「筑摩の乗員を救い、共に海に消えた」——ミッドウェーで赤城を弔い、レイテ沖でハルゼー艦隊に葬られた陽炎型15番艦「野分」の全記録

1944年10月25日、サマール沖海戦の戦場を離脱する重巡「筑摩」が、米軍機の反復攻撃でついに航行不能となった。当初、救援には「幸運艦」として知られる僚艦「雪風」が向かう予定だったが、何らかの理由でこの任務は駆逐艦「野分」に変更される。野分は艦隊司令部に筑摩の現在地を問い合わせた上で単艦、危険な戦場へ引き返した。沈みゆく筑摩から約100名の乗員を救助し、生存者たちが見守る中、命じられていた筑摩の雷撃処分を実行する。使命を果たした野分は、暗闇に包まれたレイテ沖を、本隊に追いつくべく急いでいた。

陽炎型15番艦、そして③計画で建造された15隻の最終艦として竣工した「野分」は、開戦劈頭のチラチャップ沖海戦で商船4隻拿捕・商船3隻ほか多数撃沈という大戦果を挙げ、ミッドウェー海戦では空母「赤城」の雷撃処分を担当した艦だった。太平洋戦争を通じて、レイモンド・スプルーアンス提督(トラック島空襲時)、そしてウィリアム・ハルゼー・ジュニア提督(サマール沖海戦時)という、米海軍を代表する2人の名将と交戦した唯一の日本駆逐艦でもある。

そして——暗夜のレイテ沖を急ぐ野分に、ハルゼー提督率いる高速戦艦部隊の影が忍び寄っていた。壮絶な集中砲火の末、魚雷が命中し、野分は爆沈する。乗員272名(佐藤清夫の著書による推定)が還らなかった。この中には、野分が身を挺して救い出したばかりの筑摩乗員約100名も含まれていたとみられる。救った命と、救った側の命が、同じ海に一緒に沈んでいったのである。

■ 陽炎型15番艦「野分」基本諸元 ■
建造所
舞鶴海軍工廠
起工 1939年11月8日(仮称第31号艦)
命名
1940年8月30日
③計画・陽炎型最終艦(15番艦)
基準排水量
2,033t
全長118.5m
最大速力
35.0ノット
出力52,000馬力
主砲
三年式12.7cmC型連装砲
3基6門
魚雷
61cm4連装発射管×2基
(九三式酸素魚雷)
所属駆逐隊
第四駆逐隊
(嵐・萩風・舞風)
特筆データ
米海軍二大提督と交戦
(スプルーアンス・ハルゼー)
最終結末
1944年10月26日
レイテ沖で戦没
戦死約272名、生存者なし
陽炎型最終艦——チラチャップの大戦果

野分は1939年11月8日、舞鶴海軍工廠で仮称第31号艦として起工した。陽炎型駆逐艦19隻のうち、第三次軍備補充計画(③計画)で建造された15隻の最終艦にあたる。1940年8月30日、僚艦「谷風」らと同日に「野分」と命名された。艦名は台風の旧名に由来し、初風から舞風までの中でこの艦だけ「風」の字を持たない珍しい艦名でもある。横須賀鎮守府籍として、僚艦「嵐」「萩風」「舞風」と共に第四駆逐隊を編成した。

太平洋戦争開戦後の蘭印作戦において、野分は僚艦「嵐」らと共にチラチャップ沖海戦に参加。この海戦だけで商船4隻を拿捕、商船3隻・油槽船4隻・駆逐艦1隻・砲艦1隻・護衛艦1隻を撃沈するという大戦果を挙げている。続く1942年6月のミッドウェー海戦では空母「赤城」を護衛。海戦の大敗北の中、赤城の処分という重い任務が舞風らと共に野分にも課され、雷撃によってこれを実行した。8月には陸軍一木支隊のガダルカナル島輸送作戦にも参加し、太平洋戦争最大級の消耗戦となるガダルカナル攻防戦に投入されることになる。開戦から半年余りで、野分はすでに南方攻略の華々しい戦果と、主力空母の最期という重い任務の両方を経験していた。

