1944年2月4日、トラック環礁・君島環礁付近。人員と物資の輸送任務についていた駆逐艦「太刀風」は、暗礁に乗り上げて座礁した。動けなくなったまま2週間が過ぎた2月17日、トラック島空襲に参加した米軍機が来襲する。「太刀風」はこの日の空襲と交戦したが、翌18日朝、再び襲来した米軍機の攻撃を受け、座礁した状態のまま戦没した。竣工から23年、南方の輸送戦を戦い抜いてきた艦の最期は、動くことすらできないまま迎える、苦しい終わりだった。
「太刀風」は峯風型駆逐艦の11番艦として、舞鶴海軍工廠で建造され、横須賀鎮守府籍の一等駆逐艦として竣工した。1933年の昭和三陸地震における救援活動、日中戦争での華中沿岸作戦、そしてマーシャル諸島・ラバウル方面での輸送任務——「太刀風」はその艦歴を通じて、常に地道な任務の最前線に立ち続けた。
その艦歴の中には、ガダルカナル島の戦いで峯風型の僚艦「秋風」「羽風」と共に第34駆逐隊を編成し、いわゆる「鼠輸送」に投入され続けた記録も刻まれている。竣工から23年を経た旧式艦が、太平洋戦争のあらゆる局面で酷使され続けた末に迎えた最期を、この記事は辿る。
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1933年3月3日、三陸沖を震源とする昭和三陸地震が発生した際、「太刀風」は第4駆逐隊に属して青森県の大湊要港部に所在していた。地震発生を受け、「太刀風」は僚艦3隻とともに直ちに出航し、翌日早朝までに青森県鮫(八戸市)に到着、被災地の救援活動にあたっている。竣工から10年余りを経たこの艦は、平時の任務においても、迅速な対応を求められる場面に立ち会い続けていた。
1937年からの日中戦争では、華中の沿岸作戦、そして南部仏印進駐作戦に参加した。太平洋戦争開戦後は南方での輸送・海上護衛作戦に従事し続ける。1941年12月8日、「太刀風」は不時着場確保などを目的とするカラヤン島攻略作戦に投入された。横須賀第三特別陸戦隊の1個小隊を乗せて12月7日に高雄から出撃し、12月8日に陸戦隊をカラヤン島へ上陸させる。翌9日には不時着機の乗員を救助し、陸戦隊の撤収を見届けた後、12月10日に高雄へ帰投した。
1942年5月31日、ウォッゼ環礁に到着した「太刀風」は、マロエラップ環礁で触雷沈没した「第二号大井丸」の生存者救助に向かい、6月1日にタロア島へ到着する。そこでは同じく救助に向かっていた哨戒艇から生存者が「太刀風」へ移された。その後「太刀風」はルオットへ向かい、6月3日に到着すると、千歳空・第一空の訓練協力にあたる。6月30日からは、ウォッゼからイミエジへの第十四空基地員・物件の輸送、そして訓練協力を命じられた。
第十四空の二式飛行艇がラバウルへ派遣されるのに伴い、「太刀風」は基地員と基地物件をイミエジからラバウルへ輸送する任務を担う。7月14日にイミエジを出港し、7月18日にラバウルへ到着、7月23日にイミエジへ戻った。8月には水上機母艦「神威」の護衛、輸送船「五洲丸」の護衛、そして再び「神威」のラバウルへの魚雷輸送護衛と、任務は途切れることがなかった。タロアへの帰投中にラバウルへの回航が命じられ、8月23日にタロアを発ち、8月28日にラバウルへ到着している。
「太刀風」がこの時期に担った任務の多くは、戦闘ではなく物資・人員の輸送、そして僚艦の護衛だった。派手な戦果こそないが、こうした地道な輸送の積み重ねなくして、前線の航空隊や陸戦隊の活動は成り立たなかった。
ラバウルへ進出した「太刀風」は、峯風型の僚艦「秋風」「羽風」と共に第34駆逐隊を編成し、ガダルカナル島の戦いが激化する中、輸送・護衛任務そして強行輸送(鼠輸送)に投入されていく。ガダルカナル島への補給が制空権を失う中でますます困難になっていた当時、旧式駆逐艦であっても高速輸送手段として最大限に活用されていた。
