日本海軍重巡洋艦は、ワシントン・ロンドン軍縮条約という「枷」の中で、いかに強い艦を造るかという 挑戦の連続として発展した艦種だ。古鷹型・青葉型・妙高型・高雄型・最上型・利根型——全6クラスの 設計思想・基本諸元・系譜上の位置づけを、japanese-warship.com・Wikipedia等の検証資料に基づき完全解説する。
日本海軍重巡洋艦の系譜は、「軍縮条約の制限内で最大の戦闘力を発揮する」という一貫した課題への挑戦の歴史だ。下表は主要6クラスの基本データを竣工順に並べたものである。
| クラス | 竣工年 | 隻数 | 基準排水量 | 速力 | 主砲 | 魚雷発射管 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| ★古鷹型 | 1926-1927 | 2 | 7,100 t | 34.5 kt | 20cm単装×6 | 61cm連装×4(8射線) |
| 青葉型 | 1927 | 2 | 7,100 t | 33.4 kt | 20.3cm連装×3(6門) | 61cm連装×4(8射線) |
| ★妙高型 | 1928-1929 | 4 | 10,000 t | 35.5 kt | 20.3cm連装×5(10門) | 61cm連装×4(8射線) |
| 高雄型 | 1932 | 4 | 10,000 t | 35.5 kt | 20.3cm連装×5(10門) | 61cm連装×4(8射線) |
| ★最上型 | 1935-1937 | 4 | 8,500 t | 37.0 kt | 20.3cm連装×5(10門) | 61cm3連装×4(12射線) |
| ★利根型 | 1938-1939 | 2 | 11,213 t | 35.0 kt | 20.3cm連装×4(8門) | 61cm3連装×4(12射線) |
平賀譲造船官が、軽量化重武装の試作艦「夕張」の設計思想を引き継いで設計した7,100t級巡洋艦。米オマハ級軽巡洋艦(15.2cm砲12門)に対抗するため、当初14cm砲搭載を予定していたが、1922年のワシントン軍縮条約で巡洋艦の定義(排水量10,000t以下・砲口径8インチ以下)が定まったことを受け、主砲を20cm単装砲6基6門へ変更——この排水量での重武装は世界の海軍に衝撃を与えた。当初は人力装填の単装砲だったため発射速度に課題があり、後の近代化改装で20.3cm連装砲3基6門・61cm4連装魚雷発射管2基8門へ大幅換装された。1番艦「古鷹」は1942年10月のサボ島沖海戦で戦没。
古鷹型の主砲が半人力装填で発射速度に劣るという欠点を解消するため、20.3cm連装砲3基6門へ改設計した艦型。基本設計は古鷹型と共通だが、竣工時から水上機用カタパルトを装備し索敵能力を強化した点が異なる。連装砲化で主砲の散布界が広がる問題が生じたが、発射タイミングを0.3秒ずらすことで解消した。「青葉」は太平洋戦争を通じてほぼ毎年大破するという過酷な戦歴(1942年サボ島沖・1943年B-17爆撃・1944年潜水艦雷撃・1945年空襲)を重ねながらも終戦まで生存し、姉妹艦「衣笠」は1942年11月の第三次ソロモン海戦で戦没した。
ワシントン条約の上限である基準排水量10,000tを最大限に活用した最初の艦型。軍令部の要求は20.3cm砲8門・61cm魚雷8門・速力35.5ノットだったが、設計主任の平賀譲は魚雷兵装の脆弱性を懸念し、魚雷全廃案と引き換えに主砲10門艦への試案を提出——これが採用され、当時世界最強クラスの攻撃力を持つ重巡洋艦が誕生した。竣工時は世界の海軍関係者を驚かせ、英国は「図面を渡せば留学を継続させる」と要求したが日本は拒否し留学先をフランスへ変更したという逸話も残る。1番艦「妙高」はスラバヤ沖海戦で活躍し終戦時シンガポールで残存、4隻中2隻が戦没した。
