「あの時、赤城に爆弾が命中していれば」——予兆の言葉を残し、ベラ湾で嵐と共に散った陽炎型17番艦「萩風」の全記録

1943年8月6日21時過ぎ、ソロモン諸島ベラ湾。コロンバンガラ島への輸送任務中、駆逐艦「萩風」は左舷前方に敵艦隊を発見した。しかし攻撃態勢に移る間もなく、僚艦「江風」に続いて萩風・「嵐」も次々と魚雷を被雷する。集中砲火を浴びた萩風は沈没した。だが、この壮絶な最期の中で、一つの奇跡が起きる——第四駆逐隊司令・杉浦嘉十大佐と萩風艦長・馬越正博少佐は、燃え盛る海からベララベラ島まで泳ぎ切り、生還を果たしたのである。同じ海で沈んだ僚艦「嵐」の艦長は、同じように島を目指しながら力尽きていた。

陽炎型17番艦として1941年3月に竣工した「萩風」は、開戦初日にノルウェー商船を拿捕し、ミッドウェー海戦では空母「加賀」の乗員を救助、そして空母「赤城」の処分という重い任務も担った艦だった。1942年4月、セイロン沖海戦で赤城が英軍爆撃機の奇襲を受けた際には、とっさに対空射撃を行っている。この一件について、後に乗組員の間で「あの時爆弾が赤城に命中していた方が、目が醒めたのではないか」という、皮肉めいた述懐が語られたという。

そして——この言葉から4ヶ月足らずでミッドウェーの大敗を迎え、さらに1年余り後、萩風自身がベラ湾で沈むことになる。皮肉にも、この艦を沈めたのは赤城を襲った爆撃機ではなく、視認すらできないレーダー誘導の魚雷だった。しかし艦を失いながらも、司令と艦長がそろって生還したという事実は、この艦の乗員たちの粘り強さを物語っている。

■ 陽炎型17番艦「萩風」基本諸元 ■
建造所
浦賀船渠
起工 1939年5月23日(仮称第113号艦)
命名 / 進水 / 竣工
1940年2月23日 / 6月18日 / 1941年3月31日
基準排水量
2,033t
全長118.5m
最大速力
35.0ノット
出力52,000馬力
主砲
三年式12.7cmC型連装砲
3基6門
魚雷
61cm4連装発射管×2基
(九三式酸素魚雷)
歴代艦長
井上良雄→岩上次一→畑野健二→馬越正博
馬越少佐(戦没時)は生還
所属駆逐隊
第四駆逐隊
(嵐・舞風・野分)
最終結末
1943年8月6日
ベラ湾夜戦で戦没
戦死約170〜178名
開戦初日、ノルウェー商船の拿捕から

萩風は1939年5月23日、浦賀船渠で仮称第113号艦として起工した。同造船所は他に不知火・早・時津風・浜風・秋雲の陽炎型5隻を建造している。1940年2月23日、僚艦「嵐」や敷設艦「津軽」などと同日に「萩風」と命名された。1941年3月31日に竣工し横須賀鎮守府に所属、新設された第四駆逐隊(嵐・舞風、後に野分)に加わり、初代艦長には吹雪型「漣」艦長から転任した井上良雄中佐が任命された。

太平洋戦争開戦初日、萩風は僚艦「舞風」と第2小隊を組み、ノルウェー商船「ヘリウス」を臨検の上、直ちに拿捕している。ノルウェーはドイツに占領され亡命政府が成立していた関係上、当時の日本とは事実上敵対する立場にあった。拿捕された「ヘリウス」は「雪山丸」と改名され、その後は日本の貨客船として活躍することになる。以後、萩風はリンガエン湾上陸作戦をはじめとする蘭印作戦の支援に従事し、機動部隊の快進撃を肌で感じながら戦った。

■ 萩風 全戦歴ハイライト ■
【1941年12月8日】:開戦初日、ノルウェー商船ヘリウスを拿捕
【1942年4月9日】:セイロン沖海戦、赤城への奇襲に対空射撃
【1942年6月】:ミッドウェー海戦、加賀乗員救助・赤城処分
【1943年7月22日】:水上機母艦「日進」沈没、生存者救助
【1943年8月6日】:ベラ湾夜戦で戦没、司令・艦長は奇跡的に生還
エピソード① セイロン沖海戦——不吉な述懐

