1945年2月20日午前3時27分、仏印沖。シンガポールへ向かっていた駆逐艦「野風」に、米潜水艦「パーゴ」の魚雷が命中した。艦は爆発し、ほとんど間を置かずに沈んだ。乗組員と便乗者あわせて209名が戦死し、僚艦「神風」が救い上げた生存者は、艦長の海老原太郎少佐を含む21名だった。便乗者には、戦艦「武蔵」の生存者も含まれていたという。
「野風」は峯風型の13番艦にあたり、非公式に「野風型」と呼ばれる改良型の1番艦である。舞鶴海軍工廠で1922年3月31日に竣工した一等駆逐艦で、後檣を後部へ移し、3番砲と4番砲を背中合わせに置いた新しい配置を、最初に取り入れた艦だった。竣工後の歳月の大半を、彼女は北の海で過ごす。大湊を拠点に北海道・千島方面の哨戒と船団護衛を続け、1943年にはキスカ島撤退作戦の支援にも加わった。
その「野風」が、23年目の最後に南へ向かった。米潜水艦が沈めた39隻の日本駆逐艦のうち、最後の1隻とされる艦の航跡を、この記事は辿る。
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峯風型は、12cm砲の3番・4番の間に2番・3番の連装魚雷発射管を置き、後檣をその間に設けていたため、主砲と発射管の統一指揮や給弾に難があった。大正7年度計画の6隻のうち最後の野風、波風、沼風は、後檣を後部に移し、3番・4番砲を背中合わせに配置し、魚雷発射管を連続して置いた。これが「野風型」または「峯風改型」の名の由来である。
竣工と同時に、「野風」は波風、沼風、第一駆逐艦(のち神風)とともに第1駆逐隊を編成し、千島・北海道方面の交通保護に就いた。1933年3月3日の昭和三陸地震では、横須賀にいた「野風」は神風、沼風、電、雷とともに当日午後に出港し、翌4日早朝に岩手県の盛(現・大船渡市)に到着して救援にあたった。3月6日に敷設艦「厳島」が釜石に着くと、「野風」は同艦から物資を受け取り、7日に宮城県の女川へ運んでいる。
1938年からの日中戦争では、第1駆逐隊として華北・華中の沿岸を哨戒した。そして太平洋戦争が始まったとき、「野風」は北の大湊警備府に所在していた。
1941年12月4日、「野風」は大湊を出て北海道・千島方面の哨戒と護衛にあたった。開戦の主戦場は南だったが、北の海にも、守るべき航路があった。1942年4月15日、艦長が川橋秋文少佐から常盤貞蔵少佐に替わる。5月25日にはアリューシャン攻略作戦に関連して行動したが、予備として待機し、日本近海を出ることはなかった。その後も大湊を拠点に、北海道・横須賀間の船団護衛などを重ねた。
1943年5月17日、「野風」は細萱戊子郎中将の第五艦隊に一時編入される。アッツ島をめぐる戦いのさなかのことで、同じ第1駆逐隊の「神風」とともに千島方面へ送られた。6月15日に第1駆逐隊へ復帰したあと、7月にはキスカ島撤退作戦(ケ号作戦)の支援に加わる。撤退部隊の周辺での支援という形の参加だった。
北の海の仕事は、勝つためではなく、守るための仕事だった。「野風」は開戦から3年以上、その北の持ち場にいた。
1943年11月、「野風」の艦長は海老原太郎少佐に替わった(20日着任)。そして12月18日、第1駆逐隊の旗艦「沼風」が、司令の渡辺安正を含む乗組員全員とともに沈む。第1駆逐隊は3隻となり、司令の席は空いた。海老原少佐は司令代理を兼ねることになり、「野風」はやがて駆逐隊の旗艦を務めることになる。
1944年2月2日、入渠を終えた「野風」は第1駆逐隊旗艦として復帰した。3月17日には、日蓮丸と駆逐艦「白雲」を沈めた米潜水艦「タウトグ」の掃討に加わる。5月2日から5日にかけては、船団護衛中に暗礁に乗り上げ、プロペラ先端とソナーを損傷し、速力が16ノットに制限された。9月には、僚艦の「波風」が米潜水艦の雷撃で艦尾を失い、「神風」が曳航して小樽へ向かう作戦に「野風」も護衛として加わっている。12月21日に大湊で入渠し、26日には「神風」と訓練を始めた。
