「爆雷で軍艦を沈めた男たち」——赤城を弔い、ベラ湾で「火山」のごとく燃え尽きた陽炎型16番艦「嵐」の全記録

1943年8月6日深夜、ソロモン諸島ベラ湾。コロンバンガラ島への輸送任務に向かっていた駆逐艦「嵐」は、フレデリック・ムースブラッガー中佐率いる米駆逐艦6隻の待ち伏せに遭う。レーダーによる完璧な奇襲だった。まず僚艦「江風」が轟沈し、続く集中砲火で「嵐」の左舷に魚雷が命中、航行不能となる。搭載していた弾薬に引火し、艦は「火山」と形容されるほどの猛烈な炎に包まれた。艦長・杉岡幸七中佐は燃え盛る艦から脱出し、ベララベラ島を目指して泳いだが、あと一歩のところで力尽き、海に消えていった。

陽炎型16番艦として1941年1月に竣工した「嵐」は、第四駆逐隊司令駆逐艦として、後に戦艦「大和」沈没時の艦長となる有賀幸作大佐を乗せて開戦を迎えた。蘭印のチラチャップ沖海戦では、水上艦には通常使わない爆雷を砲撃で開いた穴に投げ込んで撃沈するという、世にも珍しい戦法で戦果を挙げている。ミッドウェー海戦では空母「赤城」を護衛し、その処分という重い任務も担った。この時、自沈を望んだ赤城艦長・青木泰二郎大佐を、有賀司令の説得によって半ば強引に救い出してもいる。

そして——チラチャップでの創意工夫も、赤城生存者を救った献身も、ベラ湾の闇の中では何の役にも立たなかった。視界不良の中でのレーダー奇襲という、この艦がこれまで遭遇したことのない種類の脅威によって、嵐は僚艦「萩風」と共に、乗員178名を海に残して沈んでいった。

■ 陽炎型16番艦「嵐」基本諸元 ■
建造所
舞鶴海軍工廠
起工 1939年5月4日(仮称第112号艦)
命名 / 進水 / 竣工
1940年2月23日 / 4月22日 / 1941年1月27日
基準排水量
2,033t
全長118.5m
最大速力
35.0ノット
出力52,000馬力
主砲
三年式12.7cmC型連装砲
3基6門
魚雷
61cm4連装発射管×2基
(九三式酸素魚雷)
艦長(戦没時)
杉岡幸七中佐
脱出も力尽き殉職
所属駆逐隊
第四駆逐隊(司令艦)
(萩風・舞風・野分)
最終結末
1943年8月6日
ベラ湾夜戦で戦没
戦死178名
郵便物の誤配から始まった、この艦の宿命

嵐は1939年5月4日、舞鶴海軍工廠で仮称第112号艦として起工した。1940年2月23日、僚艦「萩風」と同日に「嵐」と命名。4月22日進水、1941年1月27日に竣工し、第四駆逐隊司令駆逐艦として、司令・有賀幸作大佐を乗せて開戦を迎えた。有賀大佐は後に戦艦「大和」の沈没時艦長を務めることになる人物である。就役当初から、嵐は奇妙な悩みを抱えていた。「嵐」を縦書きにすると「山風」とも読めてしまうため、既に就役していた白露型駆逐艦「山風」宛の郵便物が誤って届くことが頻発したのである。両艦は所属部隊も異なり、必ずしも一緒に行動するわけではなかったため、「嵐」側はふりがなを、「山風」側は山と風の間に空白を入れるよう周知する事態になったという。

1942年2月末から3月にかけて、ジャワ島占領を控えたオランダ軍艦艇・商船がジャワ海域から逃げ出す動きを見せる中、これを逃さぬための通商破壊作戦が実行された。「チラチャップ沖海戦」である。嵐は僚艦「野分」、そして重巡「高雄」「愛宕」「摩耶」と共に、次々と標的を撃沈・拿捕していった。オランダ船トラジャ、英掃海艇スコット・ハーレー、豪グリムスビー級スループ・ヤラなど、わずか数日で商船・軍艦あわせて多数を仕留めるという大戦果だった。

■ 嵐 全戦歴ハイライト ■
【1942年3月】:チラチャップ沖海戦、爆雷で英タンカーを撃沈
【1942年6月】:ミッドウェー海戦、赤城処分と艦長救助
【1942年8月】:ラビ攻略作戦、ミルン湾突入
【1943年7月22日】:水上機母艦「日進」沈没、生存者救助
【1943年8月6日】:ベラ湾夜戦で戦没、艦長も殉職
エピソード① 爆雷で軍艦を沈めた男たち