1942年2月下旬以降、第四駆逐隊第1小隊(嵐・野分)が第四戦隊(愛宕・高雄・摩耶)と共にジャワ島南方で掃討作戦を実施する一方、第2小隊(萩風・舞風)は南雲機動部隊警戒隊としてセイロン沖海戦に参加した。同海戦中の4月9日、機動部隊旗艦「赤城」が英軍爆撃機9機による奇襲を受ける。この時、萩風はとっさに対空射撃を実施した。赤城は事なきを得たが、後にこの一件を振り返り、乗組員の間では「あの時爆弾が赤城に命中していた方が、目が醒めたのではないか」という、皮肉めいた述懐が語られたと伝えられている。

4月14日、シンガポール沖で南雲機動部隊は分割され、陽炎型3隻(秋雲・萩風・舞風)は第五航空戦隊の空母2隻(翔鶴・瑞鶴)を護衛して台湾の馬公へ向かった。馬公着後、五航戦の護衛は第27駆逐隊(時雨・白露・有明・夕暮)に引き継がれ、萩風は日本本土へ戻る。この引き継ぎのため、萩風は5月上旬の珊瑚海海戦への参加を免れることになった。5月5日、井上良雄艦長が退任し、後任には敷波艦長から転じた岩上次一中佐が着任している。

■ 「目が醒めたのでは」という言葉の重み
この述懐がどこまで真剣なものだったかは分からないが、結果としてこの言葉から2ヶ月足らずで、日本海軍はミッドウェー海戦において赤城を含む主力空母4隻を一日で失うという、太平洋戦争最大級の敗北を喫することになる。つまりどういうことか——この時の対空射撃の成功が、皮肉にもより大きな悲劇を先送りしただけだったのではないか、という乗組員たちの複雑な感情が、この言葉には滲んでいる。
エピソード② ミッドウェー——加賀の救助と赤城の処分

1942年6月のミッドウェー海戦で、第四駆逐隊は南雲機動部隊警戒隊(旗艦「長良」)所属として、第十駆逐隊(秋雲・夕雲・巻雲・風雲)、第十七駆逐隊(谷風・浦風・浜風・磯風)と共に参加した。空母「加賀」が被弾すると、萩風は舞風と共にその乗組員を救助。狭い艦内に収まりきらない負傷者たちが甲板上で吹きさらしになるほどの惨状だったと伝えられる。そして、力尽きた旗艦「赤城」の処分という重い任務が、僚艦「嵐」らと共に萩風にも課され、雷撃によってこれを実行した。

エピソード③ ソロモンの消耗戦——燃料補給と日進の喪失

ラバウル帰投後、第十戦隊旗艦は萩風から「阿賀野」に戻された。ここで第四駆逐隊(萩風・嵐)のみが南東方面部隊・外南洋部隊(第八艦隊)・増援部隊(第三水雷戦隊)に編入され、ソロモン諸島に残留することになる。この頃、ニュージョージア島の戦いに伴うクラ湾夜戦やコロンバンガラ島沖海戦で、日本側は旗艦2隻(秋月型「新月」——第三水雷戦隊司令官秋山輝男少将戦死、川内型軽巡「神通」——第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将戦死)と多数の駆逐艦を喪失する大損害を受けていた。

1943年7月21日、ラバウルに入泊した際、萩風は重巡「筑摩」から燃料補給を受けている(嵐は利根、磯風は大淀からそれぞれ補給)。翌22日、萩風は嵐・磯風と共に、戦車等の軍需物資を満載した水上機母艦「日進」を護衛してブインへ向かうが、到着直前に空襲を受け日進が沈没。3隻の駆逐艦は生存者の救助に奔走した。トラックへ帰投する他の艦とは別に、第四駆逐隊(萩風・嵐)だけがソロモン諸島に残ることになり、その際、磯風は魚雷と弾薬を萩風・嵐に供与していった。

エピソード④ ベラ湾夜戦——沈みながらも、生きて還った者たち

1943年8月6日、増援部隊はブインおよびコロンバンガラ島への輸送のためラバウルを出港した。三水戦旗艦・軽巡「川内」(陸兵450名、物資130トン)はブインへ、駆逐艦4隻——第4駆逐隊司令・杉浦嘉十大佐座乗の「萩風」、「嵐」、第24駆逐隊「江風」、警戒隊の「時雨」(第27駆逐隊司令・原為一大佐)——はコロンバンガラ島へ向かう。萩風にはこの時、第三水雷戦隊先任参謀・二反田三郎中佐も乗艦していた。杉浦司令らは、輸送作戦がほぼ1週間おきに反復され、入泊の時刻・場所も限定されるため待ち伏せの危険が大きいと不安を強めており、川内の同行にも反対していたが、上級司令部との板挟みの中、伊集院松治司令官の判断で川内は予定より早く分離することとなった。

