平時に散った特型——開戦を見ることなく済州島沖に沈んだ「深雪」の5年間

「1929年6月29日に生まれ、1934年6月29日に沈んだ」——奇しくも同じ日付が刻まれた特型駆逐艦・深雪。太平洋戦争を前に平時で失われた特型24隻中唯一の艦の全記録。

TOKUGATA TYPE-I · 4TH SHIP · IJN DESTROYER
MIYUKI 深雪
吹雪型4番艦 / 特型駆逐艦 唯一の平時喪失艦

昭和9年(1934年)6月29日、午後5時59分——
済州島南方の海は濃霧と煙幕に覆われていた。
そこへ、白い波を切って「電」が煙幕の中から姿を現した。
回避する時間は、なかった。

奇しくもその日は、深雪が竣工してからちょうど5年目の記念日だった。
浦賀の海で生まれた俊英は、大東亜戦争の火蓋が切られることなく、
平時の蒼海に消えた——特型24隻の中で、ただ1隻

SHIP SPECIFICATIONS — 深雪
BUILT / LAID DOWN
浦賀船渠
1927年4月30日 起工
LAUNCH / COMMISSION
1928.6.26 進水
1929.6.29 竣工
FIRST CAPTAIN
加藤仁太郎 中佐
初代艤装員長
DISPLACEMENT / LENGTH
基準 1,680t
全長 118.5m
MAIN GUNS
12.7cm連装砲
3基6門
TORPEDOES
61cm3連装発射管
3基9射線
MAX SPEED
38ノット
50,000馬力
UNIT / FLEET
第11駆逐隊
第二水雷戦隊
FATE
1934.6.29 沈没
特型唯一の平時喪失艦
PROLOGUE // 革命の申し子として生まれた

1920年代の帝国海軍は、深刻なジレンマを抱えていた。ワシントン海軍軍縮条約(1922年)と続くロンドン条約(1930年)によって、主力艦の建造は厳しく制限された。しかし海軍は諦めなかった——「制限されない艦種で、制限された国力を突破する」。その答えが、特型駆逐艦だった。

基準排水量1,680トンという水雷艇条約の限界ギリギリに設計された大型艦体に、12.7cm連装砲3基6門・61cm3連装魚雷発射管3基という重武装を詰め込んだ。日本駆逐艦史上初の完全密閉式砲塔、高い乾舷による優れた凌波性——その性能は列強海軍を震撼させた。

■ 特型とは何か
吹雪型(Ⅰ型)・綾波型(Ⅱ型)・暁型(Ⅲ型)の3タイプ計24隻。それまでの日本駆逐艦が約900〜1,200トン級だったのに対し、特型は1,700トン近い大型設計。基本的な思想は「条約の隙間をついた非対称戦力」——小型艦に巨人の火力を載せた、帝国海軍の執念の結晶である。

深雪は特型Ⅰ型(吹雪型)の4番艦として、1927年4月30日、神奈川県横須賀市の浦賀船渠で起工した。翌28年6月26日に進水。1928年8月1日、「深雪」という名が与えられた。

しかし竣工への道は最初から波乱含みだった。1929年2月12日、東京湾での試運転中に伊号第二十四潜水艦と衝突。両舷スクリューが損傷し、竣工が2ヶ月延期された。初代艤装員長・加藤仁太郎中佐の指揮のもと、ようやく1929年6月29日に竣工した深雪は、吹雪白雪・初雪とともに第11駆逐隊を編成した。

BATTLE LOG // 深雪の全艦歴
■ 深雪 全艦歴ハイライト ■
1927.4.30:浦賀船渠にて起工(第三十八号駆逐艦)
1928.6.26:進水(午前11時30分)
1929.2.12:東京湾試運転中、伊号第二十四潜水艦と衝突・スクリュー損傷・竣工延期
1929.6.29:竣工。第11駆逐隊(第二艦隊第二水雷戦隊)に編入
1929.11.1:第11駆逐隊司令駆逐艦に指定
1929.8.2:山口県油谷湾で標的曳航中、流れ弾2発命中・小破(負傷者4名)
1930.12:南雲忠一大佐(後の真珠湾機動部隊司令長官)が第11駆逐隊司令に着任
1931.10:小沢治三郎大佐(後のレイテ沖機動部隊司令長官)が第11駆逐隊司令に交代
1931–32:呉工廠にて機関換装等の整備工事・第二予備艦指定
1934.4–6:呉海軍工廠にて入渠整備
1934.6.29済州島南方演習中、駆逐艦「電」と衝突。艦橋直下で船体断裂
1934.6.29 21:53沈没。死者3名・行方不明2名
1934.8.15:除籍。特型唯一の平時喪失艦として海軍史に刻まれる
EPISODE I // 煙幕の向こうから
1934年6月29日、済州島南方——連合艦隊第四回基本演習

