1942年10月17日正午過ぎ、キスカ島沖31浬。弾薬を満載して輸送中の駆逐艦「朧」は、アメリカ陸軍航空軍のB-26爆撃機6機に襲われた。被弾により舵が故障し、艦は思うように動けなくなる。そして輸送中の弾薬そのものが誘爆を起こした。午後0時35分、朧は沈没した。山名寛雄艦長を含む生存者は、わずか17名。一緒に行動していた僚艦「初春」が、彼らを拾い上げた。
吹雪型駆逐艦17番艦・朧は、太平洋戦争開戦時、真珠湾を目指す機動部隊から外れた艦である。航続距離が足りなかったというだけの理由で、朧は南雲機動部隊の歴史的攻撃には加わらず、グアム島攻略、ハウランド島方面攻撃支援、マキン島の防備引継ぎといった、地味だが欠かすことのできない後方任務を一貫して担った。
そして——その朧が最後に運んでいたのも、戦果につながる華々しい任務ではなく、キスカ島守備隊のための弾薬だった。輸送任務という、戦争を支える最も地味な仕事の最中に、朧は敵機の爆弾と自らが運んでいた弾薬によって、その生涯を終える。
1929年11月29日
1931年10月31日 就役
伊藤皎 少佐
34.0kt
(朧型1番艦・特II型7番艦)
3基6門
9射線
第五航空戦隊→単独行動
(1942年4月〜戦没時生存)
キスカ島沖で空襲・弾薬誘爆により沈没
ワシントン海軍軍縮条約による主力艦保有制限の中、補助艦艇の戦力強化を目的に建造された一等駆逐艦。凌波性能を追求した船形、密閉式艦橋による居住性改善、重武装(12.7cm連装砲3基、61cm魚雷9射線)により、当時の列強海軍に衝撃を与えた。朧は佐世保海軍工廠で建造され、吹雪型後期型(特II型)の中でも「朧型」8隻(朧・曙・潮・漣・響・雷・電・暁)の1番艦として位置づけられる。日本海軍の艦船としては、雷型駆逐艦「朧」に続いて2代目にあたる。
朧は1929年11月29日、佐世保海軍工廠で起工した。1930年11月8日に進水し、1931年10月31日に就役。同日、柏木英中佐を司令とする第7駆逐隊(潮・曙・朧、後に漣)が編制された。1932年、第一次上海事変では長江水域の作戦に参加。1935年9月の第四艦隊事件では、暴風雨により若干の損傷を受けたものの、艦首切断に至った「初雪」や「夕霧」ほどの大破には至らなかった。
朧という艦は、それ自体が華々しい戦果を挙げる艦というより、後に太平洋戦争の各戦域を率いていく将校たちが、若き日に指揮を経験する「通過点」としての役割を担っていた。1940年4月、姉妹艦「漣」の復帰で第7駆逐隊は定数4隻(潮・曙・漣・朧)となり、第四水雷戦隊に所属。だが太平洋戦争が始まる直前、朧の艦歴は大きく分岐することになる。
1941年7月18日、第7駆逐隊(潮・曙・漣・朧)は南雲忠一中将の第一航空艦隊・第一航空戦隊(空母赤城・加賀)に編入された。9月1日、朧と漣は第7駆逐隊から外れ、第五航空戦隊(空母翔鶴・春日丸)に編入。やがて空母翔鶴・瑞鶴と駆逐艦秋雲を加えた五航戦は、空母4隻(赤城・加賀・蒼龍・飛龍)や第一水雷戦隊と共に真珠湾攻撃に参加することになった。だが、航続距離の短い「朧」は別行動を命じられ、歴史的な攻撃から外れた。戦力としての性能ではなく、燃料という現実的な制約が、朧の戦争を方向づけたのである。
朧が防備を引き継いだマキン島は、その後1942年8月17日、米潜水艦2隻による「マキン奇襲」(コマンド部隊の上陸作戦)で守備隊が玉砕する地となった。朧自身はこの悲劇の前に既に他の任務へ移っていたが、自らが守った場所の運命を思うと、地味な任務の積み重ねが何を支えていたかが見えてくる。
