1944年2月17日正午過ぎ、トラック諸島沖。空襲で航行不能となった駆逐艦「舞風」に、レイモンド・スプルーアンス大将自らが指揮する米戦艦部隊が迫っていた。戦艦「アイオワ」「ニュージャージー」の40.6cm砲弾が容赦なく降り注ぐ中、僚艦「野分」は舞風に乗艦していた第四駆逐隊司令・磯久研磨大佐以下の司令部を移乗させようと試みる。しかし断続的な空襲と戦艦部隊の猛攻の前に、その願いすら叶わなかった。一時間以上に及ぶ集中砲火の末、舞風は大爆発を起こして沈没する。生存者は一人もいなかった。
陽炎型18番艦として1941年に竣工した「舞風」は、ミッドウェー海戦で第四駆逐隊僚艦と共に空母「赤城」を処分し、1943年1月には僚艦「磯風」と共に米潜水艦「アルゴノート」を撃沈するなど、確かな戦果を挙げてきた艦だった。しかし、ケ号作戦での被弾からの復帰後もソロモン・ラバウル方面の消耗戦を戦い抜いた末、トラック島空襲というアメリカ軍の一大反攻作戦の中で、この艦は最も過酷な結末を迎えることになる。
そして——僚艦「野分」だけが、二隻の高速戦艦の猛追をかわして生還した。舞風と、共に沈んだ練習巡洋艦「香取」、特設巡洋艦「赤城丸」に乗っていた者たちは、誰一人として生きて帰ることはなかった。移乗すら許されなかったこの艦の最期は、太平洋戦争後半、圧倒的な物量差の前に日本海軍が追い詰められていく様を、静かに物語っている。
3基6門
(九三式酸素魚雷)
(嵐・萩風・野分)
トラック島空襲で戦没
舞風は1940年4月22日、藤永田造船所で仮称第114号艦として起工した。1941年2月5日に「舞風」と命名、3月15日進水。初代艤装員長には、神風型「疾風」、吹雪型「叢雲」の艦長を歴任した中杉清英中佐が任命された。横須賀鎮守府籍として、僚艦「嵐」「萩風」と共に第四駆逐隊を編成し、萩風とは第2小隊を組んで、開戦後のマレー作戦から蘭印作戦まで行動を共にした。機動部隊を護衛しながら次々と占領地域を拡大し、わずか3ヶ月でシンガポールを陥落させるという、日本ペースの快進撃をこの艦も肌で感じていた。
第四駆逐隊は開戦劈頭、フィリピン攻略、続いて蘭印作戦の各地の攻略戦を転戦した。ジャワ島攻略後には、通商破壊作戦としてジャワ海域から逃げ出す連合軍艦船を狩り出す「チラチャップ沖海戦」にも、僚艦「嵐」「野分」と共に参加している。この時期の第四駆逐隊は、他の陽炎型と同様、機動部隊の護衛と通商破壊の両面で確かな戦果を積み重ねていった。
1942年4月、セイロン沖海戦にも参加。コロンボ・トリンコマリー空襲を経て、機動部隊は英東洋艦隊の戦力を大きく減衰させることに成功する。しかし6月、この快進撃に急ブレーキがかかる。ミッドウェー海戦(MI作戦)で、第四駆逐隊は新編されたばかりの第十戦隊指揮下に入り、機動部隊護衛の任務を受けていた。空母4隻を失う歴史的大敗の中、力尽きた旗艦「赤城」の処分という重い任務が、第四駆逐隊に課される。舞風もまた、僚艦と共にこの雷撃処分を実行した。
1943年1月5日、舞風は第十七駆逐隊4隻と共に、ラバウルからラエへ陸軍第五十一師団を輸送する「十八号作戦」に参加した。輸送船5隻を駆逐艦5隻で護衛するこの作戦の航路は、奇しくも2ヶ月後に生起する「ビスマルク海海戦(ダンピールの悲劇)」とほぼ同じ危険海域を通るものだった。1月7日、輸送中の「日龍丸」が空襲で沈没し、舞風はその乗員救助にあたる。ラエ到着後も「妙高丸」が被弾・擱座するなど損害を出しながら、輸送は一定の成果を上げた。
1月10日、輸送船団は米潜水艦「アルゴノート」の攻撃を受ける。上空を哨戒していた航空機と舞風の攻撃を受けたアルゴノートが、突然艦首を海面から突き出して浮上すると、僚艦「磯風」と舞風はこれを砲撃、アルゴノートを撃沈した。1930年代に建造されたこの潜水艦は、1959年に原子力潜水艦「トライトン」が就役するまで、約30年にわたりアメリカ海軍最大の潜水艦だったとされる。
しかし1943年2月4日、ガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)の第2次作戦中、舞風はショートランド島南方でアメリカ軍機約30機に発見され空襲を受ける。この攻撃で艦首を損傷し航行不能に陥った舞風は、同作戦に参加していた「長月」に曳航され、いったんショートランドへ回航。その後は姉妹艦「雪風」に曳航され、横須賀で本格的な修理を受けることになった。
