1944年(昭和19年)7月7日午後4時14分——オホーツク海、択捉島近海。 小樽を出港したキ504船団の護衛にあたっていた駆逐艦「薄雲」に、米潜水艦「スケート」の魚雷が命中した。 若杉次一艦長以下267名が還らなかった。 南方の熱狂を一度も知らず、北の海で静かに戦い続けた特型駆逐艦が、その航跡の最後に辿り着いた場所だった。
駆逐艦「薄雲(うすぐも)」は、吹雪型駆逐艦7番艦にして「雲級」の一艦である。 1926年(大正15年)10月21日、石川島造船所(東京)で起工。1928年(昭和3年)7月26日に竣工し、東雲・白雲と共に第12駆逐隊を編成した。 1940年8月、日中戦争下の華南で自軍が敷設した機雷に触雷して大破——太平洋戦争開戦時、薄雲は舞鶴のドックの底にいた。姉妹艦たちが緒戦の快進撃を支える中、修理を続けるしかなかった。
1942年7月、ようやく復帰した薄雲を待っていたのは、南方の戦場ではなく、千島列島・アリューシャン方面の極寒の海だった。 アッツ島沖海戦への参加、キスカ島撤退作戦での478名の同胞救出、そして最後の船団護衛任務——熱帯を知らずに北洋を駆け続けた特型駆逐艦の、不屈の航跡をここに語り起こす。
吹雪型5〜8番艦(叢雲・東雲・薄雲・白雲)は「雲級」と呼ばれた。薄雲はその3番艦として1928年に竣工し、東雲・白雲と第12駆逐隊を編成。1929年に叢雲が加わり雲級4隻が揃った。 1935年には満州国皇帝・溥儀の来日に際し、第12駆逐隊(叢雲・薄雲・白雲)が御召艦「比叡」の供奉艦に指定される栄誉も得た。
転機は1940年8月15日に訪れた。日中戦争下、莆田市の興化湾・南日水道での大陸沿岸部封鎖作戦中——掃蕩戦を終えた「叢雲」は満潮を待って湾内に停泊していたが、薄雲は「お先に」の信号を残して単艦で出港した。 その直後、薄雲は日本軍自身が敷設した機雷に触雷。大破した薄雲を、見送ったはずの「叢雲」が台湾まで曳航することになった。
内地へ帰投し10月11日に呉到着。第12駆逐隊から除籍され、舞鶴で長期修理に入った。 1941年9月の内示では、薄雲は「白雲」と第51駆逐隊を編成し、空母「赤城」「加賀」と第五航空戦隊を組む予定だった——しかし太平洋戦争の開戦により、この編制は実現しなかった。 真珠湾攻撃の日、薄雲は舞鶴のドックでまだ修理中だった。
1943年3月27日午前2時、コマンドルスキー諸島南方海域——アッツ島への輸送任務で第二護衛部隊(薄雲・三興丸)として行動していた薄雲のそばを、北方部隊主隊(重巡那智・摩耶、駆逐艦若葉・初霜)が航行していた。 そこにチャールズ・マクモリス少将率いる米艦隊(重巡1・軽巡1・駆逐艦4)が接近した。単縦陣最後尾の駆逐艦「電」が「敵見ゆ」を報じたが、軽巡「阿武隈」は「三興丸、薄雲発見」と報告——米艦隊を「薄雲」と誤認したのである。
この誤認は第五艦隊関係者の判断の余裕を奪い、その後の戦闘に大きな影響を与えたとされる。 午前3時55分、薄雲自身も190度方向に戦闘煙を発見。輸送船「三興丸」を西方に退避させると、戦闘参加のため南下を開始した。 しかし北方部隊指揮官は6時3分に「薄雲」と「浅香丸」へ幌筵帰投を命令、7時25分には改めて船団護衛と帰投を命じた。海戦は日米双方が決定的戦果をあげないまま7時30分に終了。薄雲は3月29日に幌筵へ帰投した。
「薄雲」と米艦隊の誤認は、北方の悪天候・濃霧という環境要因が日本側の状況認識を著しく困難にしていたことを示している。この種の誤認は北方戦線で繰り返し発生し、後の対潜戦・船団護衛の困難さにも直結した。
アッツ島守備隊の玉砕後、日本軍はキスカ島からの撤退を決定した(ケ号作戦)。潜水艦による第一期撤収は損害が大きく中止——水上部隊による第二期撤収作戦に望みが託された。 7月22日、収容隊(阿武隈・木曾・響・朝雲・薄雲・秋雲・夕雲・風雲ほか)が幌筵を出撃。第一期第一次撤収作戦(7月7日〜15日)は連合軍との接触はなかったものの中止に終わり、薄雲を含む各艦は一旦幌筵へ帰投していた。
