白露型 · 5番艦(第2駆逐隊→第27駆逐隊司令艦)
HARUSAME 駆逐艦 春雨
一度限界まで壊れても、生き返った艦
1937年竣工、白露型駆逐艦5番艦。1943年1月、米潜水艦ワフーの雷撃で艦橋から前部を失う壊滅的損傷を受けながらも生還し、本格修理を経て第27駆逐隊司令艦として渾作戦に投入された。1944年6月、ビアク島輸送中にB-25爆撃機の空襲を受け戦没、第27駆逐隊司令・白浜政七大佐も戦死した。
SPECIFICATIONS
諸元データ
竣工時兵装基準・サマリー
艦型
白露型5番艦
建造所
舞鶴海軍工廠
基準排水量
1,685t
最大速力
34.0kt
主砲
12.7cm連装砲2基・
単装砲1基(計5門)
単装砲1基(計5門)
魚雷兵装
61cm4連装発射管2基
(計8射線)
(計8射線)
| 艦名 | 春雨(はるさめ) |
| 艦型・番艦 | 白露型(一等駆逐艦)5番艦 |
| 艦名の由来 | 春雨型駆逐艦「春雨」に続き2隻目(初代は1911年、三重県鳥羽市的矢湾で擱座沈没) |
| 建造所 | 舞鶴海軍工廠 |
| 起工日 | 1935年(昭和10年)2月3日 |
| 竣工日 | 1937年(昭和12年)8月26日(白露型の中では時雨の次に竣工が遅い、機関の諸問題が原因) |
| 除籍日 | 1944年(昭和19年)8月10日(第27駆逐隊から削除) |
| 類別 | 一等駆逐艦 |
| 全長 | 111.0m(白露型標準値) |
| 全幅 | 9.9m(白露型標準値) |
| 機関 | 艦本式タービン2基2軸、艦本式重油専焼缶3基、出力42,000馬力 |
| 速力 | 34.0kt(公試では35kt前後を発揮) |
| 航続距離 | 4,000海里/18kt(計画値、実績は5,000海里前後) |
| 乗員 | 226名(白露型標準値) |
| 主砲 | 50口径三年式12.7cm連装砲2基・単装砲1基:計5門(1943年修理時に2番砲塔撤去、25mm三連装機銃を増設) |
| 魚雷発射管 | 61cm4連装水上発射管:2基(計8射線、九〇式魚雷→開戦前に九三式酸素魚雷へ改造) |
| 艦橋(改修後) | 1943年の本格修理で白露型の角型艦橋から、夕雲型に近い形状へ交換 |
| 所属駆逐隊履歴 | 第2駆逐隊(村雨・夕立・五月雨、1937年〜1943年7月1日解隊)→予備艦籍(1943年7月〜11月)→第27駆逐隊(白露・時雨・五月雨、1943年11月30日〜) |
| 主要艦長履歴 | (艦長個別記録は資料限定的) |
| 最後の指揮官 | 第27駆逐隊司令・白浜政七大佐(戦没時座乗、戦死後少将に昇進) |
| 特記事項① | 1943年1月24日、米潜水艦ワフーの雷撃で艦橋から前部を喪失。応急修理・曳航を経て横須賀で本格修理を実施し復帰 |
| 特記事項② | 1944年6月8日、第二次渾作戦で司令駆逐艦として警戒隊(春雨・白露・五月雨)を指揮 |
| 最終結末 | 1944年6月8日12時20〜42分頃、ビアク島輸送船団の右側を航行中、米陸軍B-25爆撃機・P-38戦闘機の空襲を受け被弾沈没。第27駆逐隊司令・白浜政七大佐も戦死。生存者は士官4名・下士官兵79名(五月雨が救助) |
■ 白露型駆逐艦について
ロンドン海軍軍縮条約下に計画された初春型駆逐艦の後続艦として建造された一等駆逐艦。主要兵装と機関は初春型を踏襲したが、魚雷兵装は日本海軍初の四連装発射管を採用し、8射線を実現した。春雨は当初「有明型」5番艦として命名されたが、1934年の再編で白露型に類別された。竣工は白露型の中でも遅く、機関に関する諸問題が背景にあったとされる。
