1944年10月25日未明、スリガオ海峡。西村祥治中将率いる第一遊撃部隊第三部隊は、米艦隊の待ち伏せの中で壊滅していった。戦艦「山城」「扶桑」が相次いで撃沈され、駆逐艦「山雲」が轟沈、「朝雲」「満潮」が大破。この海戦で生還した日本側の艦は、駆逐艦「時雨」一隻だけだった。艦尾に砲弾1発が命中し燃料タンクを貫通したが、不発だった。
白露型駆逐艦2番艦・時雨は、太平洋戦争のほぼ全期間を生き抜いた艦である。珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島への鼠輸送10回、第三次ソロモン海戦、ベラ湾夜戦、第一次・第二次ベララベラ海戦、ブーゲンビル島沖海戦、マリアナ沖海戦——そのいずれにおいても、時雨は決定的な損害を受けることなく戦場を生き延びてきた。米海軍史研究者サミュエル・モリソンは、自著の中で時雨を「幸運艦」「不滅艦」と評している。
そして——その時雨の幸運も、永遠には続かなかった。レイテ沖海戦で西村艦隊唯一の生還艦となった3ヵ月後、時雨はマレー半島近海で、米潜水艦の魚雷一発によってその生涯を終える。「呉の雪風、佐世保の時雨」と並び称された武勲艦の最期は、決して劇的な海戦の中ではなく、輸送船団護衛という日常的な任務の最中に訪れた。
34.0kt
(前期型・角型艦橋)
単装砲1基(計5門)
(日本初の四連装、計8射線)
(白露・時雨ら)
西村艦隊唯一の生還艦
マレー半島近海で米潜水艦の雷撃により戦没
ロンドン軍縮条約下に計画された初春型駆逐艦の後続艦として建造された一等駆逐艦。主要兵装と機関は初春型を踏襲したが、魚雷兵装は日本海軍として初めて四連装発射管を採用し、用兵側の要望した8射線を実現した。船体強度に関しては、完成後に補強した前期艦6隻(白露・時雨・村雨・夕立・春雨・五月雨)と、建造時点で対策を施した後期艦4隻(海風・山風・江風・涼風)に分かれる。時雨は前期艦の角張った艦橋を持つ2番艦として竣工した。
時雨は1936年9月7日に竣工し、第27駆逐隊(白露・時雨)に編入された。1938年、初春型「有明」「夕暮」と混成部隊を組み、太平洋戦争開戦時には第1艦隊第1水雷戦隊(旗艦阿武隈)に所属して柱島泊地に所在していた。1942年1月中旬、白露と共に第九戦隊(軽巡大井・北上)の指揮下で台湾方面への輸送船団を護衛。5月の珊瑚海海戦、6月のミッドウェー海戦(途中まで出撃)と、開戦劈頭の主要作戦をくぐり抜けていく。
11月12日、時雨ら第27駆逐隊は戦艦「比叡」「霧島」の護衛任務に就いた。比叡救援中、時雨は機銃掃射で軽微な損傷を受け1名が戦死。比叡の雷撃処分が命じられたが、連合艦隊の指示で中止された。比叡は結局自沈し、第27駆逐隊はトラックへ帰投した。この出撃で時雨が経験したのは、艦そのものへの直接攻撃ではなく、味方の戦艦を見送るという別の種類の重さだった。
1943年に入っても、時雨の任務は途切れなかった。1月、ガダルカナル撤退作戦(ケ号作戦)に参加。7月には、ラバウル輸送作戦、ブカ輸送作戦、コロンバンガラ輸送作戦と、激戦地への輸送任務が立て続けに続く。そして7月、時雨の「幸運艦」としての評価を決定づける一夜が訪れる。
11月、ブーゲンビル島沖海戦に参加。三水戦旗艦「川内」が沈没し、僚艦「五月雨」「白露」が衝突、重巡「妙高」と駆逐艦「初風」も激突、初風が沈没、「羽黒」も損傷するという大混戦の中、時雨はただ一隻、無傷でこの海戦を突破した。この頃、時雨は雪風と並び称される存在として、その活躍が天皇にも報告されたという。
1944年に入っても、時雨は輸送・護衛任務を続けた。2月、トラック島空襲で損傷し佐世保で修理。6月、マリアナ沖海戦では補給部隊の護衛に従事し、20日の空襲では空母「龍鳳」の護衛に就き、龍鳳へ向かうTBFアベンジャーを砲撃して阻止、さらに魚雷2本を艦尾至近距離で回避した。空襲終了後、被害を受けた空母「飛鷹」の救援に向かったが、飛鷹は沈没している。