昭和9年(1934年)6月末、連合艦隊は済州島南方沖において大規模な演習を実施していた。甲軍(連合艦隊司令長官末次信正中将:戦艦金剛を旗艦)と乙軍(第二艦隊司令長官高橋三吉中将:重巡鳥海を旗艦)に分かれ、戦艦・重巡・軽巡・駆逐艦・空母に至るまで数十隻が狭隘な海域に集結する壮大な演習だった。

問題は気象だった。視界は約10〜12キロメートル。南西の風、風力4メートル。濃霧と長濤が立ち込め、さらに両軍の飛行機が展開した煙幕が戦場中央に低く漂っていた。第二艦隊参謀・大西新蔵中佐は後に「演習条件に多少無理があった」と回想している。

■ 当日の危険な条件
濃霧のため空母赤城の艦上機5機が一時行方不明になるほどの悪視界。実戦さながらの夜間突撃訓練が組み込まれており、多数の艦が灯火を消した状態で高速機動していた。事後の査問会でも「視界狭少・大部隊の夜間突撃」という危険性が指摘されている。
■ 衝突の瞬間 — 1934年6月29日 ■
13:00
連合艦隊第四回基本演習開始
17:10
両軍先頭隊が視界に入り展開。主力砲戦開始。視界10km以下、濃霧と煙幕
17:55
第11駆逐隊、重巡高雄・愛宕に対し第二回雷撃を敢行。面舵で避退中に前方に煙幕発見
17:58
煙幕を避け転舵中、前方に友軍「衣笠」を確認し続行しようとした瞬間——
17:59
煙幕の中から「電」(第6駆逐隊)が針路交角約90度で出現。両舷機後進も間に合わず衝突。深雪の艦橋直下・46番ビーム付近で船体断裂。
18:30頃
軽巡「那珂」が横付し応急処置を試みるも浸水止まらず
夜間
第二水雷戦隊司令官が乗員退去命令。全員「那珂」へ移乗。軽傷者は戦艦「金剛」へ
21:53
深雪後部、急速に沈下し倒立・完全沈没。北緯32度51分 東経127度11分付近。
翌朝以降
初雪・叢雲が艦首の曳航を試みるも濃霧で見失い、翌日の捜索でも発見できず

「深雪」の後部船体は約4時間の格闘の後、海底へと沈んでいった。死者3名、行方不明2名(電乗組員1名を含む)。特型駆逐艦として初めての——そして最後まで唯一の——平時における喪失だった。

■ 衝突後の「電」の運命
深雪と衝突した「電」(艦長:平塚四郎中佐)も艦首部を失ったが、白雲・那珂に曳航されて7月1日午後3時に佐世保に帰投。呉工廠で約3ヶ月の修理を経て復帰した。「電」はその後太平洋戦争に参加し、スラバヤ沖海戦で英重巡エクセターの乗組員376名を救助するなど活躍、1944年に戦没している。
EPISODE II // 応急処置の失敗が遺したもの
救えた命——「乗員が自艦の構造を知らなかった」

艦艇研究家・福井静夫は後に明言している。「深雪喪失の直接の原因は、衝突ではなく応急処置の失敗にある」と。

衝突によって深雪の艦首は切断された。しかし後部船体の状況を分析すれば、理論上は沈没を防げた可能性があった。第一缶室こそ満水になったが、第二缶室はまだ健在だった。にもかかわらず乗組員たちは自艦の構造を正確に把握しておらず、本来補強すべき第二缶室の隔壁ではなく別の場所を補強してしまった。浸水は進み、沈没は止められなかった。

