「輸送船団司令部を乗せて」——ビスマルク海海戦(ダンピールの悲劇)に散った陽炎型10番艦「時津風」の全記録

1943年3月3日、ビスマルク海。反跳爆撃という初めて目にする戦法が、輸送船団を次々と食い荒らしていた。駆逐艦「時津風」の右舷機関室付近に、水切り石のように海面を跳ねてきた爆弾が突き刺さる。魚雷を受けたのかと見紛うほどの巨大な穴が開き、機関室の兵員は瞬時に失われ、艦は動けなくなった。第十八軍戦闘司令所を乗せていた時津風から、司令部を無傷の僚艦「雪風」へ移乗させる作業が、空襲の合間を縫って決行される。乗員たちは顔面蒼白になりながら絶叫し、互いを励まし合ったという。

陽炎型10番艦として1940年12月に竣工した「時津風」は、真珠湾攻撃こそ参加しなかったものの、スラバヤ沖海戦、第二次ソロモン海戦での空母「龍驤」乗員救助、南太平洋海戦、そしてガダルカナル撤収作戦(ケ号作戦)全3回と、太平洋戦争の重要な局面を戦い抜いてきた艦だった。「雪風の最初の相棒」として第十六駆逐隊第1小隊を組み、常に僚艦と行動を共にしてきた。

そして——移乗を終えた後、行動不能の時津風は自沈処置で放棄されることになった。しかし、この艦はそう簡単には沈まなかった。翌日になっても、まだ海上を漂流し続けていたのである。最新鋭の陽炎型を敵の手に渡すわけにはいかない。味方の艦爆9機が撃沈処分に向かうが、なんと1発も命中しなかった。皮肉にも、その後現れた米軍機の爆撃が見事に命中し、時津風はようやく海に姿を消していった。

■ 陽炎型10番艦「時津風」基本諸元 ■
建造所
浦賀船渠
起工 1939年2月20日
命名 / 進水 / 竣工
1939年8月25日 / 11月10日 / 1940年12月15日
基準排水量
2,033t
全長118.5m
最大速力
35.0ノット
出力52,000馬力
主砲
三年式12.7cmC型連装砲
3基6門
魚雷
61cm4連装発射管×2基
(九三式酸素魚雷)
初代艦長
中原義一郎中佐
白露型「夕立」初代艦長からの転任
所属駆逐隊
第十六駆逐隊
(雪風・初風・天津風)
最終結末
1943年3月3日
ビスマルク海で戦没
ダンピール海峡の悲劇
「雪風の最初の相棒」——第十六駆逐隊第1小隊として

時津風は1939年2月20日、浦賀船渠で起工した。同年8月25日、姉妹艦「天津風」と共に「時津風」と命名される。11月10日進水。艤装員長には、白露型4番艦「夕立」の初代艤装員長・艦長を務めた中原義一郎中佐が任命され、1940年12月15日の竣工と同時に、正式に時津風初代駆逐艦長となった。呉鎮守府籍。太平洋戦争開戦時、第十六駆逐隊は第1小隊(雪風・時津風)と第2小隊(初風・天津風)に分かれて行動しており、時津風は「雪風の最初の相棒」として、常にこの艦と行動を共にすることが多かった。

開戦後、時津風はフィリピン攻略作戦、続いて蘭印作戦のレガスピー、ダバオ、メナド、ケンダリー、アンボン、クーパンの各攻略作戦に参加した。日本軍の快進撃が続く中、1942年2月9日には僚艦「夏」が米潜水艦の雷撃で沈没し、陽炎型19隻中最初の喪失艦となる。2月27日、時津風はスラバヤ沖海戦に参加。距離約9,000mまで肉薄して魚雷を発射するも命中せず、その後さらに接近した第四水雷戦隊の砲撃が英駆逐艦「エレクトラ」を撃沈するという結果に終わった。戦闘後、時津風は連合軍艦艇の遭難将兵を救助している。

■ 時津風 全戦歴ハイライト ■
【1942年2月27日】:スラバヤ沖海戦、連合軍艦艇遭難将兵を救助
【1942年8月24日】:第二次ソロモン海戦、空母「龍驤」乗員を救助
【1942年10月26日】:南太平洋海戦、機動部隊直衛として参加
【1943年1-2月】:ケ号作戦(ガダルカナル撤収)、全3回に従事
【1943年3月3日】:ビスマルク海海戦(ダンピールの悲劇)で被弾、司令部移乗後に戦没
エピソード① 龍驤の喪失——陽動部隊としての奮闘

