1943年11月6日、トラックを出港した翌日の海上。油槽船「寶洋丸」「玄洋丸」を守って西へ向かう駆逐艦「矢風」は、アメリカ潜水艦「ハダック」の襲撃を受けた。砲撃にさらされる船団の中で、「矢風」は味方の油槽船「玄洋丸」の右舷後部に衝突して艦首を折り曲げ、直後に放たれた魚雷の1本は「矢風」自身の艦底を通過していった。この艦には、主砲も魚雷発射管もない。あるのは爆雷と、甲板に並べられた木製の偽砲だけだった。
「矢風」は峯風型駆逐艦の6番艦として、1920年、三菱長崎造船所で竣工した一等駆逐艦である。しかし太平洋戦争の時点で、彼女はもう「駆逐艦」ではなかった。1937年からは戦艦から標的艦へ転用された「摂津」を無線で操る艦として働き、開戦後の1942年には兵装を全廃して自らが爆撃標的艦となり、同年7月20日に特務艦へ編入されている。
敵を撃つのではなく、味方に撃たれることで、味方を育てる——それが「矢風」の戦いだった。機動部隊の飛行機乗りたちが爆弾と魚雷の腕を磨く的を務め、その合間には危険な船団護衛にも駆り出された。華々しい戦果とは無縁のまま、20年選手の旧式艦は終戦の日まで生き延びる。この記事は、撃たれ役として戦い続けた「矢風」の全記録を辿る。
→標的艦化後 24ノット
53.3cm連装発射管
上部構造物を金網で覆う
1920年7月19日に竣工した「矢風」は、横須賀鎮守府籍の一等駆逐艦として艦歴をスタートさせた。1931年には所属の第2駆逐隊が第一航空戦隊(鳳翔・加賀)に編入され、翌1932年の第一次上海事変に参加している。空母に付き従う駆逐艦として過ごしたこの時期の経験は、のちに彼女が「航空機の的」となる未来を、皮肉な形で予告していたようにも見える。
転機は1937年だった。この年以降、「矢風」は駆逐艦籍のまま兵装の一部を撤去され、標的艦「摂津」の無線操縦艦として用いられるようになる。無人の「摂津」を遠隔操作し、爆撃訓練の的として動かすための艦——それが「矢風」に与えられた新しい役目である。艦長人事にもその特殊な立場は表れていて、1937年11月には、摂津副長が「矢風」の艦長を兼ねる時期もあった。
1940年10月11日、横浜港沖で紀元二千六百年特別観艦式が催された。「矢風」は「摂津」とともに参加し、第一列の末尾に、「摂津」は第二列に配置されたと記録されている。居並ぶ主力艦の晴れ姿の端に、標的艦とそれを操る駆逐艦が並んでいた光景は、日本海軍の航空戦備がどのような裏方に支えられていたかを、静かに物語っている。
太平洋戦争が始まると、標的艦が「摂津」1隻では足りなくなった。しかも元戦艦の「摂津」は速力18ノットと低速で、運動能力も乏しい。そこで「矢風」も、爆撃標的艦に改装されることになった。改造は1942年3月から5月にかけて行われ、兵装は全廃、上部構造物は金網で覆われた。速力は24ノットを発揮できたものの、元が駆逐艦であるため、施せた防御は1kg演習弾に耐える程度の簡単なものにとどまった。無線操縦装置はそのまま残され、これは1944年10月に撤去されている。
7月20日、「矢風」は特務艦に編入され、標的艦に類別された。8月31日から9月27日まではルオットで第四空襲部隊の雷撃訓練に協力する。次はタロアで第一航空隊の爆撃訓練に協力する予定だったが、機動部隊から爆撃訓練への協力要請が舞い込み、10月2日にトラックへ到着、機動部隊の爆撃訓練の的を務めた。それが終わると10月9日にトラックを離れ、10月13日にタロアへ入り、翌日から10月23日まで第一空の爆撃訓練に協力している。
「矢風」の仕事は、敵を倒すことではなく、味方の搭乗員に「当てる」経験を積ませることだった。標的として飛行機の前に身をさらし続けるという任務は、戦闘とは違う種類の危険と緊張を、乗組員に強いたはずである。
1943年3月6日、カビエン南方で船団護衛にあたっていた「矢風」は、第34号哨戒艇と衝突し、艦首を失った。この事故で第34号哨戒艇は船体が分断され、前部が沈没、後部が大破して、曳船に曳かれてトラックに入港している。標的艦であるはずの「矢風」が、危険な海域で船団護衛を任されていたこと自体が、この時期の海軍の台所事情を物語っていた。
「矢風」は4月12日から5月22日にかけて呉海軍工廠で修理を受け、このとき簡易型の艦首が与えられた。修理中の6月1日には、連合艦隊司令長官・古賀峯一から第一基地航空部隊(第十一航空艦隊)への編入と、7月のマーシャル方面部隊訓練、8月のラバウル方面部隊訓練への従事が下令されている。そして6月7日、新しい艦長として櫻庭久右衛門少佐が着任した。
櫻庭少佐は、「矢風」に砲が1門もないことに着目し、潜水艦対策として木造の偽砲を作らせ、甲板に並べた。本物の大砲を持たない駆逐艦が、遠目に武装艦に見せかけるために、木を削った砲身を掲げる。滑稽にも悲壮にも映るこの工夫が、「矢風」の置かれた立場を何より雄弁に示している。6月10日に呉を出た「矢風」は、「摩耶丸」「あきつ丸」「凌水丸」を途中まで護衛したのち、6月18日にルオットへ到着。以後はサイパンやギルバート方面で訓練に従事した。