チラチャップ沖海戦の中で、嵐には忘れがたい一幕がある。国籍不明の英籍タンカーに対して砲撃を行った際、12.7cm砲弾は船体を貫通するものの、なかなか致命的な損害には至らなかった。業を煮やした第四駆逐隊司令・有賀幸作大佐は魚雷での攻撃を命じたが、これに対し水雷長が意外な提案をする——爆雷を使ってはどうか、というのだ。爆雷は本来、潜水艦を対象とした兵器であり、水上艦に対して用いることは通常ありえない。しかし、砲撃で開いた貫通穴に爆雷を投下すれば、その衝撃で穴を押し広げられるのではないか、という発想だった。

実行してみると、狙い通り爆雷の爆発が貫通穴を拡張させ、さらにその穴を狙って爆雷を放り込むことで、タンカーはついに撃沈された。水上艦を爆雷で沈めるという前代未聞の戦法は、嵐の艦歴における異色の勲章として記録されている。

エピソード② ミッドウェー——赤城の処分と、艦長の強制救助

1942年6月、ミッドウェー海戦。空母「赤城」が集中攻撃を受けて航行不能となる中、嵐は赤城の生存者救助にあたった。しかし、この時艦長・青木泰二郎大佐は赤城への残留と自沈処分を願い出ていた。連合艦隊司令部はこの自沈願いを却下し、有賀大佐が説得を重ねた末、青木大佐は半ば強引に赤城から引き離され、嵐へと救出された。最終的に、日本海軍主力空母の中でも象徴的な存在だった赤城の処分は、第四駆逐隊に命じられ、嵐たちの魚雷によって実行されることになる。

救助された赤城・加賀の生存者たちは、狭い駆逐艦の艦内に収まりきらず、甲板上で吹きさらしになるほどの状態だった。これを見かねた有賀司令は「重傷患者を含む二千名が波しぶきに濡れている。人道問題なり。見るに忍びぬ。一刻も早く収容されんことを望む」という切迫した手旗信号を連合艦隊司令部へ送らせている。この訴えを受け、戦艦「陸奥」(舞風・萩風が収容していた加賀乗組員は「長門」)への移乗が実現した(嵐・野分から赤城乗組員が移乗したのは戦艦「榛名」だったという説もある)。

■ 救われた命の、その後
自沈を望んだ赤城艦長・青木泰二郎大佐を強引に救い出したこの判断が、後に彼にとって幸福だったのか、そうでなかったのか——それは誰にも分からない。しかし少なくとも、有賀司令が示した「重傷患者を波しぶきから救いたい」という切実な訴えは、極限状況における駆逐艦乗りたちの人間味を、静かに物語っている。
エピソード③ ラビ攻略戦から日進の喪失まで

1942年8月、ニューギニア島東部ミルン湾に連合軍の飛行場が発見されると、海軍はこれがラバウル基地攻撃の拠点になることを恐れ、攻略作戦に乗り出す。嵐は第十八戦隊(天龍・龍田)の指揮下でこの作戦に参加した。しかし上陸した海軍陸戦隊は連合軍の反撃で壊滅状態に陥り、増援もガダルカナル島攻防戦との兼ね合いで十分に送れないまま、戦況は悪化の一途をたどった。撤退が決定されると、嵐は撤収作業の傍ら、龍田と共にミルン湾へ突入して貨物船1隻を撃沈したが、陸戦隊の収容には漏れが出てしまう。作戦は完全な失敗に終わった。

1943年7月22日、嵐は僚艦「萩風」「磯風」と共に、戦車等の軍需物資を満載した水上機母艦「日進」を護衛し、ブーゲンビル島ブインへ向かっていた。到着直前、ショートランド北方20浬の海域で空襲を受け、日進は沈没する。嵐を含む3隻の駆逐艦は生存者の救助に奔走した。ラバウル帰投後、第四駆逐隊(萩風・嵐)のみが南東方面部隊・外南洋部隊(第八艦隊)・増援部隊(第三水雷戦隊)に編入され、ソロモン諸島に残ることになる。他の艦がトラックへ引き上げる際、磯風は魚雷と弾薬を萩風・嵐に供与していった。

エピソード④ ベラ湾夜戦——「火山」と化した最期

1943年8月6日、ブインおよびコロンバンガラ島への輸送のため、増援部隊はラバウルを出港した。第三水雷戦隊旗艦・軽巡「川内」(陸兵450名、物資130トン)はブインへ、駆逐艦4隻——第4駆逐隊司令・杉浦嘉十大佐座乗の「萩風」、「嵐」、第24駆逐隊「江風」、そして警戒隊の「時雨」(第27駆逐隊司令・原為一大佐)——はコロンバンガラ島へ向かう。輸送兵力は陸兵950名、物資90トン。日中の時点で、この輸送隊は既にアメリカ軍哨戒機に発見され、行動を報告されていた。しかし日本側は「敵有力部隊策動の恐れあり」程度にしか状況を把握しておらず、予定されていた水上偵察機の夜間哨戒も、天候不良を理由に中止されてしまう。

