1942年(昭和17年)10月12日、夜明け——サボ島北方。 古鷹の乗員捜索を命じられた「叢雲」と「白雪」は、すでに夜が明けかけたヘンダーソン飛行場の空襲圏内で、なおも浮遊物を探し続けていた。 直後、米軍機の爆撃が始まった。叢雪は艦尾に被弾してスクリューを喪失し、続いて一番砲塔・魚雷発射管への直撃弾で上部構造物を破壊されて戦闘不能に陥った。
駆逐艦「叢雲(むらくも)」は、吹雪型駆逐艦5番艦にして「雲級(叢雲・東雲・薄雲・白雲)」の筆頭艦である。 1927年(昭和2年)4月25日、藤永田造船所(大阪)で起工。1928年(昭和3年)9月27日に進水し、1929年(昭和4年)5月10日に竣工した。 第12駆逐隊(叢雲・東雲・薄雲・白雲)として第二水雷戦隊・第三水雷戦隊に編入され、マレー作戦・蘭印作戦・バタビア沖海戦・ミッドウェー・ガダルカナルと転戦し続けた。
この記事には、三つの際立った場面がある——バタビア沖海戦で砲術長が「軍刀を持って艦橋に立つ」東艦長のもと敵艦撃沈に貢献した誇りの瞬間。ガダルカナルの制空権なき海域での消耗する輸送任務の日々。そして最期——大破炎上して動けなくなった艦を離れようとしなかった東日出夫艦長と、「白雪」の菅原六郎艦長が説得に赴いて「泣きながら謝罪する」東を連れ帰った後、自らの手で処分した姉妹艦との別れ。 特型駆逐艦5番艦・叢雲の全記録を、今ここに語り起こす。
吹雪型(特型)の5〜8番艦は、艦名に「雲」の字を持つことから「雲級」と呼ばれた。叢雲(5番)・東雲(6番)・薄雲(7番)・白雲(8番)の4隻で構成され、第12駆逐隊として第二水雷戦隊に編入された。 「叢雲」の名は帝国海軍で2代目にあたる(初代は日露戦争で活躍した東雲型駆逐艦の叢雲)。 1929年5月10日の竣工後、豊後水道での演習中(1929年7月9日)に駆逐艦「望月」と衝突して乗員1名が死亡するという不運な船出から始まったが、以降は水雷戦隊の精鋭として着実に艦歴を積み重ねた。
1935年には満州国皇帝・溥儀の来日にあたり、第12駆逐隊(叢雲・薄雲・白雲)が戦艦「比叡」の供奉艦に指定されるという栄誉も得た。 しかし太平洋戦争開戦直後の1941年12月17日、僚艦「東雲」がボルネオ攻略中にオランダ軍飛行艇の空襲で沈没。第12駆逐隊は「叢雲」と「白雲」の2隻体制となった。そして1942年3月10日、蘭印作戦後の編制変更で白雲が第20駆逐隊に転じ、叢雲は第11駆逐隊(初雪・白雪・吹雪)に単独で編入——雲級の絆はここで完全に解かれた。
第11駆逐隊(初雪・白雪・吹雪)はネームシップ「吹雪」を含む特型の主力部隊。叢雲はここに4番艦として加わり、以降の鼠輸送・サボ島沖海戦まで行動を共にした。吹雪が沈没したサボ島沖海戦でも、叢雲は同一部隊の一艦として夜明けを迎え、最終的に白雪の手で処分されることになる。
1942年3月1日深夜——スンダ海峡のバンタム湾。 米重巡洋艦「ヒューストン」と豪軽巡洋艦「パース」が輸送船団の阻止を試みる中、「叢雲」は第五水雷戦隊・重巡三隈・最上、第11駆逐隊(初雪・白雪・吹雪)、敷波らと共に包囲網を構成した。
この夜、東日出夫少佐艦長は軍装を整え、軍刀を手にして艦橋に立ち指揮を執った。乗員の士気は最高潮に達し、叢雲は砲撃と雷撃で両艦の撃沈に貢献した。 戦闘後の午前3時30分、叢雲はソワートウェー島西方でオランダ海軍駆逐艦「エヴェルツェン」を発見して砲撃、セブク島に座礁させた。翌朝、叢雲は装載艇を派遣して無人のエヴェルツェン艦内を調査——ビールやジャガイモを発見して食卓に供したというエピソードも伝わっている。
バタビア沖海戦では日本艦隊の友軍誤射が頻発した。複数の艦が混戦の中で誤って日本軍輸送船に魚雷を命中させ、神州丸以下が沈没・大破した。叢雲(0時44分発射)も魚雷を放っているが、日本海軍の調査では友軍への被害の主因は重巡「最上」の魚雷と判明している。栄光の戦果の裏にこの混乱があったことは歴史的事実として記録されている。
1942年8月以降、「叢雲」はガダルカナル攻防戦に深く関わることになった。 8月28日には呉鎮守府第三特別陸戦隊約770名を輸送してミルン湾ラビ東方への揚陸に成功。9月4日には夕立・初雪とともに駆逐艦6隻でルンガ泊地に突入し飛行場砲撃を実施、米駆逐艦(高速輸送艦)グレゴリーとリトルを撃沈した。
9月以降は毎週のようにショートランドとガ島を往復した。9月7日には揚陸後、ガ島第十三設営隊長から陸軍舟艇機動隊の窮状を聞き、第八艦隊が対応に追われた。9月10〜11日には遭難した川口支隊の舟艇を捜索・収容してカミンボへ揚陸。9月14日には白雪・浦波・敷波らと協同で揚陸作戦を実施。9月18日にはガ島砲撃も担った。
10月に入ってからも鼠輸送は続いた。10月1日・4日・7日と連続してガ島輸送に参加。そして10月11日——日進・千歳を護衛してガダルカナル島への輸送作戦を実施した当夜、サボ島沖で「吹雪」「古鷹」「夏雲」が相次いで沈没するという惨事が起きた。