妙高型の設計を平賀譲から引き継いだ藤本喜久雄造船大佐が担当した重巡。攻撃力・防御力は妙高型を維持しつつ、4隻全艦に平時の艦隊旗艦施設を装備した点が最大の特徴だ。少ない戦艦の代わりに重巡戦隊を艦隊主力に据える構想があったとみられる。司令部要員約100名を収容するため通信設備・作戦室・居住区を増設し、結果として艦橋は妙高型より一回りも二回りも大型化した。弾火薬庫の装甲も妙高型より1cm厚い12.7cmとなり、防御力は世界トップクラスに達した。「高雄」「愛宕」は1939年改装で魚雷発射管を4連装4基・九三式魚雷24本に強化。4隻中3隻が戦没、「高雄」は終戦時シンガポールで残存し英海軍により処分された。
ロンドン軍縮条約(1930年)で重巡洋艦の保有が制限される中、日本は「軽巡洋艦」枠を使って事実上の重巡を建造するという逆転の発想を採った。条約上の口径制限15.5cm以下に収まる15.5cm3連装砲5基15門を搭載する条約型軽巡として計画され、1935〜37年に竣工。電気溶接を多用した軽量化設計だったが、当時の日本の溶接技術が未熟だったため公試で船体強度の欠陥が判明し、「鈴谷」では建造方法を変更する事態になった。条約失効後の1939〜40年、主砲を20.3cm連装砲5基10門に換装し正式に重巡洋艦となった——「軽巡として生まれ、重巡として死んだ」唯一のクラスである。4隻全てが戦没。なお「最上」は後に航空巡洋艦へ改装された。
最上型をベースに、空母直衛での水上偵察機運用能力(米巡洋艦の4機を上回る6機搭載)を重視して設計された艦型。最大の特徴は20.3cm連装主砲塔4基8門を艦首に集中配置し、後部(後檣より後ろ全て)を航空兵装に充てたことだ。これにより主砲発射時の爆風で艦載機が破損する事故(妙高・高雄で発生)を解消し、常時全主砲を発射できるようになった。当初は最上型と同じ15.5cm砲搭載の軽巡として諸外国に通告(基準排水量8,636t)されたが、1936年の条約脱退後に20.3cm砲へ設計変更され重巡として竣工。防御は日本重巡中最も優れ、インターナル・アーマー方式・複層型液層防御という最新設計を採用。福井静夫は本型を「理想に近い巡洋艦」と評した。真珠湾攻撃・ミッドウェー海戦で機動部隊の索敵を担い、結果として日本海軍最後の新造重巡となった。2隻とも戦没。
重巡洋艦6クラスを通して見えるのは、「軍縮条約という制約こそが日本独自の設計を生んだ」という逆説だ。古鷹型の20cm単装砲6基は、排水量制限の中で最大の攻撃力を追求した結果生まれた。妙高型の主砲10門は、平賀譲が魚雷を犠牲にしてでも砲力を優先するという大胆な判断の産物だった。そして最上型・利根型に至っては、「軽巡」という分類そのものを利用して事実上の重巡を建造するという、条約の文言の隙間を突く発想が用いられている。
特に利根型の「主砲を前部に集中配置し、後部を航空兵装に充てる」という設計は、世界的にも類例の少ない独創的な解だ。これは単なる思いつきではなく、妙高・高雄で実際に発生した「主砲爆風による艦載機破損」という戦訓から生まれた、現実の問題への合理的な回答だった。
しかし12隻という保有数の限界、そして条約失効後も新造重巡が利根型2隻で打ち止めとなった事実は、「独創性で量の不足を補う」という日本海軍の基本戦略そのものの限界をも示している。猫工艦はこの6クラスの系譜を、技術的な創意工夫の記録としてだけでなく、「制約の中でどこまで知恵を尽くせるか」という挑戦の歴史として読む。
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「6つの系譜、条約への挑戦の誇りを、その身に纏え。」
SHOP を見る →・japanese-warship.com「妙高型重巡洋艦」「高雄型重巡洋艦」「最上型重巡洋艦」各記事
・日本海軍艦艇入門「高雄型」(nihonkaigun.ikaduchi.com)
・君は「アニメンタリー決断」を知っているか「利根型重巡洋艦」(decision1971.starfree.jp)
・『丸』編集部編「写真 日本の軍艦 第6巻 重巡II」光人社、1989年
・「歴史群像」編集部「重巡古鷹・青葉型」「世界の重巡洋艦パーフェクトガイド」学習研究社
・防衛省防衛研究所 戦史叢書 各巻 朝雲新聞社
・片桐大自『帝国海軍全艦艇史』ベストセラーズ
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