同日夜、輸送隊はコロンバンガラ島沖のベラ湾で、フレデリック・ムースブラッガー中佐指揮下の米駆逐艦6隻(ダンラップ、クレイブン、モーリー、ラング、スタック、スタレット)と交戦する。天候は曇りで視界不良。萩風-嵐-江風-時雨の単縦陣は米軍のレーダーに完全に捕捉され、先制雷撃を受けた。敵艦隊の存在に気づいたものの、回避は間に合わなかった。まず江風が轟沈。続く集中砲火で嵐も左舷に被雷し、航行不能となる。搭載していた弾薬に引火し、艦は「火山」と形容されるほどの猛烈な炎に包まれた。

■ 8月6日深夜、ベラ湾の時系列 ■
日中
輸送隊、既に米軍哨戒機に発見・報告されていたが軽視される
米駆逐艦6隻のレーダーに捕捉され、先制雷撃を受ける
直後
「江風」轟沈。「嵐」も左舷被雷、航行不能に
その後
弾薬に引火、「火山」のごとく炎上。「萩風」も相次いで沈没
脱出後
杉岡艦長、ベララベラ島を目指し泳ぐも力尽き殉職。乗員178名戦死
■ 「東京急行」を止めた戦術の進化
この完全な奇襲は、複数方向からの同時雷撃・砲撃だったため、日本側は当初、水上艦艇・魚雷艇・飛行機による複合攻撃と錯覚したという。この戦法は、「東京急行」(鼠輸送)を撃破するためアーレイ・バーク中佐が考案した波状攻撃を、同期で後任のムースブラッガー中佐が引き継ぎ、レーダーを駆使して完成させたものだった。つまりどういうことか——嵐たちを沈めたのは単なる奇襲ではなく、米海軍が日本の夜間輸送作戦に対抗するために磨き上げてきた、戦術そのものの進化だった。
猫工艦の考察

嵐の本質は、既存の戦術・兵器の枠にとらわれず、現場での創意工夫によって困難を乗り越え続けた駆逐艦だったという点にある。爆雷で水上艦を沈めるという前代未聞の戦法、赤城艦長を自沈の淵から救い出した有賀司令の粘り強い説得——これらのエピソードは、嵐という艦とその乗員たちが、決められた手順だけでなく、その場の判断力と人間性で戦い続けていたことを物語っている。

しかし、その創意工夫も、ベラ湾では通用しなかった。レーダーによる完璧な奇襲という、これまで嵐が経験したことのない種類の脅威の前には、視認と勘に頼る戦術も、猛訓練で培った技量も、なす術がなかった。艦長・杉岡幸七中佐が脱出後、あと一歩のところで力尽きて海に消えていったという事実は、この海戦の理不尽さを何よりも雄弁に物語っている。

嵐が残したものは何か。それは、赤城艦長を救うために司令部へ切実な信号を送った有賀司令の人間味、そして水上艦を爆雷で沈めるという発想の柔軟さである。太平洋戦争後半、レーダーという技術格差が日本海軍を追い詰めていく中、嵐の最期はその転換点の一つを静かに示している。猫工艦は、創意工夫で戦い抜き、そして理不尽な奇襲に散った嵐の乗員たちに、深い敬意を表したい。

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■ 参考文献・資料

  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26・49・83・96『蘭印・ベンガル湾方面/南東方面海軍作戦各巻』朝雲新聞社
  • ・アジア歴史資料センター(JACAR)嵐関連公文書・第四駆逐隊戦時日誌戦闘詳報
  • ・当時「嵐」水雷長・海軍大尉宮田敬助「第四駆逐隊『嵐』『萩風』ベラ湾夜戦に死す」
  • ・当時二十七駆逐隊司令・海軍大佐原為一「二十七駆逐隊司令わがソロモン海の戦歴」
  • ・永井喜之・木俣滋郎「駆逐艦『萩風』『嵐』『江風』」『新戦史シリーズ 撃沈戦記』朝日ソノラマ、1988年
  • ・重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦』潮書房光人社、2014年
  • ・Wikipedia「嵐 (駆逐艦)」「陽炎型駆逐艦」「ベラ湾夜戦」
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