■ 野分 全戦歴ハイライト ■
【1942年3月】:チラチャップ沖海戦、商船多数を拿捕・撃沈
【1942年6月】:ミッドウェー海戦、空母「赤城」を雷撃処分
【1942年8月】:一木支隊のガダルカナル輸送に参加
【1943年8月6日】:ベラ湾夜戦、嵐・萩風戦没も野分は生還
【1944年7月30日】:硫黄島輸送作戦護衛
【1944年10月25日】:サマール沖海戦、重巡「筑摩」乗員約100名を救助・処分
【1944年10月26日】:ハルゼー艦隊に発見され、レイテ沖で戦没
エピソード① ベラ湾夜戦——僚艦を失いながらも生き延びて

1943年8月6日、コロンバンガラ島への輸送任務中、第四駆逐隊は米駆逐艦隊とベラ湾夜戦で交戦し、僚艦「嵐」「萩風」を失うという大きな損害を受けた。野分はこの激戦を生き延び、代わって陽炎型「山雲」が第四駆逐隊に転入することになる。その後、「東松2号船団」に編入されたある輸送任務では、旗艦「龍田」と輸送艦が敵潜水艦に沈められるという混乱が生じ、野分は龍田の乗員と司令部の任務を引き継いで、任務を完遂させている。統制の取れない混成部隊の中で、隊伍が崩れた隙を突かれての出来事だったという。

1944年7月30日、野分は空母「瑞鳳」、第61駆逐隊(初月・秋月)、僚艦「山雲」と共に、小笠原諸島・硫黄島方面への緊急輸送作戦の護衛にあたった。8月2日、護衛任務を終えて横須賀に帰投すると、駆逐隊司令艦は「満」に変更される。この後を追った輸送船団はアメリカ軍機動部隊に捕捉され、松型駆逐艦1番艦「松」以下、大きな損害を受けている。第四駆逐隊はその後、輸送船「帝洋丸」を護衛して佐世保へ移動、戦艦「榛名」と合流し、8月15日佐世保出港、21日シンガポールに到着、リンガ泊地で訓練に従事した。

エピソード② レイテ沖海戦——時雨との入れ替わり

レイテ沖海戦を前に、第四駆逐隊は分散配備されることになった。高橋司令指揮下の3隻(満・朝雲・山雲)は西村祥治少将率いる第一遊撃部隊第三部隊(通称・西村艦隊)に所属し、スリガオ海峡経由でレイテ湾突入を目指す。一方、野分だけは単艦で第十戦隊(司令官木村進少将、旗艦「矢矧」)直属となり、第十七駆逐隊(浦風・磯風・雪風・浜風)・清霜と共に、栗田艦隊第二部隊(指揮官・鈴木義尾中将、戦艦金剛・榛名)に加わった。

この配置換えの理由は、艦隊の航続力にあった。栗田艦隊が集結地点ブルネイに到着した際、補給用の油送船が不在で給油が1日遅れるという事態が生じる。このため艦隊は二手に分けられた——発見される可能性は低いが大回りとなるパラワン水道ルートには航続力のある陽炎型・夕雲型を、最短だが発見されやすいスリガオ海峡ルートには低速で航続力に難のある艦を配置することになったのである。野分は、この編成上の都合により、白露型「時雨」と入れ替わる形で栗田艦隊に組み込まれた。

10月23日、栗田艦隊はパラワン水道で米潜水艦の襲撃を受け、栗田健男中将座乗の重巡「愛宕」と姉妹艦「摩耶」が沈没、「高雄」も大破・撤退した。10月24日、米機動部隊艦載機の空襲で、輪形陣の先頭に配置されていた野分の目の前で、戦艦「武蔵」が沈没する。重巡「妙高」も被雷・撤退し、駆逐艦「清霜」「浜風」が武蔵生存者救助のため分離した。第十七駆逐隊が浜風の分離で一時3隻(浦風・雪風・磯風)になったため、野分がその代艦として行動することになる。

エピソード③ サマール沖海戦——「収容セズ」、そして筑摩救援

10月25日未明、スリガオ海峡夜戦で西村艦隊は「時雨」1隻を残して壊滅、第四駆逐隊の3隻(満・朝雲・山雲)もこの海戦で失われた。同日午前、栗田艦隊はアメリカ軍護衛空母部隊と遭遇、サマール沖海戦が始まる。野分を含む第十戦隊(矢矧・浦風・磯風・雪風・野分)は米護衛空母群に酸素魚雷を多数発射したが、遠距離雷撃だったため1本も命中しなかった。戦闘の最中、旗艦「矢矧」は野分に対し「漂流している米兵を収容したか」と尋ねたが、野分は「収容セズ」と簡潔に返答している。

