1942年8月22日未明、ガダルカナル島ルンガ泊地。本来は僚艦「夕凪」と共に突入する予定だった駆逐艦「江風」は、波浪のため遅れた夕凪を待たず、単艦でアメリカ駆逐艦2隻が待つ泊地へ突入した。魚雷6本、砲弾6発を放ち、駆逐艦「ブルー」に魚雷1本を命中させて処分に追い込む。攻撃後、アメリカ軍機の襲撃で重傷者を出しながらも「行動に関し指令を乞ふ」と発信した若林一雄艦長に対し、連合艦隊参謀長・宇垣纏は「中佐艦長にして何たる覚悟ぞ」とその胆力を称えた。
白露型駆逐艦9番艦・江風は、海風・山風・涼風と共に改白露型(海風型)を構成する第24駆逐隊の一艦である。日中戦争のパネー号事件への急派に始まり、太平洋戦争ではフィリピン攻略、蘭印作戦、スラバヤ沖海戦と転戦し、ガダルカナルの戦いでは輸送・砲撃・索敵・救助のあらゆる任務に投入された。その出撃回数は駆逐艦の中でも際立っており、激戦区ガダルカナルへの突入は実に26回を数える。
そして——この艦の物語は、単艦突入の武勇だけでは終わらない。第三次ソロモン海戦では沈みゆく輸送船から550名の将兵を救助し、ルンガ沖夜戦では味方部隊の輸送を護って魚雷を放った。だが1943年8月6日、ベラ湾の闇の中、レーダーを駆使した米軍の新戦術によって僚艦「萩風」「嵐」と共に、ほとんど一瞬で海に没することになる。
1937年4月30日 竣工
34.0kt
(改白露型・海風型3番艦)
単装砲1基(計5門)
(計8射線・魚雷16本)
(海風・山風・涼風と編制)
(駆逐艦中最多級)
ベラ湾夜戦
1942年8月22日、本来は僚艦「夕凪」との2艦共同作戦のはずだったルンガ泊地突入は、夕凪の速力不足により単艦での実行を余儀なくされた。敵駆逐艦2隻が待つ泊地への単独突入は、艦と乗員全員を危険にさらす判断である。それでも若林艦長はためらわず突入し、魚雷6本・砲弾6発を放って「ブルー」を撃破した。つまり、この一夜の決断こそが、江風という艦の性格——任務から逃げない艦——を最も端的に示すエピソードだった。
「中佐艦長にして何たる覚悟ぞ」
単艦でルンガ泊地に突入した若林艦長の報告に対する評価
——宇垣纏 連合艦隊参謀長、『戦藻録』記載(1942年8月)
8月24日にはヘンダーソン飛行場を10分間砲撃し、8月31日には川口清健陸軍少将の部隊1200名の揚陸に成功。9月に入っても、4日・7日・9日・11日・13日・14日と、連日のようにガダルカナルへの輸送・突入を繰り返した。9月2日、第24駆逐隊司令・村上暢之助大佐が更迭され、新司令・中原義一郎中佐が9月10日に着任している。江風の任務は単発の武勲だけにとどまらなかった。
1942年11月13日、第三次ソロモン海戦で輸送船団がアメリカ軍機の波状攻撃を受け6隻が沈没する惨事の中、江風は海に投げ出された将兵550名を救助した。戦果を競う海戦の只中で、味方の命を拾い上げる任務にも力を尽くした記録である。
輸送船11隻でガダルカナルへ向かった部隊は、米軍機の攻撃で6隻が沈没、1隻が大破という大損害を受けた。増援部隊指揮官・田中頼三少将は残存戦力で進撃を続けるが、その混乱の海で江風は救助にあたっている。つまり、この艦の戦歴は「敵を撃つこと」だけでなく「沈みゆく仲間を引き上げること」もまた、駆逐艦という艦種の本質的な任務であったことを物語っている。
だが第三次ソロモン海戦の勝利は連合軍をブナ地区への上陸へと向かわせ、第24駆逐隊もブナ方面増援輸送を命じられた。11月18日、駆逐艦部隊(朝潮・江風・海風)でブナ輸送中にB-17の爆撃を受け、僚艦「海風」が大破、江風も損傷した。海風は「朝潮」に曳航されてラバウルへ戻り、江風は単艦で帰投。11月25日、第24駆逐隊司令・中原中佐は司令駆逐艦を「海風」から「江風」に変更している。11月28日、新たな艦長として柳瀬善雄少佐が着任した。
1943年8月6日深夜、コロンバンガラ島への輸送任務。江風は陽炎型「萩風」「嵐」、そして姉妹艦「時雨」と共に単縦陣を組み、ベラ湾を進んでいた。先頭から萩風、嵐、江風、その後方1000メートルに時雨という配置である。だが、この海にはアメリカ海軍フレデリック・ムースブラッガー中佐が指揮する6隻の駆逐艦が、レーダーを駆使して息を潜めていた。
21時30分、米駆逐隊はレーダーで日本艦隊を探知し、暗闇の中、目視されぬまま魚雷24本を発射した。萩風・嵐の2隻には各2本、江風には3本の魚雷が命中し、3隻はほぼ同時に被雷。回避できたのは後方にいた時雨のみだった。江風はアメリカ駆逐艦「スタレット」「スタック」の雷撃・砲撃を受けて沈没、柳瀬善雄艦長以下169名が戦死している。日本側はこの時、自分たちが巡洋艦や航空機を含む包囲攻撃を受けたと錯覚したほど、攻撃は一方的かつ迅速だった。
江風の本質は、突入を恐れなかった艦であったことにある。単艦でも泊地に踏み込み、撤退の混乱の中でも仲間を引き上げ、ガダルカナルという地獄に26回通い続けた事実が、それを何より物語っている。
しかし、その勇敢さは決して栄光だけでは終わらなかった。レーダーという新しい戦争の形が現れた瞬間、それまで日本海軍が頼みとしていた夜戦の優位は、一夜にして崩れ去った。江風の最期は、技術の差が経験や胆力をどれほど無力化するかを、容赦なく示す出来事でもあった。
この艦が残したものは何か。それは「任務から逃げない」という姿勢が、最後まで貫かれたという記録そのものである。猫工艦は、ガダルカナルの切り込み隊長として走り続けた一艦の航跡に、今も敬意を捧げたい。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書49『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1971年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦(1) ガ島奪還作戦開始まで』朝雲新聞社
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3)』朝雲新聞社
- ・木俣滋郎「15.駆逐艦『萩風』『嵐』『江風』」『撃沈戦記』光人社NF文庫、2013年
- ・宇垣纏『戦藻録』原書房、1968年
- ・溝口智司「私は歴戦艦『江風』の水雷長だった」(当時水雷長・回想記)
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)江風公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「江風 (白露型駆逐艦)」「ベラ湾夜戦」