1944年6月6日午後11時45分、タウイタウイ泊地を出港した駆逐艦「水無月」は、給油船「興川丸」を護衛してバリクパパンへ向かっていた。見張り員が「敵浮上潜水艦」を発見すると、「水無月」は迷わず攻撃に向かった。だがそれきり、「水無月」からの連絡は途絶えた。ダバオ南東の海上で、米潜水艦「ハーダー」の雷撃を受け、沈没していたのである。狩る側のつもりが、狩られる側になっていた。
「水無月」は睦月型駆逐艦の6番艦として、浦賀船渠で1925年3月24日に起工、1926年5月25日に進水、1927年3月22日に竣工した。当初「第28号駆逐艦」という番号名だったこの艦は、竣工から実に17年余りを生き延び、睦月型19隻の中でも比較的長く戦い続けた部類に入る。中国大陸沿岸の警備、蘭印作戦、そしてソロモンの死闘——「水無月」は太平洋戦争のあらゆる局面で、地道な輸送・護衛任務を担い続けた。
その艦歴の中には、後に「飢餓の島」として記憶されることになる、ある島への輸送任務も含まれている。1944年4月、「水無月」はメレヨン島へ3,200名を超える南洋第五支隊の兵員を送り届けた。だがこの島は、その後の補給途絶によって、太平洋戦争でも屈指の悲劇的な結末を迎えることになる。「水無月」が運んだ命の多くが、後にどのような運命をたどったかを、艦自身は知る由もなかった。
→改修後1,445t
竣工した「水無月」は佐世保鎮守府に所属し、「皐月」「文月」とともに第22駆逐隊を編成した。1934年9月27日、日向灘での第四艦隊応用教練中、演習とはいえ忘れがたい事故が起きる。僚艦「皐月」が発射した演習魚雷が迷走し、「水無月」の艦尾に命中、スクリューを損傷させたのである。さらに同年10月12日夜には、沖縄東方沖の演習中に駆逐艦「夕風」と衝突するという事故にも見舞われた。幸い両事故とも死傷者は出なかったが、これらは訓練の厳しさと、それに伴う危うさを物語る出来事だった。
1936年12月、「水無月」は空母「加賀」とともに第二航空戦隊を編制し、支那事変に伴い中国大陸沿岸部で行動する。1941年12月の太平洋戦争開戦時には第五水雷戦隊に所属し、フィリピン攻略戦、ジャワ島攻略戦を経て蘭印作戦に参加した。1942年3月には、米潜水艦の雷撃で大破した軽巡「那珂」の救援にも駆けつけている。ガダルカナル島撤退後の1943年、「水無月」はソロモン海の最前線に投入され、数多くの輸送作戦を成功させていく。
1943年7月12日、「水無月」は「皐月」「夕凪」とともに輸送隊を編成し、コロンバンガラ島への緊急輸送に出撃した。軽巡「神通」を含む警戒隊が護衛につく中、深夜に米艦隊と交戦するコロンバンガラ島沖海戦が勃発する。その間、輸送隊は13日午前0時過ぎに揚陸を開始し、約1時間で全輸送に成功させた。だが警戒隊の「神通」は沈没し、多くの乗組員が海に投げ出されていた。
「水無月」は「皐月」とともに「神通」の救援に向かったが、生存者を発見することはできなかった。午前7時35分、救助活動を断念し、ブインへ引き返す。輸送そのものは成功だったが、仲間を救えなかったという事実は重く残った。さらに翌日17日朝には、ショートランド泊地で給油中に空襲を受け「初雪」が沈没、「水無月」も被爆する。18日にはブイン泊地への輸送隊に加わり、19日深夜の揚陸には成功したものの、帰路の夜間空襲で清波・夕暮が沈没する中、「水無月」も損傷を負った。
輸送任務そのものは成功しても、僚艦の生存者を救えないということが、ソロモンの海では日常的に起きていた。つまりこの海域での「成功」は、常に別の場所での「失敗」と隣り合わせだった。駆逐艦1隻にできることには、明確な限界があった。
1944年4月7日、「水無月」は輸送船3隻(松江丸・木津川丸・新玉丸)を護衛し、カロリン諸島・メレヨン島へ向けてサイパンを出撃した。翌8日未明、米潜水艦「シーホース」の攻撃で「新玉丸」「木津川丸」が航行不能となる。「新玉丸」は漂流の末グアム島で座礁・放棄されたが、「水無月」は「木津川丸」をグアム島まで曳航し、なんとか目的地へ向かわせた。
9日にグアムを出港し、12日昼にメレヨン島へ到着した「水無月」は、南洋第五支隊の兵員3,200名以上を無事揚陸させる。当時、これは輸送任務としては大きな成功だった。だがメレヨン島は、この後の戦局悪化により補給路を完全に断たれ、太平洋戦争でも屈指の悲劇的な結末——飢餓による多数の犠牲者——を迎えることになる。「水無月」が命がけで送り届けた兵員たちのその後を、艦自身が知ることはなかった。
