1944年10月25日、午前8時50分ごろ。フィリピン北東のエンガノ岬沖で、小沢機動部隊の護衛についていた駆逐艦「秋月」の中央部に、急降下爆撃機の爆弾が命中した。高圧の蒸気が缶室に吹き込み、機関科員はほぼ全員が死傷する。数分後、予備の酸素魚雷が爆発し、艦は中央で折れて、被弾から約9分で海に消えた。183名が戦死した。爆発の原因は、いまも確定していない。
「秋月」は、日本海軍が初めて本格的な防空を主任務に据えた駆逐艦、秋月型の1番艦である。舞鶴海軍工廠で1942年6月11日に竣工し、65口径九八式10cm連装高角砲4基8門を備えて、空の脅威から艦隊を守る役目を与えられた。ミッドウェー海戦で空母4隻を失った直後の竣工であり、防空艦の登場は、艦隊の戦い方そのものが変わりつつあることを示していた。
ガダルカナルへの輸送で爆弾を受け、潜水艦ノーチラスの魚雷で艦橋を失い、未完成の姉妹艦「霜月」の艦首をつないで蘇った艦である。マリアナ沖海戦では沈む空母の乗員を救った。その艦が最後に迎えた約9分間と、そこへ至る2年4か月の航跡を、この記事は辿る。
空母の航空機が艦隊の主役になりつつあった1930年代、日本海軍でも艦隊防空の専用艦が議論された。軽巡洋艦を防空艦に改造する案は費用と効果の見通しから見送られ、巡洋艦級の新型案も構想にとどまる。巡洋艦では高価すぎて駆逐艦の不足を悪化させるため、最終的に防空艦は駆逐艦の枠のなかで建造されることになった。
1939年4月ごろに設計がまとまったのが、基本計画番号F51の秋月型である。主砲は12.7cm砲をやめて10cm高角砲とし、魚雷は半数の4連装1基にとどめた。足の長さを優先して航続距離を確保し、空母や主力艦の護衛に就ける艦を目指している。1940年7月30日に起工された「秋月」は、その1番艦だった。竣工の予定は5月25日だったが、公試で主砲塔に不具合が見つかって延期され、ミッドウェー海戦後の作戦投入のために繰り上げられた。
竣工後の「秋月」は、まず空母「瑞鶴」の護衛に就いた。6月、新造艦の「朧」とともに瑞鶴の北方への往路を護衛し、24日に大湊に着いたのち、横須賀へ戻っている。続いて船団護衛でマカッサルやカビエンへ向かい、8月21日にラバウルに入って機動部隊主隊に編入された。第二次ソロモン海戦には間に合っていない。
10月に入ると、「秋月」は鼠輸送の護衛にあたった。7日に第61駆逐隊が照月とともに編成され、12日には、高間完少将が座乗する第四水雷戦隊の旗艦になる。ガダルカナルへの揚陸は17日に成功した。そして25日、ルンガ泊地への突入を図った軽巡「由良」とともに行動していたところを、米軍機の爆撃に襲われる。至近弾で速力は23ノットに落ち、B-17の爆弾1発が命中して、戦死11名、戦傷22名を出した。「由良」は同じ日の午後7時に沈んだ。
日本語版Wikipediaは、秋月が戦闘後の8月25日に機動部隊へ合流したとする。日本の軍艦(japanese-warship.com)は、機動部隊主隊に書類上編入されたものの、海戦には間に合わなかったと記す。一方、英語版Wikipediaは、24日の海戦に損害なく参加したと書いている。本記事は前二者に従い、海戦には間に合っていないとした。つまり、秋月が戦闘の最中に撃ち合ったとは言えず、戦場の空に着いたのは戦いの直後だったと見られる。
1943年1月4日、「秋月」は瑞鶴を護衛してトラックに進出する。第十戦隊の旗艦として木村進少将が座乗し、15日には陽炎型8隻を率いてドラム缶輸送に従事した。19日の夜9時37分ごろ、沈没した輸送船の救助に向かう途中で、米潜水艦ノーチラスの魚雷が命中する。一缶室が浸水し、戦死14名、重軽傷63名を出して、木村少将も負傷した。
応急修理を受けたあと、3月11日にトラックを出て佐世保へ向かったが、サイパン北西40浬で、艦橋の下のキールが切断される。「秋月」はサイパンに引き返し、艦橋を撤去して船体前部も切断した。6月24日、神光丸に曳かれて卯月・漣の護衛で出港し、7月5日に長崎に着く。10月31日には、三菱長崎造船所で、建造中だった姉妹艦「霜月」の艦首が接合された。艦長には、10月8日付で緒方友兄中佐が着任している。
被雷の程度は、日本語版Wikipediaが「一罐室の浸水」、英語版Wikipediaが「缶室と右舷機械室の浸水」と記し、重軽傷者数も63名と64名に分かれる。英語版は、応急の波切り艦首(wave-cutter bow)を付けたあとに、霜月の艦首で復旧したとも書く。つまり、秋月が1年弱をかけて、艦首と艦橋を失う大損傷から復帰したことは確かだが、各段階の細部は資料により揺れている。