■ 「月月火水木金金」の死角
帝国海軍の猛訓練は、砲術・水雷・航海技術の習熟に特化していた。しかし「損傷した艦を生かし続ける」応急処置については、体系的な教育が整っていなかった。この欠陥が、深雪の沈没という形で露わになった。
■ 深雪が遺した「改革の連鎖」 ■
1934年
深雪沈没を受け、海軍は応急処置教育の抜本的見直しに着手。海軍航海学校の教育課程で重視
1934年3月
(同年3月)友鶴事件——水雷艇友鶴の転覆が特型を含む復元性問題を浮き彫りにする
1935年
第四艦隊事件——台風による艦首折損問題が続発。「艦の頑丈さ」への再検証が続く
以後
適切な応急処置によって沈没を免れた艦が続出。深雪の犠牲が、多くの艦と乗組員の命を救った。
「もっと早く『日向』位が横抱きすればよかった」
——高松宮宣仁親王日記 第二巻(1934年6月29日)
EPISODE III // 6月29日という符号
生誕と死——同じ日に刻まれた運命

1929年6月29日——深雪は浦賀の海で竣工した。
1934年6月29日——深雪は済州島南方の海に沈んだ。

ちょうど5年目の記念日に、深雪は自らの誕生日を喪失日として刻んだ。戦争が始まる前に。敵の砲弾を受けることなく。僚艦との衝突という、あまりにも不条理な形で。

■ 「特型24隻中、唯一の平時喪失」という意味
吹雪型(Ⅰ型)10隻、綾波型(Ⅱ型)10隻、暁型(Ⅲ型)4隻——計24隻の特型駆逐艦のうち、太平洋戦争開戦前に失われたのは深雪だけ。他の23隻はいずれも1941年12月以降の実戦で戦没、または終戦まで生き延びた。深雪だけが、戦争を知らずに逝った。
■ 深雪が見知った提督たち ■
1930年
南雲忠一大佐が第11駆逐隊司令に就任——後の真珠湾攻撃・機動部隊司令長官
1931年
小沢治三郎大佐が第11駆逐隊司令に交代——後のレイテ沖海戦・機動部隊最後の司令長官
1929年
初代艦長・加藤仁太郎中佐——後に第11駆逐隊司令として深雪の指揮に再び関わる
ANALYSIS // 猫工艦の考察

深雪の本質は、「犠牲によって次世代を救った艦」にある。華々しい戦績はない。激戦の海で姉妹艦と共に散った記録もない。あるのは、平時の演習という場での、静かな喪失だ——しかしその喪失が、後の太平洋戦争で多くの艦と乗組員の命を守る「礎」となった。

しかし同時に問わねばならない。あの事故は、本当に避けられなかったのか。「月月火水木金金」と称された猛訓練は、砲撃精度と魚雷命中率を限界まで高めた。だがそれは、「壊れた艦を生かし続ける技術」への投資を後回しにした訓練体系でもあった。深雪の沈没は、乗組員の失敗ではなく、組織の設計ミスが生んだ悲劇だと言える。

「開戦の号砲を聴かずに逝った深雪」——その静けさの中に、帝国海軍が抱えていた矛盾の種が眠っている。世界を震撼させた革新の申し子が、自らの構造的欠陥によって平時に失われた。その重さを、私たちはもう少し噛みしめる必要がある。

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■ 参考文献・資料

  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書 各該当巻 / 朝雲新聞社
  • ・アジア歴史資料センター(JACAR)深雪・電衝突関係公文 Ref.C05023975100〜975600
  • ・福井静夫『日本駆逐艦物語』第5巻 / 光人社(pp.125-127)
  • ・雑誌『丸』編集部編『写真 日本の軍艦』第10巻 / 光人社
  • ・高松宮宣仁親王日記 第二巻 / 中央公論社(1995年)
  • ・大西新蔵『海軍生活放談 日記と共に六十五年』/ 原書房(1979年)
  • ・外山操『艦長たちの軍艦史』/ 光人社(2005年)
  • ・Wikipedia「深雪(駆逐艦)」

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