「水無月」が果たした輸送任務は、その瞬間には紛れもない成功だった。だが戦局はその後さらに悪化し、メレヨン島は補給を絶たれる。つまりどういうことか——駆逐艦がどれほど命がけで任務を果たしても、その先の運命までは変えられない。これは「水無月」だけでなく、太平洋戦争の輸送任務全体が抱えていた、根源的な限界だった。
1944年6月6日、「水無月」は僚艦「若月」とともに給油船「興川丸」を護衛し、タウイタウイ泊地からバリクパパンへ向けて出撃した。出港後の午後11時45分、見張り員が「敵浮上潜水艦」を発見すると、「水無月」は単艦で攻撃に向かった。だがそれきり、艦からの連絡は途絶える。
「水無月」はダバオ南東の海上で、米潜水艦「ハーダー」の雷撃を受け沈没していた。攻撃を仕掛けようとした側が、逆に仕留められるという結末だった。艦長・磯部慶二少佐も戦死し、同日付で海軍中佐に昇進する。竣工から17年余りを生き延び、数々の輸送任務を成功させてきた「水無月」の最期は、静かに、そして唐突に訪れた。1944年8月10日、帝国駆逐艦籍から除籍された。
「水無月」の本質は、竣工から17年余り、太平洋戦争のほぼ全期間を地道な輸送・護衛任務に費やし続けた「働き者の艦」だった、という一点にある。演習中の魚雷誤命中や僚艦との衝突といった平時の事故を乗り越え、コロンバンガラ島沖海戦での輸送成功、そしてメレヨン島への大規模な兵員輸送——「水無月」は常に、戦闘の主役ではなく、任務を粛々とこなす立場に置かれ続けた。
しかし「水無月」の物語は美談だけでは終わらない。コロンバンガラ島沖で「神通」の生存者を見つけられなかったこと、そしてメレヨン島に届けた3,200名以上の兵員が、その後の補給途絶によって「飢餓の島」という悲劇の当事者になっていったこと——これらの事実は、駆逐艦1隻の献身がどれほど大きくても、その先の運命までは変えられなかったという、戦争の厳しい現実を物語っている。
それでも「水無月」が残したものは確かにある。狩る側として敵潜水艦に立ち向かい、逆に沈められたという最期は、この艦が最後まで受け身ではなく、能動的に戦い続けようとしていたことを示している。派手な戦果を持たない艦だからこそ、私たちに戦争の地道な実務——輸送、護衛、そしてその先にある無数の命の物語——を静かに教えてくれる。猫工艦は、「水無月」と、磯部慶二少佐をはじめとする全乗組員に、深い敬意を捧げたい。
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メレヨン島へ3,200名を送り届け、敵潜水艦に挑んで散った駆逐艦——「水無月」の記録を、その身に纏え
「狩る側のつもりが、狩られる側になった——最後まで能動的だった艦」
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第三水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報・第八艦隊戦時日誌・あ号作戦戦時日誌戦闘詳報
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26『蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』、戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』関連巻
- ・朝日新聞社編『メレヨン島 生と死の記録』朝日新聞社、1966年
- ・大浦庸生『飢餓の島メレヨンからの生還』新風書房、1993年
- ・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編』光人社NF文庫、1995年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
- ・Wikipedia「水無月 (睦月型駆逐艦)」「睦月型駆逐艦」「コロンバンガラ島沖海戦」
- → 文月——旗艦を曳き、僚艦の盾となった同型艦の全記録