1944年6月9日午前4時17分、小笠原諸島・父島沖。輸送船7隻を率いる第3606船団の旗艦として、サイパンへ向けての最後の輸送任務についていた駆逐艦「松風」は、米潜水艦「ソードフィッシュ」の雷撃を受けた。大爆発とともに艦は轟沈し、乗艦していた第三護衛船団司令官・門前鼎少将と臨時参謀・檜野武良中佐が戦死した。救助された人員はわずか8名——准士官1名、下士官兵7名のみだった。
「松風」は神風型駆逐艦(2代)の4番艦として、舞鶴工作部で1922年12月2日に起工、1923年10月30日に進水、1924年4月5日に竣工した。当初は「第七駆逐艦」、続いて「第七号駆逐艦」と呼ばれ、1928年8月1日にようやく「松風」という固有の艦名を得ている。竣工から20年、フィリピン攻略戦から蘭印作戦、そしてソロモン諸島での輸送戦——「松風」はその艦歴を通じて、常に最前線の輸送任務を担い続けた。
その艦歴には、僚艦「文月」を救おうとして果たせなかった重い決断、負傷しながらも艦に戻り指揮を執り続けた艦長の姿、そして最後には南洋部隊の司令官を乗せたまま、輸送船団の旗艦として海に消えていった終わりが刻まれている。竣工から20年を経た「松風」の物語を辿る。
竣工からわずか5ヶ月後の1924年9月2日、「松風」は戦艦「薩摩」の処分作業に立ち会った。ワシントン海軍軍縮条約により標的艦とされていた「薩摩」は、実弾射撃を受けても沈まず、最終的に第5駆逐隊(第三号「朝風」・第五号「春風」・第七号「松風」)が雷撃で処分することになった。竣工したばかりの艦が、日本海軍で最も歴史ある戦艦の1隻を、その手で送り届けるという役目を担ったのである。
だが1926年10月16日未明、佐世保から大阪経由で横須賀へ向かっていた第二水雷戦隊は、山口県豊浦郡安岡町沖で座礁事故を起こす。旗艦「五十鈴」と共に「第7号駆逐艦(松風)」「第9号駆逐艦(旗風)」が座礁し、「松風」はスクリュー破損などの損傷を負った。当時の艦長・吉田庸光中佐と航海長・藤牧美徳大尉は、この事故の責任を問われ処分を受けている。1936年9月6日には機関部で小火災が発生し、1名が死亡、3名が負傷するという事故にも見舞われた。竣工から太平洋戦争開戦までの「松風」の艦歴には、こうした平時の事故もいくつか刻まれている。
1943年7月9日、外南洋部隊指揮官・鮫島具重中将直率のコロンバンガラ島敵艦艇撃滅・輸送作戦に、「松風」は輸送隊(皐月・三日月・松風・夕凪)の一員として参加する。米艦隊は現れず輸送のみを実施して引き上げたが、3日後の7月12日、今度はコロンバンガラ島沖海戦の本番が待っていた。ラバウル出撃の警戒隊とブイン出撃の輸送隊(皐月・水無月・夕凪・松風)が合流した直後、クラ湾で米艦隊との夜間水上戦闘が勃発する。輸送そのものは成功したが、軽巡「神通」が沈没し、第二水雷戦隊司令官・伊崎俊二少将と司令部が全滅した。
7月19日から20日にかけての作戦行動でも、「松風」は輸送隊(三日月・水無月・松風)としてコロンバンガラ島方面に出動する。だが夜間空襲により駆逐艦2隻(清波・夕暮)が失われ、「松風」自身も熊野・水無月と共に損傷を負った。それでも「松風」は任務を続け、8月のレカタ撤収作戦では陽動隊(川内・漣・松風)として、10月のセ号作戦(コロンバンガラ撤収)でも陽動隊としての役割を果たしている。同月のベララベラ撤収作戦でも輸送部隊(文月・夕凪・松風)として行動し、ソロモンの消耗戦を生き延び続けた。
1944年2月17日、トラック泊地に所在していた「松風」は、「時雨」「春雨」等とともに米軍機動部隊によるトラック島空襲に遭遇する。この空襲で僚艦「文月」が大破し、当時の文月艦長・長倉義春少佐の証言によれば、「松風」は「文月」を海岸に座礁させるべく曳航準備を行った。だが再び空襲が始まると、「松風」は文月の曳航を中止して避退せざるを得なかった。その後「文月」は沈没している。
「松風」自身もこの空襲で損傷し、トラック泊地に停泊していた病院船「天応丸」(元オランダ病院船オプテンノール)に接舷して負傷者を引き渡した。この時、負傷していた松風艦長も「天応丸」で戦時治療を受けたが、治療後、艦長は「松風」に戻り、指揮を続行したと伝えられている。この一連の空襲により、第三水雷戦隊からは「文月」「太刀風」の2隻が沈没する大きな損害を受けた。「松風」はサイパンへ回航され、3月1日に横須賀へ帰投している。