1942年8月24日、第二次ソロモン海戦。時津風は僚艦「天津風」、重巡「利根」と共に空母「龍驤」を中心とする機動部隊支隊(陽動部隊)を編制し、本隊から分離してガダルカナル島へ向かった。しかしこの日、龍驤は米空母「サラトガ」艦載機の攻撃を受けて沈没する。時津風は天津風と協力し、龍驤の乗組員と不時着した艦載機搭乗員の救助にあたった。両艦合わせて300~500名もの人員を救い出したとされる。

10月には空母「大鷹」(9月28日被雷して損傷中)を僚艦「漣」と護衛して内地へ帰投。10月26日の南太平洋海戦では、南雲機動部隊本隊(第一航空戦隊「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」)の護衛として、重巡「熊野」、第4駆逐隊(嵐・舞風)、第16駆逐隊(初風・雪風・天津風・時津風)、第17駆逐隊(浜風)、第61駆逐隊(照月)と共に、米軍機動部隊艦載機と交戦した。11月4日、時津風と初風は空母「瑞鶴」・重巡「妙高」を護衛してトラックを出港し内地へ向かうが、この帰投のタイミングにより、第十六駆逐隊第2小隊(初風・時津風)は、11月中旬の第三次ソロモン海戦への参加を免れることになった。

12月、空母「龍鳳」が陸軍の九九式双軽爆撃機を輸送する任務中、僚艦の時津風と共に米潜水艦の襲撃を受け、龍鳳が中破する事件があった。輸送予定だった爆撃機は急遽、空母「瑞鶴」に積み替えられている。12月31日、瑞鶴・秋月・初風・時津風の4隻が横須賀を出港、1943年1月4日にトラックへ進出。時津風を含む3隻(秋月・初風・時津風)は前進部隊に編入され、1月6日には修理を要する各艦(長波・親・陽炎・涼風)の代艦として南東方面部隊に編入、ショートランド泊地へ移動した。ここから、時津風はガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)の全3次にわたる作戦すべてに投入されることになる。悪化する一方の戦況の中、時津風は輸送・撤収という地道だが決定的に重要な任務を、一貫して担い続けていた。

エピソード② ビスマルク海海戦——机上の空論が生んだ悲劇

1943年、日本軍はニューギニア島の戦力増強を図り、ラバウルからラエ・マダン・ウェワクへの輸送作戦「八十一号作戦」を策定した。このうちラエ行きの輸送だけは、連合軍の一大拠点ポートモレスビーに近いダンピール海峡を通過する必要があり、危険性を懸念する声も少なくなかった。しかし陸軍がすでにラエまで後退していたことなどから、この輸送は強行されることになる。2月28日23時、陸軍第十八軍司令官・安達二十三中将ら約7,000名を乗せた輸送船8隻と、船団指揮官・木村昌福第三水雷戦隊司令官率いる護衛駆逐艦8隻が、ラバウルを出航した。第十八軍戦闘司令所は「時津風」に乗艦していた。

3月1日午後、連合軍のB-24爆撃機が船団を発見し接触を開始。3月2日の空襲は何とか喪失艦なく切り抜けたが、3月3日、地獄のような惨劇が展開される。B-17・B-25による水平爆撃に加え、初めて目にする戦法——反跳爆撃(スキップボミング、水切り石の要領で海面上を跳ねさせて命中させる爆撃)が船団を襲った。爆発炎上する輸送船、悲鳴が響く海面、掃射される機銃——ビスマルク海はまさに地獄絵図と化した。

■ 3月3日、ビスマルク海の時系列 ■
午前
反跳爆撃の爆弾が右舷機関室付近に命中。機関室兵員が犠牲に、瞬時に浸水
直後
空襲の合間を縫い、雪風へ第十八軍司令部を移乗
移乗後
行動不能の時津風、自沈処置で放棄
翌日
沈まず漂流しているのを発見される
その後
味方艦爆9機の処分は全弾外れ、米軍機の爆撃が命中し沈没
■ 顔面蒼白の移乗作業
行動不能となった時津風から雪風へ司令部を移乗させる作業は、空襲の真っ只中で決行された。敵機に発見されればボートも雪風自体も一巻の終わりという状況の中、両艦の乗員たちは顔面蒼白になりながら絶叫し、互いを励まし続けたと伝えられている。移乗を終えた雪風は再び戦闘に突入し、無傷のまま時津風の乗員も収容した。つまりどういうことか——この危険な移乗が成功しなければ、陸軍の作戦指揮系統そのものが失われかねなかった。
エピソード③ 全滅した輸送船団——「日本民族を滅亡させる」作戦

