陽炎型 · 18番艦 · 第四駆逐隊
MAIKAZE 舞風
移乗は叶わなかった艦
陽炎型駆逐艦18番艦。藤永田造船所で建造。第四駆逐隊の一員として真珠湾攻撃からセイロン沖海戦、ミッドウェーでの赤城処分、米潜水艦アルゴノート撃沈と戦歴を重ねた。しかし1944年2月17日、トラック島空襲でスプルーアンス大将指揮の米戦艦部隊の集中砲火を受け、司令部を含む全乗員と共に戦没した。
SPECIFICATIONS
SPEC
基本諸元サマリー
TYPE
陽炎型 18番艦
DISPLACEMENT
2,033 t
MAX SPEED
35.0 kt
MAIN GUN
12.7cm × 6
TORPEDO
61cm × 8射線
FATE
1944.2.17 戦没
| 艦名 | 舞風(まいかぜ) |
| 艦型・番艦 | 陽炎型駆逐艦 18番艦(仮称第114号艦) |
| 建造所 | 藤永田造船所 |
| 起工日 | 1940年4月22日 |
| 命名 | 1941年2月5日 |
| 進水日 | 1941年3月15日 |
| 主砲 | 三年式50口径12.7cmC型連装砲 3基6門 |
| 魚雷発射管 | 61cm4連装水上発射管 2基 |
| 搭載魚雷 | 九三式酸素魚雷 |
| 初代艤装員長 | 中杉清英中佐(神風型「疾風」・吹雪型「叢雲」艦長歴任) |
| 戦没時司令 | 磯久研磨大佐(第四駆逐隊司令、艦と共に戦死) |
| 所属駆逐隊 | 第四駆逐隊(嵐・萩風・野分、後に山雲) |
| 特記事項 | 1943年1月、磯風と共同で米潜水艦アルゴノート(当時世界最大級)を撃沈 |
| 戦没 | 1944年2月17日 トラック諸島沖 |
| 戦没原因 | トラック島空襲(ヘイルストーン作戦)。スプルーアンス大将指揮の戦艦部隊の集中砲火 |
| 戦死者 | 生存者なし(全乗員、便乗の第四駆逐隊司令部含む) |
| 除籍 | 1944年3月31日(同日トラックで失われた阿賀野・那珂・香取・太刀風・追風・文月と共に) |
BATTLE HISTORY
TIMELINE
竣工から戦没まで
1940年4月22日 — 起工
藤永田造船所で起工(仮称第114号艦)
- 横須賀鎮守府籍、第四駆逐隊(嵐・萩風)に編入、萩風と第2小隊を編成。
1941年12月〜1942年3月 — マレー・蘭印作戦
機動部隊護衛、チラチャップ沖海戦
- 嵐・野分と共に通商破壊戦にも参加した。
1942年4月 — セイロン沖海戦
英東洋艦隊撃退作戦に参加
- コロンボ・トリンコマリー空襲を経て英艦隊の戦力を減衰させた。
1942年6月 — ミッドウェー海戦
空母「赤城」の処分を実行
- 新編の第十戦隊指揮下で機動部隊を護衛。大敗北の中、僚艦と共に赤城の雷撃処分を担った。
1943年1月5-10日 — 十八号作戦
ラエ輸送、米潜水艦アルゴノートを撃沈
- 日龍丸沈没時に生存者救助。浮上したアルゴノートを磯風と共同で撃沈した。
1943年2月4日 — ケ号作戦で被弾
米軍機約30機の空襲、艦首損傷
- ショートランド島南方で被弾。長月に曳航後、雪風によりさらに曳航され横須賀で修理。
1943年〜秋 — 修理・南方再進出
第四駆逐隊、僚艦の喪失を経て再編
- 8月6日、萩風・嵐がベラ湾夜戦で戦没。9月15日、山雲編入で3隻編制に。10月、栗田丸生存者救助。11月17日、司令が磯久研磨大佐に交代。
1944年2月16-17日 — トラック島空襲
第4215船団護衛中に米機動部隊の攻撃を受ける
- 香取・赤城丸護衛で出港も1日遅延。4:30出港、5:00空襲開始。27駆(時雨・春雨)は脱出成功も第4215船団は捕捉された。
1944年2月17日 12:16-12:23 — 米戦艦部隊発見・攻撃
スプルーアンス艦隊、野分を追撃・舞風と香取を攻撃
- 野分が米戦艦2隻を発見。艦隊は分離し、戦艦2隻+駆逐艦2隻が野分を追跡、残りが舞風・香取を攻撃。
1944年2月17日 — 戦没
集中砲火を受け大爆発、生存者なし
- 司令部移乗を試みるも空襲激化のため実現せず。磯久司令以下全乗員戦死。香取の救命艇もアメリカ軍機の銃撃で失われたとされる。野分のみ戦艦アイオワ・ニュージャージーの砲撃をかわし脱出した。
1944年3月31日 — 除籍
帝国駆逐艦籍・第四駆逐隊・不知火型から除籍
- 同日、トラックで失われた阿賀野・那珂・香取・太刀風・追風・文月も除籍された。
SUMMARY
RECORD
舞風 全艦歴まとめ
陽炎型18番艦「舞風」は、第四駆逐隊の一員としてマレー作戦・蘭印作戦・セイロン沖海戦を戦い、ミッドウェー海戦では空母「赤城」の処分という重い任務を担った。1943年1月には米潜水艦アルゴノートを僚艦「磯風」と共同で撃沈するなど、確実な戦果を残している。ケ号作戦での被弾から復帰し、僚艦「萩風」「嵐」を失いながらもソロモン・ラバウル方面の消耗戦を戦い抜いたが、1944年2月17日、トラック島空襲でスプルーアンス大将率いる米戦艦部隊に捕捉された。僚艦「野分」による司令部移乗の試みも空襲激化のため叶わず、艦は集中砲火を受けて爆沈。第四駆逐隊司令・磯久研磨大佐以下、生存者は一人もいなかった。
圧倒的戦力差の前に——駆逐艦一隻が高速戦艦部隊に対抗する術はなかった。野分だけが脱出に成功したこの海戦は、太平洋戦争後半、日本海軍が物量・技術両面で追い詰められていった現実を象徴している。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26・49・96『蘭印・ベンガル湾方面/南東方面海軍作戦/中部太平洋方面海軍作戦(2)』朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)舞風関連公文書・第四駆逐隊戦時日誌戦闘詳報
- ・佐藤清夫『駆逐艦「野分」物語 若き航海長の太平洋海戦記』光人社NF文庫、2004年(原著1997年)
- ・倉橋友二郎『駆逐艦隊悲劇の記録 海ゆかば・・・』徳間書店、1967年
- ・重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦』潮書房光人社、2014年
- ・Wikipedia「舞風 (駆逐艦)」「陽炎型駆逐艦」「トラック島空襲」「野分 (陽炎型駆逐艦)」