1944年9月21日午後、マニラ湾。船団護衛中の駆逐艦「皐月」に、米軍艦載機が波状攻撃を仕掛けた。24〜30ノットで対空戦闘を続けるさなか、左舷の至近弾で復水器が破壊され、片舷航行で速力は20ノット以下に低下する。続出する負傷者を陸地へ移送するため、軍医長・水雷長・航海長までもが艦を離れ、艦橋に残ったのは艦長・砲術長・操舵員のわずか3名だけだった。午後、第一缶室に爆弾が命中、続いて前部にも直撃弾。複数の命中弾を受け、午後3時45分、「皐月」は沈没した。
「皐月」は睦月型駆逐艦の5番艦として、藤永田造船所で1923年12月1日に起工——同型1〜4番艦よりも早く工事が始まった艦だった。1925年3月25日に進水、同年11月15日に竣工。中国大陸沿岸部での封鎖作戦、フィリピン・ジャワ攻略戦、そしてソロモン諸島での凄惨な消耗戦——「皐月」は太平洋戦争のほぼ全期間を通じて、最前線の輸送・護衛任務を担い続けた。
そしてその艦歴には、1人の艦長の壮絶な最期が刻まれている。1944年1月、カビエン沖の対空戦闘で左脚を砕かれた艦長・飯野忠男少佐は、軍医による切断処置を受けてもなお艦橋を離れず指揮を執り続けた。その献身は南東方面艦隊司令長官の耳にも届き、日本刀が授与されることになる。
→改修後1,445t
竣工した「皐月」は佐世保鎮守府に所属し、僚艦「水無月」「文月」「長月」とともに第22駆逐隊を編成した。1940年後半からは中国大陸沿岸部に進出し、日中戦争における封鎖作戦・監視警戒・敵兵力撃破などの任務に従事する。この地道な任務の積み重ねは「殊勲乙」の評価を受けるほどだった。1941年12月の太平洋戦争開戦時には第五水雷戦隊に編入され、フィリピン攻略戦、ジャワ島攻略戦、バタビア沖海戦と、緒戦の南方作戦を転戦していく。
1943年1月、「皐月」は「長月」「文月」とともに第八艦隊(三川軍一中将)隷下の外南洋部隊に編入され、ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)に参加する。以後、中部ソロモン方面での輸送任務が続いた。5月28日、コロンバンガラ島への輸送に向かう途上、「皐月」は「長月」とともにブーゲンビル島南東沖合で座礁するという事故にも見舞われている。この頃の「皐月」は、ソロモンの消耗戦の最前線に、繰り返し投入され続けていた。
1943年7月5日夜、秋山輝男少将率いる第三水雷戦隊は、コロンバンガラ島への緊急輸送のため出撃した。「皐月」は「天霧」「初雪」「長月」とともに第二次輸送隊を編成する。米軍艦隊が迎撃に現れ、クラ湾夜戦が勃発した。直率隊などが交戦する間、「長月」と「皐月」は揚陸をめざしたが、「長月」が座礁してしまう。「長月」は物資と兵員をなんとか揚陸したが、「皐月」による曳航の試みは実らなかった。
6日午前4時、「皐月」は曳航作業を中止し、コロンバンガラ島へ向かい物資を揚陸して撤退する。この夜戦で「新月」が沈没し、秋山少将も戦死した。「長月」もそのまま放棄されることになる。続く7月12日のコロンバンガラ島沖海戦でも、「皐月」は輸送隊の一員として陸兵1200名と物資20トンの揚陸に成功したが、軽巡「神通」が沈没し伊崎俊二少将が戦死した。揚陸後、「皐月」と「水無月」は乗員の捜索を行ったが、発見することはできなかった。
「長月」の曳航失敗も、「神通」乗員の捜索失敗も、「皐月」が最善を尽くさなかったからではない。ソロモンの海は、駆逐艦1隻の努力だけでは覆せない現実に満ちていた。つまりこの海域での戦いは、勝敗以前に「救いたくても救えない」という無力感の連続だった。
1944年1月4日午前7時前、「戊二号輸送部隊」の護衛任務を終えてカビエンを出港した「皐月」と「文月」の2隻に、友軍機の援護がないまま米空母機動部隊の艦載機約80機が殺到した。約20分間の対空戦闘で、両艦は爆撃・雷撃をすべて回避したものの、至近弾と機銃掃射により死傷者計40名以上を出しながら、15機(不確実6機を含む)を撃墜する健闘を見せた。
この戦闘中、艦長・飯野忠男少佐は左足を機銃弾で砕かれる重傷を負う。軍医による切断処置を受けてもなお、飯野艦長は艦橋を離れず指揮を執り続けた。ラバウルへ帰投後、入院した飯野艦長は、翌朝死亡する。第八艦隊司令長官・鮫島具重中将は、輸送部隊を間接的に守り抜いた「文月」「皐月」両艦の乗組員の功績を全軍に布告した。南東方面艦隊司令長官・草鹿任一中将は、まだ息のあった飯野艦長を見舞い、日本刀を授与している。
空襲下に左脚切断の手術を受けつつ、艦橋を去らずして戦いし
駆逐艦「皐月」艦長・飯野忠男少佐のこと
——草鹿任一『ラバウル戦線異状なし』68-71頁より