修理を終えた舞風は再び第四駆逐隊として、内地・トラック・上海などを巡りながら輸送・護衛任務に従事するため、南方方面へ移動した。この間、僚艦「萩風」「嵐」は1943年8月6日のベラ湾夜戦で戦没。第四駆逐隊は生き残った「野分」と舞風の2隻となる。同年9月15日、朝潮型「山雲」が編入され、第四駆逐隊は野分・舞風・山雲の3隻編制となった。10月、輸送船「栗田丸」が米潜水艦に撃沈された際には、野分と共に生存者を救助している。11月17日、第四駆逐隊司令は杉浦嘉十大佐から磯久研磨大佐に交代した(杉浦大佐は後に重巡「羽黒」艦長となり、ペナン沖海戦での同艦沈没時に戦死している)。
この頃、第四駆逐隊が経験した僚艦の相次ぐ喪失——嵐、萩風、そして山雲の後の朝雲(1944年10月にレイテ沖で戦没)——は、開戦時4隻でスタートしたこの駆逐隊が、消耗戦の中でいかに人員も艦も摩耗させられていったかを物語っている。生き残った野分と舞風は、まさに歴戦の生き残りとして、次なる激戦地であるトラック諸島方面へと向かうことになる。
1944年2月16日、舞風は僚艦「野分」と共に、練習巡洋艦「香取」、特設巡洋艦「赤城丸」の護衛(第4215船団)として、トラック諸島から本土への帰還準備を進めていた。出港は本来16日の予定だったが、赤城丸の荷役の遅れにより1日延期され、17日となる。この空気の緩みからか、乗員には上陸許可が出たり、艦上でドイツ映画の上映が行われるなど、楽観的な雰囲気が漂っていたという。
2月17日午前4時30分に出港した船団は、わずか30分後の午前5時、トラック島空襲(米軍の大規模機動部隊攻撃)に巻き込まれる。第27駆逐隊(時雨・春雨)は北水道を通過し、空襲で損傷しながらも脱出に成功した。しかし第4215船団はこれに遅れ、北水道通過後にアメリカ軍機に捕捉されてしまう。空襲とその後の水上砲撃により、香取・舞風・赤城丸の3隻が撃沈されることになった。
舞風には第四駆逐隊司令・磯久研磨大佐以下の司令部が乗艦していた。僚艦「野分」は、この司令部を自艦へ移乗させようと試みたと伝えられている。しかし敵の空襲があまりに激しく、移乗は実現しなかった。磯久司令は舞風と運命を共にし、戦死した。沈みゆく香取から脱出した3隻の救命艇も、アメリカ軍機の銃撃によって全て失われたと米軍側は記録している。このため、舞風・香取、そして両艦に救助されていた赤城丸の生存者は、一人として生きて帰ることはなかった。つまりどういうことか——この日、トラック島沖では、逃げ場のない絶望的な状況の中で、幾つもの「もしも」が実現しないまま、多くの命が失われていった。
舞風の本質は、萩風と共に開戦初期の快進撃を支え、赤城の処分という重い任務を経て、米潜水艦アルゴノート撃沈という確実な戦果も残した、堅実な駆逐艦だったという点にある。ケ号作戦での被弾からの復帰、ソロモン・ラバウル方面での消耗戦——舞風はその都度、任務を果たし続けてきた。
しかし、トラック島空襲という最後の局面で、この艦を待っていたのはあまりにも一方的な結末だった。スプルーアンス大将自らが指揮する戦艦部隊という、駆逐艦一隻では抗いようのない圧倒的戦力の前に、舞風は反撃の機会すら与えられなかった。僚艦「野分」による司令部移乗の試みすら叶わなかったという事実は、この艦の最期がいかに絶望的な状況下で起きたかを物語っている。
舞風が残したものは何か。それは、太平洋戦争後半における日米の戦力差が、もはや個々の艦や乗員の奮闘では覆せないレベルに達していたことを示す、痛切な記録である。生存者が一人もいなかったという事実の重さを、猫工艦は静かに受け止め、この艦と共に海に消えた乗員たちに、深い敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26・49・96『蘭印・ベンガル湾方面/南東方面海軍作戦/中部太平洋方面海軍作戦(2)』朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)舞風関連公文書・第四駆逐隊戦時日誌戦闘詳報
- ・佐藤清夫『駆逐艦「野分」物語 若き航海長の太平洋海戦記』光人社NF文庫、2004年(原著1997年)
- ・倉橋友二郎『駆逐艦隊悲劇の記録 海ゆかば・・・』徳間書店、1967年
- ・重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦』潮書房光人社、2014年
- ・Wikipedia「舞風 (駆逐艦)」「陽炎型駆逐艦」「トラック島空襲」「野分 (陽炎型駆逐艦)」