1941年(昭和16年)12月17日午前8時50分——ボルネオ島北方、バラム灯台の北約15キロ。 ミリ沖のセリア方面での任務を第7号駆潜艇に交代した「東雲」は、午前8時15分に単独でルトンへ向かった。 その直後——白雲がミリ沖の警戒位置から、「バラム灯台の北方15キロに、音響と共に白煙が天に冲するのを目撃した」。午前9時頃、叢雲が「飛行艇と交戦中」という発信者不明の電信を受信した。
それ以後、「東雲」の消息は途絶えた。 第7号駆潜艇が午前11時と午後0時15分に周辺海域を調査したが何も発見できず。午後に神川丸の水上偵察機と「叢雲」が捜索し、バラム灯台北15キロに沢庵樽と重油を発見した。 第二護衛隊は「東雲ノ遭難ハ確実ナリ」と報告した——笹川博艦長以下228名が还らなかった。
駆逐艦「東雲(しののめ)」は、吹雪型駆逐艦6番艦にして「雲級(叢雲・東雲・薄雲・白雲)」の2番艦である。1926年(大正15年)8月12日、佐世保海軍工廠で起工。1928年(昭和3年)7月25日に竣工した。 開戦から僅か9日——真珠湾の戦果に日本中が沸き立つ中、「東雲」はひっそりとボルネオの海に消えた。特型24隻の中で最も早く太平洋戦争の海に沈んだ艦として、その最期は現代まで複数の謎を残している。
吹雪型5〜8番艦(叢雲・東雲・薄雲・白雲)は、艦名に「雲」の字を持つことから「雲級」と呼ばれた。東雲はその2番艦として1926年8月12日に佐世保海軍工廠で起工し、1928年7月25日に竣工。叢雲・薄雲・白雲とともに第12駆逐隊を編成した。
開戦前の13年間、東雲は第12駆逐隊・第20駆逐隊の間を転々としながら、第二水雷戦隊・第三水雷戦隊・第二航空戦隊・第二遣支艦隊と変遷する上位部隊と共に演習・日中戦争・北部仏印進駐作戦に従事した。 1941年9月には叢雲と東雲が次年度に空母「蒼龍」「飛龍」と第二航空戦隊を組む内示を受けていたが——太平洋戦争の開戦によってその予定は実現しなかった。
東雲の太平洋戦争は9日間しか続かなかった。その短い時間の中に、マレー半島への陸兵上陸支援・コタバル突撃・ボルネオ攻略部隊への移行という連続した作戦行動が詰め込まれていた。
1941年11月20日、第三水雷戦隊の艦隊は呉を出港した。海南島・三亜港に集結した第25軍(山下奉文中将・作戦主任参謀辻政信中佐)の輸送船団に合流し、東雲は叢雲と共に三亜港の湾外哨戒任務に従事した。 12月4日、南遣艦隊主力と輸送船団は三亜を出撃してマレー半島へ向かった。
12月7日午後10時、東雲など第12駆逐隊と安藤支隊(歩兵第42連隊)を乗せた輸送船6隻がパタニ・ターペ方面に向かい、山下中将ら第5師団主力の輸送船団と分離した。 12月8日午前0時35分——東雲が輸送船2隻(阿蘇山丸・鬼怒川丸)を護衛してターペへ。午前3時、ターペ・パタニの両地点で大きな抵抗なく上陸成功。
上陸成功後、コタバルで激しい抵抗を受けていた部隊への支援のため、東雲などマレー半島北部展開の駆逐隊はコタバル方面へ移動した。12月9日午前1時30分に護衛隊が集結し、再上陸作戦を決行して成功した。
12月9日午前11時25分、橋本信太郎少将(第三水雷戦隊司令官)はボルネオ攻略作戦に派遣する予定の駆逐艦4隻(白雲・叢雲・東雲・朝霧)にカムラン湾への帰投を命じた。英東洋艦隊出現の情報に一時再合流命令が出たが、東洋艦隊のシンガポール反転により追撃は断念。12月11日、カムラン湾でボルネオ攻略部隊が編成された。
「東雲」の沈没原因は、現在も完全には確定していない。複数の記録が異なる結論を示しているからだ。
最も有力とされるのは空襲説だ。オランダ軍の記録によれば、オランダ王立海軍航空隊GVT-2所属のドルニエ Do 24飛行艇(X32号艇、バスティアン・シャープ指揮官)が付近の海域で駆逐艦を爆撃し、3発の命中弾と至近弾1発を与えたと報告している。また当日はボルネオ島南部の連合国軍基地から飛来したオランダ空軍のグレン・マーチン爆撃機も空襲を実施しており、英・豪も自国機の戦果と主張している。
一方、米海軍年誌は「東雲は機雷で沈没」とするが、その資料の出所は明らかでない(戦史叢書24巻)。 当初の日本海軍の調査では「管制機雷によるもの」とされたが、後日の調査で空襲の可能性が高まった。 連合艦隊参謀長・宇垣纏は陣中日誌(戦藻録)に「爆雷の誘爆其因たるもの多し」と記しており、搭載爆雷・魚雷・弾薬の誘爆が「東雲」を一瞬で消滅させた原因として重要視している。