飯野艦長の後任として杉山忠嘉少佐が着任した後も、「皐月」の任務は途切れなかった。空母「雲鷹」の護衛、給糧艦「伊良湖」護衛中の米潜水艦への爆雷攻撃、東松船団の護衛旗艦としての任務——1944年9月には神威船団を護衛してシンガポールからマニラへ向かう。9月17日、同行していた特設巡洋艦「西貢丸」が米潜水艦「フラッシャー」に撃沈される中、「皐月」は無事マニラに入港した。
9月21日、マタ27A船団の護衛としてマニラを出港した「皐月」は、燃料補給後に船団へ追いつこうとしていたところで、米艦載機の猛攻を受けた。24〜30ノットで対空戦闘を続けるも、最初の空襲で左舷への至近弾により復水器が破壊され、片舷航行で最大速力は20ノット以下に低下する。複数の至近弾でさらに負傷者が続出し、彼らを陸地へ移送するため、軍医長・水雷長・航海長までもが艦を離れた。結果、艦橋に残ったのは艦長・砲術長・操舵員のわずか3名だけだった。
午後、第一缶室に爆弾が命中し速力がさらに低下したところで、艦前部にも直撃弾。続く複数の命中弾を受け、午後3時45分、「皐月」は沈没した。戦死者52名、重軽傷者42名。生存者は陸上からの大発動艇や給糧艦「伊良湖」などに救助され、幸いにも後のマニラの地上戦に巻き込まれることはなかった。1944年11月10日、「皐月」は帝国駆逐艦籍から除籍された。
「皐月」の本質は、竣工から19年、太平洋戦争のほぼ全期間を通じて最前線の輸送・護衛任務を担い続けた「働き詰めの艦」だった、という一点にある。中国沿岸の封鎖作戦から始まり、フィリピン・ジャワ攻略、そしてソロモンの消耗戦——クラ湾夜戦、コロンバンガラ島沖海戦と、日本海軍屈指の激戦地を渡り歩いた。その終盤に刻まれた艦長・飯野忠男少佐の壮絶な最期は、この艦がどれほど過酷な戦場に身を置き続けたかを、何より雄弁に物語っている。
しかし「皐月」の物語は美談だけでは終わらない。「長月」の曳航に失敗し、「神通」乗員の捜索も実らず、セ号作戦第二次では621名と舟艇3隻を残して撤退せざるを得なかった。これらの事実は、「皐月」がどれほど懸命に戦っても、戦局そのものを覆すことはできなかったという、厳しい現実を物語っている。それでも最期の瞬間まで、艦橋にわずか3名が残ってでも戦い続けたという事実は、この艦と乗組員たちの矜持を示している。
それでも「皐月」が残したものは確かにある。片脚を失ってもなお指揮を執り続けた艦長の姿、そして最期に生き延びた乗組員たちが、幸運にもマニラの地上戦に巻き込まれずに済んだという事実だ。派手な戦果を持たない艦だからこそ、私たちに戦争というものの過酷さと、それでも最後まで職務を全うしようとした人々の姿を、静かに教えてくれる。猫工艦は、「皐月」と、飯野忠男少佐をはじめとする全乗組員に、深い敬意を捧げたい。
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片脚を失っても艦橋を離れなかった艦長を戴いた駆逐艦——「皐月」の記録を、その身に纏え
「空襲下に左脚切断の手術を受けつつ、艦橋を去らずして戦いし」
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第三水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報・第八艦隊戦時日誌・第30駆逐隊戦時日誌戦闘詳報
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書46『海上護衛戦』、戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』関連巻
- ・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 正篇』光人社、1983年
- ・草鹿任一『ラバウル戦線異状なし 我等かく生きかく戦えり』光和堂、1958年
- ・種子島洋二『ソロモン海「セ」号作戦―コロンバンガラ島奇蹟の撤収』光人社NF文庫、2003年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
- ・Wikipedia「皐月 (睦月型駆逐艦)」「睦月型駆逐艦」「クラ湾夜戦」「コロンバンガラ島沖海戦」
- → 水無月——メレヨン島へ3,200名を送り届け、敵潜水艦に挑んで散った同型艦
- → 文月——カビエン沖で皐月と共に戦い、今もトラックの海に眠る同型艦
- → 長月——クラ湾夜戦で皐月が曳航を試みた同型艦、時鐘は今も護衛艦に受け継がれる
- → 三日月——コロンバンガラ島沖を共に戦った同型艦、グロスター岬に散る