ロンドン海軍軍縮条約下に計画された初春型駆逐艦の後続艦として建造された一等駆逐艦。主要兵装と機関は初春型を踏襲したが、魚雷兵装は日本海軍初の四連装発射管を採用し、8射線を実現した。春雨は当初「有明型」5番艦として命名されたが、1934年の再編で白露型に類別された。竣工は白露型の中でも遅く、機関に関する諸問題が背景にあったとされる。
FULL TIMELINE
全戦歴タイムライン
竣工から戦没・除籍まで
1935年2月3日 — 起工
舞鶴海軍工廠で起工
- 1937年8月26日竣工。白露型の中では時雨の次に竣工が遅れた艦で、機関の諸問題が原因とされる。村雨・夕立・五月雨と共に第2駆逐隊に編成。
1940年〜1941年
第四水雷戦隊編入
- 第二艦隊・第四水雷戦隊(旗艦那珂)に編入。太平洋戦争開戦時、第2駆逐隊(村雨・夕立・春雨・五月雨)は引き続き四水戦所属。
1941年12月〜1942年2月
フィリピン・蘭印作戦
- 西村祥治少将(旗艦那珂)指揮下、ビガン攻略作戦、リンガエン湾上陸作戦、タラカン上陸作戦、バリックパパン攻略作戦(バリクパパン沖海戦)、スラバヤ沖海戦に参加。
1942年3月〜7月
比島保定作戦、ミッドウェー作戦、B作戦
- 3月、比島保定作戦。5〜6月、ミッドウェー作戦で近藤信竹中将(旗艦愛宕)指揮下の攻略部隊本隊に所属。7月、インド洋通商破壊作戦(B作戦)のためマレー半島へ進出。
1942年8月7日〜24日
B作戦中止、第二次ソロモン海戦
- ガダルカナル島の戦い開始によりトラック泊地へ移動。戦艦「陸奥」の護衛部隊として第二次ソロモン海戦に参加(村雨・春雨・五月雨の3隻)。
1942年10月2-6日 — ガダルカナル鼠輸送
輸送成功、僚艦損傷
- 10月2日、5隻でガ島輸送成功。10月5日、空襲で村雨・峯雲が損傷、春雨は朝雲・夕立と共に揚陸を完了。
1942年11月12日 — 第三次ソロモン海戦
僚艦夕立、単艦突入の末に戦没
- 四水戦(朝雲・村雨・五月雨・夕立・春雨)が戦艦比叡・霧島の護衛でアイアンボトム・サウンドへ進入。スコールで陣形が乱れ、夕立・春雨が前方に突出。米軍の誤判断で第一夜戦が生起。
- 春雨と分離後、単艦で米艦隊に突入した夕立は航行不能となり、五月雨に処分された後、米重巡の砲撃で沈没——第2駆逐隊初の戦没艦となった。
1943年1月24日
米潜水艦ワフーの雷撃、艦橋から前部喪失
- トラック・ウェワク間を基地員収容のため往復中、米ガトー級潜水艦「ワフー」に捕捉される。魚雷3本・続く1本を回避するが、3射目の魚雷2本のうち1本が一番砲直下付近に命中。
- ワフーは撃沈を確信したが、春雨は応急修理で沈没を免れウェワクへ帰投。その後「天津風」「浦風」に護衛されトラックへ曳航される途中、艦体が分断し艦橋から前部を完全に喪失。
- 工作艦「明石」での応急処置後、横須賀で本格的な修理を実施。
1943年3月5日(参考)
村雨、ビラ・スタンモーア夜戦で戦没
- 第2駆逐隊司令艦「村雨」が米艦隊のレーダー射撃を受け沈没。
1943年5月末〜7月1日
第2駆逐隊解隊、予備艦籍に
- 春雨は5月末に損傷のひどい状態で横須賀に帰港。村雨喪失・春雨長期修理により第2駆逐隊は7月1日解隊。五月雨は北方部隊編入、春雨はいったん予備艦籍となる。
1943年8月〜11月
横須賀で本格修理、艦橋交換
- 8月から11月まで修理。艦橋を白露型の角型から夕雲型に近い形状へ交換。2番砲塔を撤去し対空兵装強化のため25mm三連装機銃を設置。
- 11月30日、改初春型「有明」「夕暮」を喪失して時雨・白露の2隻となっていた第27駆逐隊(第二水雷戦隊)に編入。
1944年5月下旬
「あ号作戦」発動、第27駆逐隊4隻体制
- 各地に分散していた第27駆逐隊(時雨・白露・五月雨・春雨)が定数4隻体制で復帰。空母(隼鷹・飛鷹・龍鳳)護衛後、米艦隊に水上戦闘を挑む計画だったが、5月27日の米軍ビアク島上陸により急遽渾作戦に投入。