日没前後からベラ湾は激しいスコールに見舞われ、視界はますます悪化。この影響で、予定されていた水上偵察機によるコロンバンガラ哨戒と魚雷艇掃討も中止された。21時過ぎ、萩風は310度19海里の方向、すなわち左舷前方に敵艦隊を発見する。しかし攻撃態勢に移る間もなく、フレデリック・ムースブラッガー中佐率いる米駆逐艦6隻の先制雷撃を受けた。まず江風が爆発を起こして轟沈。嵐・萩風も被雷の爆炎でその位置を露呈してしまい、なすすべなく集中砲火を浴びて沈没する。

■ 8月6日夜、ベラ湾の時系列 ■
日没前後
スコールで視界悪化、偵察・哨戒任務が中止に
21時過ぎ
萩風、左舷前方に敵艦隊を発見
直後
攻撃態勢に移る間もなく先制雷撃。江風轟沈
続いて
萩風・嵐も被雷の爆炎で発見され、集中砲火を浴び沈没
その後
杉浦司令・馬越艦長はベララベラ島まで泳ぎ切り生還
■ 明暗を分けた生還——嵐との対照
同じ海戦で沈んだ僚艦「嵐」の艦長・杉岡幸七中佐は、同じくベララベラ島を目指して泳いだが、あと一歩のところで力尽きて殉職した。一方、萩風の第四駆逐隊司令・杉浦嘉十大佐と艦長・馬越正博少佐は、共に島まで泳ぎ切って生還している。萩風に乗艦していた三水戦先任参謀・二反田三郎中佐は戦死した。萩風の乗員では約170〜178名が戦死したが、自力で泳ぎきった者や米軍の救助で助かった者も合わせ200名以上が生存している。それでも増援部隊全体で見れば、実に9割弱もの将兵が犠牲になった、痛ましい海戦だった。つまりどういうことか——同じ艦、同じ海戦であっても、生死を分けたのは僅かな運と体力、そしてほんの少しの距離だった。
猫工艦の考察

萩風の本質は、開戦初日の商船拿捕から赤城の処分まで、陽炎型駆逐艦としての典型的な任務を忠実に果たし続けた艦だったという点にある。セイロン沖での対空射撃、そして後に語られた皮肉めいた述懐は、この艦の乗員たちが、迫り来る運命の重さをどこかで感じ取っていたことを示唆している。

そして、ベラ湾夜戦での最期には、この艦ならではの重要な事実が刻まれている——僚艦「嵐」の艦長が力尽きて命を落とす一方、萩風の司令と艦長は生還を果たした。同じ海戦、同じような状況の中での明暗の分岐は、太平洋戦争における多くの悲劇が、能力や覚悟だけでなく、僅かな偶然によっても左右されていたことを物語っている。

萩風が残したものは何か。それは、艦を失いながらも生き延びた者たちの証言と、その裏で命を落とした者たちの記憶、両方を合わせ持つ艦の記録である。「あの時爆弾が命中していれば」という皮肉な述懐から、ベラ湾での生死の分かれ道まで、この艦の艦歴は太平洋戦争の非情さと、その中でわずかに差し込む生還の光を、同時に伝えている。猫工艦は、萩風の乗員たち——還った者も、還らなかった者も、共に深い敬意を表したい。

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■ 参考文献・資料

  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26・49・83・96『蘭印・ベンガル湾方面/南東方面海軍作戦各巻』朝雲新聞社
  • ・アジア歴史資料センター(JACAR)萩風関連公文書・第四駆逐隊戦時日誌戦闘詳報
  • ・戸田専一(当時四駆逐隊付・海軍少尉候補生)「乗艦『舞風』『萩風』ネズミ輸送の悲惨を語れ」
  • ・当時「嵐」水雷長・海軍大尉宮田敬助「第四駆逐隊『嵐』『萩風』ベラ湾夜戦に死す」
  • ・当時二十七駆逐隊司令・海軍大佐原為一「二十七駆逐隊司令わがソロモン海の戦歴」
  • ・永井喜之・木俣滋郎「駆逐艦『萩風』『嵐』『江風』」『新戦史シリーズ 撃沈戦記』朝日ソノラマ、1988年
  • ・重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦』潮書房光人社、2014年
  • ・Wikipedia「萩風 (駆逐艦)」「陽炎型駆逐艦」「ベラ湾夜戦」
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