1944年10月10日、白露・五月雨・春雨の戦没・損傷が続き、第27駆逐隊は解隊された。時雨は所属不明のまま、西村祥治中将率いる第一遊撃部隊第三部隊に配備される。10月21日、ブルネイ湾に到着。西野繁艦長は戦艦「山城」に赴き、西村中将から作戦の説明を受けた。10月22日午後、艦隊はブルネイを出撃した。
10月24日の空襲で第一砲塔に直撃弾を受けるが不発で無傷だった。10月25日、スリガオ海峡海戦に突入。戦艦「扶桑」が魚雷4本を受けて落伍、「山雲」が轟沈、「朝雲」「満潮」が艦首損傷で大破。時雨は「山城」「最上」と共に突撃するが、山城も魚雷と砲撃を受けて大炎上、最上にも砲撃が集中し、時雨を除く僚艦はみな大損害を受けた。艦尾に砲弾1発が命中し燃料タンクを貫通したが、不発だった。第27駆逐隊の仲間がすべて沈み、艦隊が全滅する中、時雨は孤軍となって戦場を脱した。
幸運艦、不滅艦
米海軍史研究者で元海軍少将のサミュエル・モリソンは、自著の中で時雨をこう評した。
——西村艦隊が壊滅したスリガオ海峡海戦において、唯一生還した艦への評価。
マニラを出港した翌日、そのマニラが米機動部隊の空襲で火の海となった。志摩艦隊旗艦としてレイテ沖海戦に出撃していた軽巡「那智」もこの空襲で沈没している。時雨はここでも沈没の危機を回避した。以後、米潜水艦グロウラーを撃破する一方で油槽船「萬栄丸」を失い、12月には空母「雲龍」が魚雷で沈没(桜花30機が海没)するなど、戦況は悪化していった。12月下旬から時雨は「ヒ87船団」の護衛を担うことになる。
1945年1月24日、ヒ87A船団の輸送船「さらわく丸」を護衛中、タイランド湾のマレー半島東岸で米潜水艦「ブラックフィン」とベスゴの攻撃を受ける。電探と目視で捉えた潜水艦の識別を混同し、転舵がブラックフィンに好機を与えてしまう。午前7時4分、魚雷を回避するも、7時5分に左舷後部に魚雷1本が命中。7時10分に総員退去が発令され、7時15分、艦体は分断して沈没した(北緯06度00分・東経103度45分)。戦死38名(資料によっては37名)、重軽傷17名。3月10日、除籍された。
時雨の残骸は、マレー半島コタバル東方150km、水深55mの海底に今も沈んでいる。艦体は二分され、艦首は右舷に横転、艦尾は正立した状態で発見されており、現在はダイビングスポットや漁礁として利用されている。10隻が建造された白露型駆逐艦の中で、時雨は最後まで生き残った2隻(白露・時雨を除く8隻は1944年までに戦没)の最後の1隻として、終戦の7ヵ月前まで戦い続けた艦だった。
しかし、その幸運も無限ではなかった。最後は壮絶な海戦の中ではなく、輸送船団護衛という地味な任務の最中、識別の混同という人間的な判断のずれが、致命的な結果につながった。何度も死地をくぐり抜けてきた艦の最期が、戦闘の華々しさとは無縁の対潜戦闘だったという事実は、戦争という現実の不条理さを物語っている。
時雨が残したものは、撃沈数ではなく、生き延びるということそのものの価値だ。10隻のうち最後まで残った艦であるという事実が、何よりもそれを物語っている。
■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書62『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』朝雲新聞社
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
- ・サミュエル・E・モリソン著、大谷内一夫訳『モリソンの太平洋海戦史』光人社、2003年
- ・宇垣纏『戦藻録 明治百年史叢書』原書房、1968年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・遠藤昭・原進『駆逐艦戦隊』朝日ソノラマ、1994年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「時雨 (白露型駆逐艦)」「白露型駆逐艦」