1943年8月13日、サイパンを出た「矢風」は輸送船「五洲丸」を護衛して再びサイパンに入り、8月31日に出港、「富士山丸」「東亜丸」、給油艦「鶴見」、駆逐艦「玉波」と合流して9月2日にトラックへ到着した。ここで機動部隊の訓練標的を務めることになる。9月12日、訓練中に空母「翔鶴」の戦闘機1機が「矢風」の前檣に衝突し、搭乗員が死亡する事故が起きた。標的艦の勤めは、時に標的を狙う側の命も奪った。
9月20日に機動部隊へ編入された「矢風」は、10月18日に「東亜丸」を護衛してエニウェトクへ向かい、10月21日に到着、30日にトラックへ戻った。この日、「矢風」は機動部隊から除かれて連合艦隊附属となり、油槽船「寶洋丸」「玄洋丸」をトラックからシンガポールまで護衛するよう命じられる。船団は11月5日、トラックを出港した。
翌6日、船団はアメリカ潜水艦「ハダック」の襲撃を受ける。砲撃を受けるさなか、「矢風」は12ノットで「玄洋丸」の右舷後部に衝突し、艦首が折れ曲がった。続いて「寶洋丸」が被雷。「矢風」でも雷跡を認めたが、その魚雷は「矢風」の艦底を通過していった。「矢風」は爆雷攻撃を行うとともに、「寶洋丸」の乗員を収容する。やがて現場に到着した軽巡洋艦「長良」へ「寶洋丸」の乗員を移し、「矢風」は輸送船「金城丸」に伴われて、11月7日にトラックへ戻った。同地で修理を受けている。
参照した記録には「1月6日」と記されているが、トラック出港が11月5日、帰着が11月7日であることから、本記事では襲撃を11月6日と判断した。
1944年2月7日、「矢風」はトラック発の船団を護衛して内地へ向かい、2月27日に呉へ入港した。その10日後の2月17日と18日、トラック島は米機動部隊の大空襲を受け、「太刀風」「文月」をはじめ多くの艦船が失われている。「矢風」がその直前にトラックを離れていたことは、単なる巡り合わせにすぎない。ただ、事実として、彼女はその惨劇の場を一足先に後にしていた。
その後の「矢風」は、北海道方面など内地で爆撃訓練に従事した。1944年10月には、長年残されていた無線操縦装置が撤去される。1945年5月には25mm単装機銃2挺が搭載され、7月18日の戦闘詳報には25mm単装2基と13mm連装1基の装備が記されている。同年7月1日時点の乗員は155名(准士官以上17名、下士官兵138名)。そして7月18日、横須賀港の小海に係留中、艦載機の攻撃を受ける(横須賀空襲)。隣に停泊していた艦が直撃弾を受けた際の爆風や破片で「矢風」も損傷したが、すぐに修理され、そのまま終戦を迎えた。9月15日除籍。戦後は解体された。
「矢風」の本質は、「戦わない艦が、戦争を支えた」という一点にある。1942年以降の「矢風」は、第四空襲部隊、第一空、そして機動部隊と、開戦後の日本海軍が航空戦力を磨こうとした現場に、標的として寄り添い続けた。彼女が浴びたのは敵弾ではなく味方の演習弾と魚雷だったが、その積み重ねなしに、搭乗員の腕は上がらない。戦果に数えられない仕事ほど、記録に残りにくい。
しかも「矢風」は、標的艦でありながら、何度も実戦の危険に身をさらした。カビエン南方での衝突による艦首喪失、翔鶴機の前檣衝突、そしてハダックの襲撃——どれも、砲も魚雷も持たない艦が、護衛という名目で危険な海に出されたことの帰結である。櫻庭少佐の木製の偽砲は、そうした現実に現場が出した、精一杯の答えだったのだろう。
そして「矢風」は、竣工から25年、終戦まで生き延びた。峯風型15隻のうち、終戦時に残ったのは5隻。「矢風」はその1隻であり、標的として撃たれ続け、護衛で衝突や雷撃の危険をくぐりながら、一度も沈まなかった艦である。猫工艦は、峯風型6番艦「矢風」と、撃たれ役を務め続けた乗組員たちに、深い敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)「特務艦矢風戦時日誌戦闘詳報」(C08030636400)、昭和17年7月20日付内令第1317号・第1320号(C12070164200)
- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第62巻 中部太平洋方面海軍作戦〈2〉昭和十七年六月以降』朝雲新聞社
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・『日本海軍特務艦船史』/丸スペシャル『特務艦』/『世界の艦船 日本軍艦史』/『終戦時の日本海軍艦艇』
- ・『紀元二千六百年祝典記録 第六冊』
- ・「標的艦「矢風」巨弾地獄に針路をとれ」(記録)
- ・Wikipedia「矢風 (標的艦)」「摂津 (標的艦)」「峯風型駆逐艦」「トラック島空襲」