そして7月22日からの第二期第二次撤収作戦——濃霧を利用した奇襲が功を奏した。7月26日には濃霧の中で衝突事故も起きたが、連合国軍との遭遇はなし。 7月29日、撤収部隊はキスカ島に突入。第一輸送隊(阿武隈・秋雲・夕雲・風雲)・第二輸送隊(木曾・朝雲・薄雲・響)ともにキスカ将兵の撤収に成功した。 撤収人員は海軍2,518名・陸軍2,669名・遺骨30柱、合計5,183名(または5,187名)——薄雲はそのうち478名を収容した。
1944年3月16日深夜、得撫島に向かう途中の愛冠岬60キロ沖——薄雲・白雲・霞の第9駆逐隊(旧吹雪型2隻+陽炎型)が輸送船4隻を護衛していたところ、米潜水艦「トートグ」(USS Tautog SS-199)の襲撃を受けた。 被雷した「白雲」は轟沈し、艦長以下全乗組員が戦死。輸送船「日連丸」も撃沈された。「霞」が敵潜制圧を実施し、薄雲は残りの船団を護衛して釧路に退避した。
「白雲」の喪失からわずか4ヶ月後——1944年7月5日、第7駆逐隊(曙・潮)と薄雲、輸送船4隻からなる「キ504船団」が小樽港を出発した。 7月7日午後4時14分、オホーツク海を航行中の船団は米潜水艦「スケート」(USS Skate SS-305)の襲撃を受けた。魚雷が薄雲に命中し、艦は沈没した。 若杉次一艦長(戦死後に海軍中佐へ進級)を含め、薄雲乗組員267名が戦死した。「潮」でも下士官1名が戦死している。
戦前の宣伝とは裏腹に、日本海軍の対潜兵器と対潜戦術は問題を抱えていた。さらに北方の悪天候と低水温が、潜水艦の捜索や沈没艦生存者の救助を困難にした。薄雲・白雲という同型艦が、わずか4ヶ月のうちに同じ米潜水艦群の活動海域で次々と失われたことは、北方海域における対潜戦の構造的な限界を示している。
「薄雲」の本質は、特型駆逐艦が経験した戦争の「もう一つの顔」にある。緒戦の快進撃にも参加できず、開戦時はドックの底にいた。復帰後に与えられた任地は、熱帯の南方ではなく凍てつく北洋だった。そこで戦われたのは華々しい艦隊決戦ではなく、誤認・濃霧・船団護衛という、地味で消耗する日々の積み重ねだった。
しかし、その「地味さ」の中に「薄雲」最大の功績がある——キスカ島で478名の同胞を救い出したという事実だ。アッツ島の悲劇を知った後、誰一人取り残さずに撤退を成功させたこの作戦に、薄雲は確かに参加していた。誤認と混乱の連続だった北方戦線において、それは紛れもない成功だった。
僚艦「白雲」を喪った4ヶ月後、薄雲自身も同じ海域で沈んだ。267名という重い戦死者数は、自軍の機雷で大破した艦が、最後まで「護る」任務を全うし続けたことの代償でもあった。南洋の熱狂を知らず、北方の凍てつく霧に閉ざされた孤独な航跡——それでも薄雲は、その不屈の精神を最後まで失わなかった。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第29巻 北東方面海軍作戦』朝雲新聞社、1969年
- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第44巻 海軍捷号作戦(2)』朝雲新聞社、1971年
- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第39巻 大本営海軍部・連合艦隊(3)』朝雲新聞社、1970年
- ・市川多嘉夫『キスカ』光人社、1983年
- ・生出寿『戦場の将器 木村昌福』光人社、1997年
- ・重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦』潮書房光人社、2014年(ISBN 978-4-7698-1577-8)
- ・歴史群像編集部『歴群57 艦載兵装の変遷』学習研究社、2007年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年(ISBN 4-7698-1246-9)
- ・Wikipedia「薄雲(吹雪型駆逐艦)」「アッツ島沖海戦」「キスカ島撤退作戦」
- ・片桐大自『帝国海軍全艦艇史』ベストセラーズ
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