1944年6月2-7日 — 第一次渾作戦
誤報により中止
- 戦艦扶桑、第五戦隊(羽黒・妙高)、第16戦隊(青葉・鬼怒・第19駆逐隊)、第27駆逐隊(春雨・五月雨・白露・時雨)等がダバオを出発しビアク島へ向かう。6月3日、豊田副武連合艦隊司令長官から米軍機動部隊出現の誤報により一時中止命令。6月4日、再興命令。
1944年6月8日 午前3時 — 第二次渾作戦
司令駆逐艦として警戒隊を指揮
- 扶桑・青葉等を除外し駆逐艦6隻・人員600名でのビアク島輸送計画。第27駆逐隊はソロンで青葉・鬼怒と分離。陸軍部隊を載せた駆逐艦6隻(敷波・浦波・時雨・白露・五月雨・春雨)がソロンを出発。
- 輸送隊(敷波・浦波・時雨)と警戒隊(春雨・白露・五月雨)に分割、春雨は司令駆逐艦として警戒隊を指揮。
1944年6月8日 12時20分頃 — 戦没
B-25の超低空爆撃で被弾沈没
- 第19駆逐隊・第27駆逐隊がアメリカ陸軍B-25爆撃機・P-38戦闘機の襲撃を受ける。輸送隊3隻の前方に五月雨、左側に白露、右側に春雨が配置。
- 時雨・白露・五月雨の損傷は軽微だったが、春雨は被弾して沈没(時雨記録では12時32分、五月雨記録では12時42分)。第27駆逐隊司令・白浜政七大佐も戦死(戦死後少将昇進)。
- 米軍機撤退後、五月雨と白露が救助に向かい時雨が警戒。五月雨は内火艇で士官4名・下士官兵79名を救助。
- 第二次渾作戦部隊は輸送継続するが、夜間に米軍巡洋艦部隊に迎撃され撤退、ビアク島輸送は失敗。一連の戦闘で約50名が戦死。
1944年6月15日(参考)
僚艦白露も衝突事故で沈没
- 春雨の戦没から1週間後、白露が清洋丸との衝突事故で沈没。第27駆逐隊は2隻(時雨・五月雨)となる。
1944年8月10日 — 除籍
第27駆逐隊から削除
- 白露と共に第27駆逐隊から削除。白露型駆逐艦10隻のうち、この時点で残存していたのは時雨・五月雨のわずか2隻だった。
SUMMARY
まとめ
一度限界まで壊れても、生き返った艦
白露型5番艦・春雨は、1943年1月、米潜水艦ワフーの雷撃で艦橋から前部を完全に失うという、通常なら艦の終わりを意味する損害を受けながらも、応急修理と曳航の積み重ねによって本格的な修理を経て戦線に復帰した艦である。第2駆逐隊解隊・予備艦という一時的な後退を経てもなお、艦は最後まで戦い続けた。
しかし1944年6月、渾作戦という大規模な輸送任務の司令駆逐艦として指揮を執っていた春雨は、B-25の超低空爆撃によって最後を迎えた。司令・白浜政七大佐の戦死は、この艦が単なる一艦ではなく、作戦全体の指揮機能そのものを担っていたことを示している。
初代「春雨」と同じく艦尾を喪失して終わったこの艦の物語は、一度壊れても再生する艦の強さと、それでも避けられない戦争の結末という、両極にある事実を今に伝えている。
しかし1944年6月、渾作戦という大規模な輸送任務の司令駆逐艦として指揮を執っていた春雨は、B-25の超低空爆撃によって最後を迎えた。司令・白浜政七大佐の戦死は、この艦が単なる一艦ではなく、作戦全体の指揮機能そのものを担っていたことを示している。
初代「春雨」と同じく艦尾を喪失して終わったこの艦の物語は、一度壊れても再生する艦の強さと、それでも避けられない戦争の結末という、両極にある事実を今に伝えている。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦(2)
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報・各艦公文備考
- ・Wikipedia「春雨 (白露型駆逐艦)」「白露型駆逐艦」「春雨 (春雨型駆逐艦)」