月29日の第二次作戦で成功。秋雲は463名の将兵を収容し、幌筵島に帰投している。この撤退作戦は、濃霧に紛れて敵に一切気づかれることなく、全兵員を無傷で収容するという、太平洋戦争でも稀有な成功例として知られる。秋雲はこの「奇跡の作戦」の立会人となった。

エピソード③ 第三水雷戦隊旗艦として——コロンバンガラとベララベラの撤退

1943年8月16日、連合艦隊司令長官・古賀峯一大将直率の主力部隊(戦艦「大和」「長門」「扶桑」、空母「大鷹」、重巡「愛宕」「高雄」、軽巡「能代」、駆逐艦「涼風」「海風」「秋雲」「夕雲」「若月」「天津風」「初風」)が呉を出撃、トラック泊地へ向かった。9月5日、秋雲は第三水雷戦隊(司令官伊集院松治大佐)に編入され、ラバウル進出後は「セ号作戦」の旗艦を務めることになる。この作戦で秋雲は、二度にわたるコロンバンガラ島からの撤退作戦を成功させた。コロンバンガラ島からの撤退は、隣接するベララベラ島守備隊の役割終了も意味しており、続いてベララベラ島からの撤退も急遽実施されることになった。

10月26日、第二次ベララベラ海戦に参加。この海戦で僚艦「夕雲」を失いながらも、秋雲を含む部隊は敵駆逐艦3隻を大破させ、本来の目的であったベララベラ島からの撤退を成功させている。この時期、第十駆逐隊は秋雲以外全て夕雲型という混成部隊であり、消耗戦の中で夕雲・巻雲・風雲が次々と失われる中、秋雲だけは生き延び続けていた。

エピソード④ ザンボアンガ近海——3分間の轟沈

1943年12月17日、秋雲は横須賀へ帰投。20日には戌一号作戦により、戦艦「大和」を護衛して再び出撃した。トラックへ向かう道中、大和は米潜水艦の雷撃で損傷するが、秋雲はこれを無事にトラックまで送り届け、そのまま横須賀へ引き返している。1944年に入ってからも、秋雲はガダルカナル撤退作戦の後続処理やハンサ方面への輸送船団護衛など、地道な任務をこなし続けた。3月14日には、ハンサ湾空襲で放棄された貨物船「桃山丸」を撃沈処分してもいる。

1944年4月11日、秋雲はバリクパパンからダバオへ向けて航空用燃料を輸送する船団を護衛していた。しかしミンダナオ島サンボアンガ沖(モロ湾)で、米潜水艦「レッドフィン」の雷撃を受ける。秋雲はわずか3分で沈没した——まさしく轟沈だった。艦長・入戸野(艦長)以下137名が戦死した。奇しくもこの日は、秋雲が進水したちょうど3年後の同じ日付だった。6月10日、帝国駆逐艦籍から除籍。これをもって、陽炎型駆逐艦19隻のうち18隻が姿を消したことになる(唯一「雪風」のみが終戦まで生き延びた)。

■ 4月11日、ザンボアンガ近海の時系列 ■
当日
バリクパパン発ダバオ行き航空燃料輸送船団を護衛中
被雷
米潜水艦レッドフィンの雷撃を受ける
3分後
轟沈。艦長以下137名戦死
6月10日
除籍。これで陽炎型19隻中18隻が姿を消したことになる(唯一「雪風」のみ終戦まで生存)
猫工艦の考察

秋雲の本質は、「秋雲型」になるはずが陽炎型として建造され、長らく夕雲型と誤認され続けたという出自の複雑さと同じく、常に太平洋戦争の重要な節目に、少し変わった立ち位置で立ち会い続けた艦だったという点にある。真珠湾攻撃への唯一の護衛参加、ホーネット最期の記録、山本長官の遺骨護送、そして死者ゼロのキスカ撤退——秋雲は、単独の戦果よりも、歴史的な瞬間の「立会人」としての役割を、幾度となく果たし続けてきた。

そして最期もまた、この艦らしい唐突さだった。わずか3分での轟沈は、戦い抜く暇もない、あまりにも一方的な結末だった。それでも、進水からちょうど3年目の同じ日に沈んだという事実には、不思議な巡り合わせが感じられる。陽炎型19隻のうち18隻までもが失われたこの艦型の物語の中で、秋雲はその最後を締めくくる一隻として、静かにその役目を終えた。

秋雲が残したものは何か。それは、「秋雲型」という幻の艦型名と、1994年になってようやく判明した「陽炎型」としての正しい素性、そして幾多の歴史的瞬間に立ち会い続けた艦としての記録である。猫工艦は、太平洋戦争の節目節目に静かに寄り添い、そして最後は瞬時に海に消えていった秋雲の乗員たちに、深い敬意を表したい。

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秋雲型になるはずだった艦——「秋雲」の意志を、その身に纏え

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■ 参考文献・資料

  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26・49・83・96『蘭印・ベンガル湾方面/南東方面海軍作戦各巻』朝雲新聞社
  • ・アジア歴史資料センター(JACAR)秋雲関連公文書・第十駆逐隊戦時日誌戦闘詳報
  • ・田村俊夫「新事実発掘! 駆逐艦秋雲は陽炎型だった」『世界の艦船』1994年4月号、海人社
  • ・三神國隆『海軍病院船はなぜ沈められたか 第二氷川丸の航跡』光人社NF文庫、2005年(原著2001年)
  • ・重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦』潮書房光人社、2014年
  • ・山本平弥ほか『秋月型駆逐艦〈付・夕雲型・島風・丁型〉』潮書房光人社、2015年
  • ・Wikipedia「秋雲 (駆逐艦)」「陽炎型駆逐艦」「コロンバンガラ島沖海戦」「南太平洋海戦」
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