サボ島沖海戦の夜が明けた10月12日早朝——「叢雲」と「白雪」は第三水雷戦隊から「古鷹乗員の救援」を命じられ、ヘンダーソン飛行場の空襲圏内に踏み込んだ。古鷹も古鷹乗員も見つからないまま夜が明け、米軍機の空襲が始まった。 「叢雲」は艦尾に被弾してスクリューを喪失、続いて一番砲塔・魚雷発射管への直撃弾で上部構造物を破壊され、航行不能・戦闘不能となった。
「初雪」が先に到着して本多敏治水雷長以外の乗員を収容し退避。その後「朝雲」「夏雲」が到着したが夏雲は空襲で沈没、朝雲が乗員を収容して退避した。 正午頃、川内・秋月・綾波が叢雲の救援に向かい、16時40分に朝雲・白雪と合流。日没後に炎上する「叢雲」を発見した。
第11駆逐隊司令・杉野修一大佐が「叢雲」に総員退去を命令した。しかし東日出夫艦長は艦を離れようとしなかった。 「白雪」の菅原六郎艦長が艦橋に乗り込んで説得に赴いた。菅原の説得に東はついに折れ、東は連れ帰られた。そのとき東は杉野の手を握りしめて泣きながら謝罪していたという——目撃者の証言として戦後に語り継がれた場面だった。
その後、白雪と朝雲は炎上し艦尾が切断された「叢雲」の曳航を断念。「白雪」が魚雷を撃ち込んで雷撃処分した。 沈没地点:南緯8度40分 東経159度20分。1942年11月15日付で除籍。
「白雪ノ菅原艦長ガ説得ニ赴キ、東ヲ連レ帰ッタ。東ハ杉野ノ手ヲ握リシメテ泣キナガラ謝罪シテイタトイウ」
——1942年10月12日夜、「叢雲」処分前後の目撃証言
(佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争』・藤原盛宏証言録より)
叢雲沈没後、一命を保った東日出夫少佐はその後も帝国海軍に身を置いた。駆逐艦「親潮」艦長・「花月」艦長を歴任し、終戦後は不沈艦「雪風」の艦長として復員業務に従事した。引き揚げ者を内地に届けるという最後の任務において、その名が歴史に刻まれた。
「叢雲」の本質は、制空権なき海域を昼間に航行することが水上艦艇にとって何を意味するかを、一点の曖昧さもなく体現した艦にある。サボ島沖海戦での混乱の後、夜明けを跨いで古鷹乗員を捜索し続けた「叢雲」の行動は命令に忠実だったが、その結果は一機の爆撃機で無力化されるという現実を示した。1942年のガダルカナル周辺海域において、水上艦艇の優位は夜間のみに限られていた。
しかし、この記録で最も印象に残るのは技術的な教訓ではなく、東日出夫艦長の「艦と共に死のうとした」という行動と、菅原艦長の説得に応じて泣きながら謝罪した姿だ。命令に従って艦を捨てることが、艦長としての誇りと相克した瞬間——それを目撃した証言者たちが後世に語り残した。叢雲の名は戦史の表舞台には出てこないが、その最期の場面だけで十分に戦争の現実を伝えている。
叢雲が「白雪」の魚雷で処分された後、東は「雪風」の艦長として戦後の復員業務に就いた。帝国海軍最強の幸運艦と呼ばれた艦に、この消耗戦を生き抜いた艦長が乗り込んだという事実は、ひとつの戦争が残した人間の連続性を静かに示している。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年
- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第83巻 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収まで』朝雲新聞社
- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第49巻 南東方面海軍作戦(1)ガ島奪還作戦開始まで』朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報各号
- ・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争——34人の艦長が語った勇者の条件』光人社NF文庫、1993年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年(ISBN 4-7698-1246-9)
- ・五月会『波濤と流雲と青春と——第二期二年現役海軍主計課士官 四十周年記念文集』朝雲新聞社、1980年
- ・志賀博(天霧先任将校)『海軍兵科将校』光人社、1985年(叢雲のバタビア沖・東雲沈没の直接証言)
- ・Wikipedia「叢雲(吹雪型駆逐艦)」「サボ島沖海戦」「バタビア沖海戦」
- ・連合艦隊軍艦銘銘伝(各種資料)
- ・JACAR(アジア歴史資料センター)
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