1942年12月27日、「太刀風」の艦長・平佐田休少佐が戦死する。翌1943年1月8日、宮崎勇少佐が新たな艦長として着任した。この宮崎勇少佐は、後に夕雲型駆逐艦「清霜」の艦長として礼号作戦を戦い、僚艦「霞」「朝霜」に救助されることになる人物である。1隻の艦長が、峯風型から夕雲型へと、日本海軍の駆逐艦の変遷を体現するかのように渡り歩いていったことは、艦という存在を超えて、そこに乗り組んだ人々の物語もまた、艦から艦へと受け継がれていったことを物語っている。
1944年2月4日、人員と物資の輸送任務のためトラック島へ向かっていた「太刀風」は、君島環礁付近で暗礁に乗り上げ座礁してしまう。竣工から23年を経た艦体は、この座礁から抜け出すことができなかった。動けないまま2週間近くが過ぎた2月17日、米軍機動部隊による大規模なトラック島空襲が始まる。「太刀風」はこの日の空襲に参加した米軍機と交戦したが、翌18日朝、再び襲来した米軍機の攻撃を受け、座礁した状態のまま戦没した。
同じトラック島空襲では、既に本サイトで紹介した睦月型駆逐艦「文月」もまた、修理中に主機を分解した状態で奇襲を受け、機械室に直撃弾を受けて航行不能となり、翌日沈没している。「太刀風」も「文月」も、いずれも動くことができない状態で、この歴史的な大空襲に巻き込まれ、戦没した。この空襲では他にも軽巡「香取」「阿賀野」「那珂」、駆逐艦「舞風」を含む多数の艦船が失われており、「太刀風」の喪失は、その大きな損害の一部だった。
座礁して身動きが取れないという状態は、駆逐艦という機動力を身上とする艦種にとって、最も過酷な状況の1つだった。回避運動もできず、ただ迎え撃つしかない中で、「太刀風」は最後まで交戦を続けたが、力尽きた。
「太刀風」の本質は、竣工から23年、太平洋戦争のほぼ全期間を通じて、地道な輸送・護衛任務を担い続けた「働き詰めの艦」だった、という一点にある。昭和三陸地震での救援、カラヤン島攻略戦での不時着機救助、マーシャル諸島・ラバウル方面での輸送——そしてガダルカナル戦での鼠輸送。「太刀風」は常に、戦闘の主役ではなく、任務を粛々とこなす立場に置かれ続けた。
しかし「太刀風」の最期は、この艦がどれほど過酷な状況に置かれ続けていたかを、何より雄弁に物語っている。座礁して動けなくなったまま、2週間近くも修理も離礁もかなわず、そして歴史的な大空襲の中で、回避運動すらできないまま戦没した。艦長・平佐田休少佐の戦死、そして後任・宮崎勇少佐がやがて夕雲型「清霜」へと引き継がれていった事実は、1隻の艦を超えて、日本海軍の駆逐艦全体が織りなす、人と艦の長い物語の一部だったことを示している。
「太刀風」が残したものは何か。それは、旧式艦がどれほど長く、そしてどれほど酷使され続けたかという記録であり、そして動けないという極限状況の中でも最後まで戦い続けた乗組員たちの姿である。猫工艦は、峯風型11番艦「太刀風」と、その乗組員たちに深い敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)海軍辞令公報(部内限)各号
- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社
- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第62巻 中部太平洋方面海軍作戦〈2〉昭和十七年六月以降』朝雲新聞社
- ・伊藤大介「昭和三陸津波と軍隊」山本和重編『北の軍隊と軍港』(地域の中の軍隊1 北海道・東北)吉川弘文館、2015年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻・第9巻、第一法規出版、1995年
- ・Wikipedia「太刀風 (駆逐艦)」「秋風 (駆逐艦)」「峯風型駆逐艦」「トラック島空襲」