1942年1月以降、朧はクェゼリン環礁を中心に哨戒・警戒任務に従事した。3月、K作戦に参加する二式飛行艇のミッドウェー島・ジョンストン島偵察を支援するため、ウォッゼ島へ進出。ミッドウェー島偵察に向かった1番機はF4Fワイルドキャットに撃墜されたが、ジョンストン島偵察の2番機は生還した。同じ頃、ウェーク島の戦いで駆逐艦2隻(疾風・如月)を失っていた第四艦隊司令長官・井上成美中将は、朧の自隊への配備を連合艦隊参謀長・宇垣纏に希望した。だが、この希望は実現しなかった。朧は4月10日、第五航空戦隊を離れ、横須賀鎮守府警備駆逐艦に指定される。
4月中旬から8月末にかけて、朧は横須賀を拠点に近海哨戒と、横須賀から大湊警備府・馬公警備府への輸送護衛に従事した。6月のミッドウェー海戦で日本海軍が主力空母4隻を失うと、北方部隊の兵力増強が決定され、朧と新造艦「秋月」は内地で待機する空母「瑞鶴」と駆逐艦「浦風」の北方への往路護衛を命じられる。任務を終えた朧と秋月は横須賀へ戻り、「秋月」はガダルカナル方面へ進出していった。一方の朧は、引き続き日本本土を拠点とする護衛任務に留まった。
1942年10月1日、朧は北方部隊に編入され、横須賀で整備を急いだ。第21駆逐隊司令駆逐艦「初春」が横須賀に戻り朧と合流。10月11日、両艦は弾薬等の輸送のため横須賀を出港し、占守島を経由してキスカ島へと向かった。
1942年10月17日、北緯52度17分・東経178度08分(キスカ島の31浬)の地点で、アメリカ陸軍航空軍のB-26爆撃機6機が朧を攻撃した。被弾により朧は舵故障状態となり、さらに輸送中の弾薬が誘爆を起こす。午後0時35分、朧は沈没した。山名寛雄艦長を含む生存者17名は、僚艦「初春」(自身も損傷)によって救助された。アメリカ側は攻撃機1機を失っている。
1942年11月15日、朧はサボ島沖海戦で沈没した駆逐艦3隻(吹雪・叢雲・夏雲)と共に除籍された。同日、ネームシップ「吹雪」の喪失により『吹雪型駆逐艦』の艦型呼称は『白雪型駆逐艦』に改定され、朧はこの白雪型駆逐艦からも除籍されることになった——自らが属していた艦型の名称そのものが、僚艦の喪失によって書き換えられる中での退場だった。山名艦長はその後、舞鶴海軍工廠で修理中の駆逐艦4隻の艦長を兼務し、「霞」艦長としてレイテ沖海戦・多号作戦・礼号作戦に参加、最後は秋月型「冬月」艦長として坊ノ岬沖海戦にも臨んだ。
しかし、その地味さは決して軽い意味を持つものではなかった。朧が守ったマキン島はその後玉砕の地となり、朧が運んでいた弾薬はキスカ島守備隊の戦いを支えるはずのものだった。そして11年間で11人の艦長が朧を経験し、その多くがその後の太平洋戦争の重要な局面で指揮を執り、命を落とした。朧という艦は、戦果を挙げる艦ではなく、戦果を挙げる人材と物資を運び続けた艦だったのである。
朧が残したものは、勝利の記録ではない。だが、戦争という巨大な機構が、いかに多くの「目立たない輸送」と「目立たない後方支援」によって支えられていたかという事実を、この艦の最期は静かに物語っている。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書29『北東方面海軍作戦』朝雲新聞社、1969年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書38『中部太平洋方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1970年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・高松宮宣仁親王『高松宮日記』第3巻、中央公論社、1996年
- ・幕末以降帝国軍艦写真と史実、KKベストブック
- ・Nevitt, Allyn D. “CombinedFleet.com IJN Oboro: Tabular Record of Movement”, Long Lancers, 1997年
- ・Wikipedia「朧 (吹雪型駆逐艦)」