1944年6月15日、「秋月」は機動部隊の一艦としてギマラスを出撃する。19日、マリアナ沖海戦で空母「大鳳」「翔鶴」が米潜水艦に沈められると、「秋月」は翔鶴の乗員約100名を救助した。翌20日には、瑞鶴を中心とする輪形陣で米艦載機と戦った。呉で整備を受け、13号電探と機銃を増備した「秋月」は、7月30日から8月3日まで、瑞鳳らとともに硫黄島方面への輸送を護衛する。
10月20日、「秋月」は小沢機動部隊の護衛として日本を発った。25日の午前7時、前衛艦隊が小沢本隊と合流する。8時15分、艦隊の戦闘機が約130機の米機と交戦し、25分に「秋月」は対空砲火を撃ち始めた。8時50分ごろ、艦の中央に爆弾が命中する。缶室を高圧蒸気が満たし、約70名の機関科員のうち、生き残ったのは1番缶室の3名だけだった。
8時56分、中央部から黒煙と炎が上がり、予備の酸素魚雷が爆発して、艦体に大きな穴が開く。「秋月」は停止し、艦は左に大きく傾いた。軽巡「五十鈴」の記録では、8時57分に艦体が折れ、59分に沈んだ。被弾から、わずか約9分である。
原因には四つの説がある。一つ目は、米側が主張する米潜水艦ハリバットの雷撃で、位置は北緯20度29分、東経126度36分とされる。ただし日本の軍艦(japanese-warship.com)は、魚雷の記録と沈没の時刻に約10時間の開きがあり、生存者の証言でも魚雷は艦尾をかすめた程度だとして、この説を退けている。二つ目は、秋月会などが採る、敵機の爆弾で酸素魚雷が誘爆したとする説。三つ目は、緒方艦長が推測した、味方の高角砲弾の破片が魚雷に当たったとする説。四つ目は、味方空母に向かった魚雷を受けたとする説である。位置も、日本語版Wikipediaは北緯18度15分、東経126度35分、英語版Wikipediaは北緯20度29分、東経126度30分と分かれる。つまり、「秋月」が空襲のなかで急速に失われたことは各資料で一致するが、決定的な一撃が何だったのかは、確定していない。
生存者の多くは、駆逐艦「槇」に収容された。japanese-warshipによると、救助されたのは約150名にのぼる。ただし、空襲が続いたため、海上にいた全員は救えなかった。「槇」自身も直撃弾を3発受け、31名が戦死している。緒方艦長は艦と運命をともにするつもりだったが、周囲に説得されて艦を離れ、生還した。生存者は戦艦「伊勢」に便乗して日本へ戻った。
11月15日、秋月と初月の喪失、そして駆逐隊司令の戦死により、第61駆逐隊は解隊される。英語版Wikipediaによれば、「秋月」は12月10日に除籍された。計画では39隻とされた秋月型は、結局12隻が完成した。その先頭に立った艦が、最初の防空駆逐艦として最後まで任務にとどまったことは、確かな事実である。
「秋月」の本質は、日本海軍が初めて「空から艦隊を守る」ことを主任務に与えた艦が、その役目の最前線で、ほとんど一瞬のうちに失われたという一点にある。10cm高角砲の性能は、従来の12.7cm砲を上回った。しかし、光学式の射撃指揮装置しか持たず、揚弾装置の故障や砲身寿命の短さという課題も抱えていた。強い設計思想と、それを活かしきれない現実が、一隻の艦のなかで同居していた。
「秋月」の戦歴を辿ると、傷つくたびに蘇る艦であることがわかる。爆弾、潜水艦の魚雷、艦橋の切断——そのたびに修理され、未完成の姉妹艦の艦首までつないで戦線に戻った。だからこそ、最期の9分間が際立つ。ただし、その9分間に何が起きたかは、生存者の証言が一致しておらず、本記事は一つの説に決めていない。原因を断定せず、わかっていることとわからないことを分けて書くのが、犠牲になった人々への誠実さだと考えた。
183名のうち、名前が資料に残るのは、艦長の緒方友兄中佐や、証言を残した幹部の一部にとどまる。それでも、機関科の多くが蒸気のなかで職務を果たしたことは、1番缶室の3名だけが生き残ったという記録に刻まれている。猫工艦は、秋月型1番艦「秋月」と、空を守ろうとした乗組員たちに、深い敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・片桐大自『帝国海軍全艦艇史』ベストセラーズ
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書 各巻 朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考
- ・Wikipedia「秋月 (駆逐艦)」「秋月型駆逐艦」、English Wikipedia “Japanese destroyer Akizuki (1941)”・”USS Halibut (SS-232)”、日本の軍艦(japanese-warship.com)「秋月」各回、uboat.net “USS Halibut”