「文月」を救おうとした試みが空襲で断念せざるを得なかったという事実は、駆逐艦1隻の努力では戦況を覆せない現実を物語っている。それでも負傷した艦長が治療後に自らの艦へ戻り、指揮を執り続けたという事実は、この艦にとって最後まで責務を全うしようとする姿勢の表れだった。
1944年5月1日、竣工から20年を経た「松風」は、峯風型「秋風」とともに睦月型の第30駆逐隊(卯月・夕月)に編入された。神風型・峯風型・卯月型という3つの異なる艦型の混成部隊が、ここに生まれることになる。6月上旬、「松風」は輸送船7隻と護衛艦(千鳥・隠岐・天草・能美・駆潜艇2隻・特設掃海艇2隻)で編成された第3606船団の旗艦となった。この船団の指揮官は第三護衛船団司令官・門前鼎少将であり、軍令部からは臨時参謀として檜野武良中佐も「松風」に乗艦していた。この船団は、サイパン島(中部太平洋方面艦隊司令長官・南雲忠一中将)へ向かう最後の輸送船団となる。
6月6日午前5時、第3606船団は館山を出撃した。3日後の6月9日午前4時17分から19分にかけて、小笠原諸島父島沖で、米潜水艦「ソードフィッシュ」の雷撃を受けた「松風」は大爆発を起こし、轟沈する。乗艦していた門前鼎少将(戦死により海軍中将に昇進)と檜野武良参謀は戦死した。救助された人員は、准士官1名・下士官兵7名の合計8名のみだったと記録されている。船団はサイパン行きを中止し、父島へ退避した。
1944年8月10日、「松風」は艦艇類別等級表の神風型の項目、そして第30駆逐隊の編制表から削除された。竣工から20年、フィリピン攻略戦から蘭印作戦、ソロモン諸島での輸送戦、そして最後は司令官と参謀を乗せた船団旗艦としての戦没——「松風」の艦歴は、旧式駆逐艦が太平洋戦争のあらゆる局面でいかに酷使され続けたかを物語っている。
「松風」の本質は、竣工から20年、太平洋戦争のほぼ全期間を通じて、常に最前線の輸送任務を担い続けた艦だった、という一点にある。戦艦「薩摩」の処分、コロンバンガラ島沖海戦、そして睦月型の艦隊への編入——この艦は艦型の垣根を超えて、日本海軍が必要とする場所に、必要とされる限り投入され続けた。
しかし「松風」の物語で最も重い意味を持つのは、僚艦「文月」を救おうとして果たせなかった判断と、負傷しながらも自らの艦へ戻った艦長の姿だろう。そして最期は、輸送船団の旗艦として司令官と参謀を乗せたまま、太平洋の海に消えていった。竣工から20年を経た旧式艦が、最後まで重要な指揮任務を託され続けていたという事実は、太平洋戦争後半、日本海軍がどれほど戦力の逼迫に直面していたかを物語っている。
「松風」が残したものは何か。それは、旧式艦がどれほど長く、そしてどれほど過酷に戦い続けたかという記録である。派手な戦果を持たない艦だからこそ、私たちに戦争の実務——輸送、護衛、そしてその先にある指揮官たちの重責——を、静かに教えてくれる。猫工艦は、神風型4番艦「松風」と、門前鼎少将・檜野武良中佐をはじめとする全乗組員に、深い敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第5水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報・海上護衛総司令部戦時日誌・第7昭和丸戦時日誌各号
- ・防衛庁防衛研修所戦史部『中部太平洋方面海軍作戦〈2〉昭和十七年六月以降』戦史叢書第62巻、朝雲新聞社、1973年
- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
- ・木俣滋郎『撃沈戦記 海原に果てた日本艦船25隻の航跡』光人社NF文庫、2013年
- ・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社NF文庫、1993年
- ・三神國隆『海軍病院船はなぜ沈められたか 第二氷川丸の航跡』光人社NF文庫、2005年
- ・高松宮宣仁親王『高松宮日記 第七巻』中央公論社、1997年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年
- ・Wikipedia「松風 (2代神風型駆逐艦)」「神風型駆逐艦 (2代)」