この追撃戦の最中、重巡「筑摩」が被雷し航行不能となった。当初、救援には「幸運艦」雪風が向かう予定だったが、何らかの経緯でこの任務は野分に変更される。野分は11時20分、艦隊司令部に筑摩の現在地を確認した上で、単艦で危険な戦場に引き返した。大破した筑摩から約100名の乗員を救助し、生存者が見守る中で、命じられていた通り筑摩を雷撃処分した。使命を果たした野分は、栗田本隊に合流するため増速し、暗闇に包まれたレイテ沖を急いだ。

■ 10月25-26日、サマール沖からの離脱 ■
10/25朝
サマール沖海戦、酸素魚雷多数発射も命中せず
11:20
筑摩の現在地を確認、単艦で救援に向かう
救援後
筑摩乗員約100名を救助、生存者見守る中で筑摩を雷撃処分
本隊合流のため増速、暗夜のレイテ沖をひた走る
10/26
ハルゼー提督の高速戦艦部隊に発見され、集中砲火・被雷し爆沈
■ 米海軍二大提督と交戦した唯一の艦
野分は、トラック島空襲時のレイモンド・スプルーアンス提督、そしてこのレイテ沖でのウィリアム・ハルゼー・ジュニア提督という、米海軍を代表する2人の名将と交戦した、後にも先にも唯一の日本駆逐艦とされる。米側公式記録には、ハルゼー隷下の高速戦艦部隊がサンベルナルディノ海峡入口で日本艦隊の落伍艦(巡洋艦または大型駆逐艦)を撃沈したとの記述が残るが、これはすでに処分されていた筑摩ではなく、野分だったと推察されている。乗員は佐藤清夫の調査により約272名とされる(140名とする資料もあるが、陽炎型の定員239名からすると少なすぎるとして排除されている)。この272名には、野分自身が救い出したばかりの筑摩乗員約100名も含まれていたとみられる。
猫工艦の考察

野分の本質は、開戦劈頭の大戦果から、赤城の処分、そして幾多の輸送・救援任務まで、陽炎型駆逐艦としての役割をひたすら忠実に果たし続けた艦だったという点にある。米海軍の二大提督と交戦した唯一の艦という記録も、この艦が太平洋戦争のほぼ全期間、最前線に立ち続けた証だろう。

しかし、その最期に待っていたのは、あまりにも皮肉な結末だった。筑摩の乗員を救い、命じられた任務を果たし、本隊への帰還を急いでいたまさにその時、野分はハルゼー提督の巨大な戦艦部隊に捕捉された。救った命と、救った側の命が、共に同じ海に沈んでいったという事実は、この艦の献身の重さを、何よりも雄弁に物語っている。「やや油断があった」という指摘もあるが、暗夜の中で本隊への合流を急ぐこと自体は、単艦で孤立した艦にとって当然の判断でもあった。

野分が残したものは何か。それは、危険を顧みず僚艦の乗員を救い出したその行動そのものである。結果として救った命と共に海に消えることになったとしても、野分が単艦で引き返し、筑摩の乗員を救助したという事実は変わらない。猫工艦は、開戦から終幕まで、この艦が果たし続けた献身に、深い敬意を表したい。

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■ 参考文献・資料

  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26・46・62『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦/海上護衛戦/中部太平洋方面海軍作戦(2)』朝雲新聞社
  • ・アジア歴史資料センター(JACAR)野分関連公文書・第十戦隊戦時日誌戦闘詳報
  • ・佐藤清夫『駆逐艦「野分」物語 若き航海長の太平洋海戦記』光人社、1997年(光人社NF文庫版2004年)
  • ・重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦』潮書房光人社、2014年
  • ・戦史研究家落合康夫『駆逐隊別「陽炎型駆逐艦」全作戦行動ダイアリィ』
  • ・Wikipedia「野分 (陽炎型駆逐艦)」「陽炎型駆逐艦」「レイテ沖海戦」「筑摩 (重巡洋艦)」
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