この海戦で日本側は輸送船8隻全て、そして駆逐艦「白雪」「朝」「荒」、そして「時津風」を失った。約3,000~7,000名ともいわれる将兵が犠牲になったとされる。生存者の救助には潜水艦(伊17・伊26・呂101)とラエからの大発動艇が向かったが、連合軍側は漂流する日本兵を銃撃することも多く、3月4日以降に救助された者は強運の持ち主だったとまで言われる。

ラバウルに帰還した駆逐艦の一隻「朝雲」の艦長・岩橋透中佐は、第八艦隊司令部に乗り込み「こんな無謀な作戦をたてるということは、ひいては日本民族を滅亡させるようなものだ。よく考えてからやっていただきたい」と抗議したと伝えられている。一方、ダグラス・マッカーサー大将はこの海戦を「史上屈指の完璧で圧倒的勝利に終わった戦い」と声明で発表した。1943年4月1日、ビスマルク海海戦で失われた僚艦たちと、3月5日のビラ・スタンモーア夜戦で沈没した「村雨」「峯雲」と共に、時津風の除籍が正式に決定された。

■ 二度と繰り返されなかったダンピール輸送
この壊滅的な損害を受け、日本軍は以後、ダンピール海峡を通る危険な航路での大規模輸送作戦を実施しなくなった。約7,000名の陸軍兵力を送り込もうとした作戦は、輸送船8隻・駆逐艦4隻の喪失という代償と引き換えに、事実上その意図をほとんど果たせずに終わった。つまりどういうことか——時津風をはじめとする艦艇の喪失は、その後の日本軍の作戦立案そのものを変えさせるほどの、痛烈な教訓となった。
猫工艦の考察

時津風の本質は、「雪風の最初の相棒」として常に僚艦と行動を共にしながら、艦隊の重要な局面を静かに支え続けた駆逐艦だったという点にある。スラバヤ沖海戦、龍驤乗員の救助、南太平洋海戦、そしてケ号作戦全3回への参加——派手な単独の戦果こそ少ないが、常に艦隊の中核任務を確実にこなし続けた艦だった。

しかし、その最期は、この艦自身の力量とは無関係な、作戦計画そのものの無謀さによってもたらされた。ダンピール海峡を通過するラエ輸送の危険性は出撃前から指摘されており、実際に結果は輸送船・護衛艦艇の壊滅という最悪の形で現実になった。時津風から雪風への決死の司令部移乗、そして味方の処分すら外れながら結局は敵弾で沈んだという皮肉な最期は、この海戦全体を覆う「制空権なき作戦がもたらす理不尽さ」を象徴している。

時津風が残したものは何か。それは、「こんな無謀な作戦は日本民族を滅亡させる」という、生き残った艦長の悲痛な抗議の言葉と共に記憶されるべき記録である。この海戦を境に、日本軍はダンピール海峡を通る危険な輸送作戦を二度と行わなかった。猫工艦は、雪風の相棒として戦い抜き、理不尽な作戦の犠牲となった時津風の乗員たちに、深い敬意を表したい。

⚓ 猫工艦ミリタリーグッズはこちら

雪風の最初の相棒——「時津風」の意志を、その身に纏え

「輸送船団司令部を乗せ、ダンピールの悲劇に散った陽炎型10番艦」

SHOP を見る →

▼ 関連記事

■ 参考文献・資料

  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書62・83・96『中部太平洋方面海軍作戦(2)/南東方面海軍作戦(2)(3)』朝雲新聞社
  • ・アジア歴史資料センター(JACAR)時津風関連公文書・第十六駆逐隊戦時日誌戦闘詳報
  • ・当時「時津風」水雷科指揮所伝令・海軍一等水兵桝谷克彦「ラエ輸送の悲劇 炎と波とわが時津風と」
  • ・当時「時津風」主計科員・海軍上等主計兵曹芝田博之「八方破れ『時津風』が演じたガダルの奇蹟」
  • ・佐藤和正「最高の傑作 駆逐艦『時津風』ダンピールに逝く」『艦と乗員たちの太平洋戦争』光人社、2004年
  • ・土井全二郎『ダンピールの海 戦時船員たちの記録』丸善ブックス、1994年
  • ・重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦』潮書房光人社、2014年
  • ・Wikipedia「時津風 (陽炎型駆逐艦)」「陽炎型駆逐艦」「ビスマルク海海戦」
— OFFICIAL STORE —
FIELD TO STREET // 着る、戦術。
NECOKOUCAN SHOP
ミリタリーグッズ・オリジナルTシャツ・全アイテムはこちら
T-TRINITY| PREMIUM TEE| ¥4,400〜
ENTER SHOP →
ttrinity.jp
NECOKOUCAN — EST. 2023 — FUKUOKA