「波風」の被雷は、資料により9月8〜13日とする記録と、9月18日とする記録がある。本記事は日付を「1944年9月」とした。
1945年1月、「野風」は連合艦隊に編入され、内海へ移った。22日には柱島で標的訓練を行い、26日に門司を出てヒ91船団を護衛し、シンガポールへ向かう。28日、船団の海防艦「久米」と「讃岐丸」が米潜水艦の雷撃で沈められ、生存者は鎮海へ送られた。船団はその後も台湾方面へ進んだ。
2月8日から11日にかけて、「野風」は第四航空戦隊(伊勢・日向)の北号作戦を支援せよという命令を受け、松田千秋少将の指揮下で馬公に到着する。ところが14日から16日にかけて、艦隊の速力についていけず、解放されて馬公へ戻った。2月16日、「野風」は約50名の便乗者を乗せ、シンガポールへ向けて馬公を出港する。その便乗者には、戦艦「武蔵」の生存者が含まれていた。
2月20日午前3時27分、仏印沖。「野風」はパーゴの雷撃を受け、爆発してほとんど間を置かずに沈んだ。「神風」は爆雷で反撃し、艦長の海老原少佐、機関長ら21名を救い上げた。戦死は209名にのぼる。第1駆逐隊は、この日に解隊された。「神風」は2月22日にシンガポールへ到着し、生存者を降ろしている。「野風」は4月10日、除籍された。
沈没位置は、日本語版Wikipediaが「カムラン湾」、英語版Wikipediaが「ニャチャン北方(北緯12度48分・東経109度38分付近)」、combinedfleet.comが「バレラ岬沖」と記しており、細部が一致しない。いずれも仏印のカムラン湾周辺の沖であり、本記事は「仏印沖」とした。なお、旧来の「東シナ海」という記述は、実際の位置と合わないため採用していない。
「野風」の本質は、北の持ち場を守り続けた艦が、最後に南へ呼び出されたという一点にある。開戦から1944年末まで、彼女の仕事の中心は北海道・千島方面の船団護衛と哨戒だった。主戦場から外れた持ち場で、旧式駆逐艦は静かに、しかし途切れることなく働き続けた。
それでも、1945年に入ると状況は変わった。南方航路は閉ざされ、日本の駆逐艦は残り少なくなり、北の艦も南へ呼ばれる。「野風」は、武蔵の生存者を含む約50名の便乗者を乗せ、シンガポールへの最後の航海に出た。第1駆逐隊の旗艦だった「沼風」を失い、僚艦の「波風」を曳航し、最後は「神風」に救われた21名だけが残った。ただし、この航海の細部は資料により異なり、本記事では確認できた範囲にとどめた。
米潜水艦が沈めた39隻の日本駆逐艦の最後が「野風」であったことは、戦争の終わりが近いことを示す数字のひとつでもある。猫工艦は、峯風型13番艦「野風」と、その乗組員、そして最後に乗り合わせた全ての人々に、深い敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・『丸スペシャル』第51号「日本の駆逐艦Ⅱ」潮書房、1981年
- ・伊藤大介「昭和三陸津波と軍隊」山本和重編『北の軍隊と軍都』(地域の中の軍隊1 北海道・東北)吉川弘文館、2015年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻・第9巻・第10巻、第一法規出版、1995年
- ・『世界の艦船』1987年5月号(通巻第379集)海人社「日本海軍艦艇史資料」
- ・Wikipedia「野風 (駆逐艦)」「神風 (2代神風型駆逐艦)」「峯風型駆逐艦」、English Wikipedia “Japanese destroyer Nokaze”、combinedfleet.com “IJN Nokaze: Tabular Record of Movement”