連合艦隊参謀長・宇垣纏少将は1941年12月17日の陣中日誌(戦藻録)に「驅逐艦東雲、北ボルネオ「バラム」燈臺の北方一五粁に於て火災と共に白煙天に冲し沈没せるが如し。驅逐艦これにて三隻 掃海艇二隻に達す。小艦艇の損害割合に多し。爆雷の誘爆其因たるもの多し。」と記した。誘爆の危険性を重視したこの評価は、特型の重武装設計が持つ脆弱性を参謀長レベルで早期に認識した記録として重要な意味を持つ。
「東雲」の沈没は、吹雪型駆逐艦として太平洋戦争で最初の戦没である。 ただし正確には、日本海軍全体の駆逐艦として「最初」ではない——12月11日のウェーク島第一次攻略戦で「疾風」と「如月」が既に沈んでいる。「東雲」が特別なのは、吹雪型(特型)という世界最強を誇った近代駆逐艦系列の中で最初に沈んだ艦だという点だ。
開戦の翌日から真珠湾の戦果に沸き返る本土の報道の影で、東雲は9日後にひっそりと熱帯の海に消えた。生存者はゼロだった——228名全員が姿を消した。その後に残ったのは「沢庵樽と重油」だけだった。 救出された証言者がいない分、東雲の最期は完全には知り得ないが、「叢雲が受信した発信者不明の電信」と「白雲が目撃した白煙と爆発音」という二つの断片的な記録が、「東雲」最後の瞬間に最も近い証言として残っている。
「東雲ノ遭難ハ確実ナリ」
——第二護衛隊指揮官→南遣艦隊司令長官 電信(昭和16年12月18日 01:50)
(JACAR:Ref.C08030725700、第三水雷戦隊戦時日誌より)
「東雲」の本質は、太平洋戦争が始まった最初の9日間が凝縮された艦にある。マレー作戦・ボルネオ攻略という華々しい緒戦の一角に確かに存在しながら、勝利の知らせが本土を席巻している最中に静かに消えた。吹雪型として初の喪失がわずか9日後だったという事実は、参謀長・宇垣纏をして「爆雷の誘爆其因たるもの多し」と書かせるほど衝撃的だった。
しかし「東雲」の消滅は、日本海軍の戦略的優位が続く開戦初期のノイズとして処理されてしまった。228名全員が海底に消えたため、証言者もいない。沈没原因も今なお確定していない。「東雲」の最期が指し示した——航空機時代における水上艦艇の脆弱性、重武装の誘爆リスク——という教訓が帝国海軍の設計思想に正面から向き合われるまでに、さらに多くの艦が同じ運命を辿ることになった。
夜明けを意味する「東雲(しののめ)」という名前の艦が、戦争最初の空が明ける9日後に消えた——その偶然の皮肉も含めて、「東雲」の航跡は短くとも太平洋戦争の本質を最初に照らしていた。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面 海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年
- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第3巻 蘭印攻略作戦』朝雲新聞社、1967年
- ・宇垣纏『戦藻録 明治百年史叢書』原書房、1968年(1941年12月17日の記述)
- ・クリストファー・ショアーズ、ブライアン・カル『南方進攻航空戦 1941〜1942 BLOODY SHAMBLES』大日本絵画、2002年(Do 24飛行艇記録)
- ・志賀博(天霧先任将校)『海軍兵科将校』光人社、1985年(第12駆逐隊の行動・東雲捜索の直接証言)
- ・重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦』潮書房光人社、2014年(ISBN 978-4-7698-1577-8)
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年(ISBN 4-7698-1246-9)
- ・JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08030725700「昭和16年12月 第3水雷戦隊戦時日誌」
- ・Wikipedia「東雲(吹雪型駆逐艦)」「マレー作戦」「英領ボルネオ攻略」
- ・片桐大自『帝国海軍全艦艇史』ベストセラーズ
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