1942年7月2日、横須賀鎮守府はようやくある事実に気づいた。駆逐艦「山風」が、1週間以上前から行方不明になっていた。6月23日午後、大湊港外を出発し柱島へ向かったはずの山風は、19時45分の連絡を最後に消息を絶っていた。だが大湊警備府も横須賀鎮守府も、その行動を把握していなかった。捜索が始まった時には、もう手遅れだった。
白露型駆逐艦8番艦・山風は、改白露型(海風型)4隻のうちの2番艦である。タラカン攻略作戦ではオランダ軍の機雷敷設艦を単艦で撃沈し、スラバヤ沖海戦では英重巡「エクセター」の生存者67名と蘭軽巡「ジャワ」の生存者37名を救助した。蘭印作戦という激戦を生き抜いた艦が、その後、日本近海での単艦航行中にひっそりと消えていった。
そして——その消息不明の発覚の遅れこそが、この艦の最期を特徴づける最大の悲劇だった。米潜水艦の雷撃を受けたのは6月25日。横須賀鎮守府がその事実に気づいたのは7月2日。捜索が行われた時、山風はすでに海の底にあった。
1937年6月30日 竣工
34.0kt
(改白露型・海風型2番艦)
単装砲1基(計5門)
(計8射線)
(乗員全員と共に戦死)
ジャワ生存者37名を救助
米潜水艦ノーチラスの雷撃で戦没(発覚は7月2日)
第二次軍備補充計画(②計画)で計画された白露型の後期4隻(海風・山風・江風・涼風)は、第四艦隊事件の影響で船体構造の設計が若干改められ「改白露型」(海風型)と呼ばれる。最大の外観的特徴は艦橋形状の変更で、海風建造時に実物大模型を製作して決定されたこの形状は、後の朝潮型・陽炎型にも引き継がれた。山風は浦賀船渠で建造され、白露型の中でも「時雨」「五月雨」と同時に建造されていた艦である。日本海軍の艦船としては海風型駆逐艦「山風」に続いて2隻目にあたる(初代山風は後に第八号掃海艇と改名)。
山風は1935年5月25日、浦賀船渠で起工した。1936年2月21日に進水、1937年6月30日に竣工。竣工と同時に佐世保へ回航され、第24駆逐隊(江風・海風)に編入された。7月18日、24駆司令駆逐艦は江風から山風に変更される。第24駆逐隊の初実戦は第二次上海事変で、9月2日には軽巡2隻と共に対地砲撃を実施した。
1941年11月26日、第24駆逐隊は第三艦隊司令長官・高橋伊望中将の指揮下に入り、フィリピンの戦いに従事すべく日本本土を出発した。太平洋戦争開戦後は南方部隊に属し、レガスピー上陸作戦・ラモン湾上陸作戦に従事。1942年1月からは蘭印部隊に属し、タラカン・バリックパパン・マカッサル・スラバヤ・パナイ島の各攻略作戦に参加した。
1942年1月12日朝、タラカン島守備隊降伏の報告を受けた第四水雷戦隊は、指揮下の掃海隊に港口の機雷除去を命じた。秘匿されていた陸上砲台が砲撃を開始し、掃海艇2隻が短時間で撃沈される事態となる。同日夜、「山風」はタラカン島とブニュー島の間で脱出を図るオランダ敷設艦「プリンス・ファン・オラニエ」を発見、第38号哨戒艇と共にこれを撃沈し、生存者5名を救助した。この勝利はタラカン攻略部隊全員の士気を高揚させ、蘭印方面における初の水上艦同士の交戦でもあった。
2月11日、山風はマナド沖合で浮上潜水艦を発見し、砲撃による撃沈を報告。米潜水艦「シャーク」は山風か僚艦「雷」のどちらかに撃沈されたとされ、アメリカ軍は山風による撃沈と認定している。2月22日からは第五戦隊の指揮下でスラバヤ沖海戦に参加することになる。
4月10日、第24駆逐隊は第一水雷戦隊に編入。フィリピン攻略作戦に従事した後、6月上旬のミッドウェー海戦では主力部隊・警戒部隊の特設給油艦を護衛した。海戦後、6月17日に横須賀へ到着。6月21日、第二戦隊・第九戦隊の西日本回航護衛のため横須賀を出発する各艦の中で、山風は油槽船2隻を護衛して大湊へ向かった。
6月23日午前11時30分、山風は大湊に入泊。午後1時、単艦で大湊を出発し柱島(瀬戸内海西部)に向かった。だが午後7時45分の連絡を最後に、消息を絶つ。
6月25日、輸送船を護衛中の駆逐艦「羽風」(第34駆逐隊)が浮上中の潜水艦を発見し爆雷攻撃を実施。午前4時20分、羽風は1000m離れた地点に「山風」と思しき駆逐艦を発見し協同攻撃を依頼している。同日、東京湾沖でアメリカの潜水艦ノーチラスが「山風」に魚雷4本を発射、2本が命中して沈没した。浜中脩一艦長以下乗組員全員が戦死した(日本海軍の戦死認定は6月23日付)。アメリカ軍による沈没地点記録は北緯34度34分・東経140度26分。ノーチラスは沈没する山風の写真を撮影しており、一番砲塔に日の丸が描かれていることが確認できる。
本邦沿岸附近艦艇ト雖モ行動豫定ヲ所要ノ向ニ豫報シ且ツ見張ヲ嚴重ニセザレバ不覚ヲ取ルコトアリ
横須賀鎮守府は、山風の行方が大湊警備府にも横須賀鎮守府にも知られず、7月2日にようやく行方不明を感知したという「奇怪なる結果」を、戦時日誌に自ら記録している。
——自昭和十七年七月一日 至昭和十七年七月三十一日 横須賀鎮守府戦時日誌より。
日本海軍は7月上旬になって山風の行方不明に気づき、関東地方の航空隊が対潜哨戒を兼ねて捜索を実施したが、すでに手遅れだった。襟裳岬沖合でも兵員用の机らしき木片が見つかり、大湊防備隊から海防艦「八丈」等が調査のために出動している。7月14日、第24駆逐隊(海風・江風・涼風)は第二水雷戦隊に編入され、行方不明になっていた山風も書類上は同水雷戦隊に所属することになった。8月20日、山風は帝国駆逐艦籍・第24駆逐隊・白露型駆逐艦のそれぞれから除籍された——改白露型4隻の中で、最初の喪失艦となった。
さらにこの艦の最期を特異なものにしているのは、被害発生から発覚までの空白の時間だ。横須賀鎮守府自身が「奇怪なる結果」と記録したように、行動予定の報告と見張りの欠落が重なり、捜索が始まったのは沈没から1週間以上が経過した後だった。これは艦そのものの弱さではなく、戦時下の連絡体制が抱えていた構造的な脆さを示している。
山風が残したものは、戦果としての記録だけではない。日常的な航行の中にも潜む見えない危険と、それに気づくまでの空白がもたらす結果という、戦争という現実の別の側面を、この艦の最期は静かに物語っている。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書46『海上護衛戦』朝雲新聞社
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・木俣滋郎『潜水艦攻撃』図書出版社
- ・歴史群像編集部『真実の艦艇史2』学習研究社、2005年
- ・歴史群像編集部『水雷戦隊II』学習研究社、1998年
- ・雑誌「丸」編集部『写真太平洋戦争 第3巻』光人社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報・横須賀鎮守府戦時日誌
- ・Wikipedia「山風 (白露型駆逐艦)」「白露型駆逐艦」