1944年7月6日、セレベス海。サンギ島(タフナ)を出てハルマヘラへ向かう駆逐艦「帆風」の艦内には、乗組員のほかに、118名の別の顔があった。直前に雷撃を受けて沈んだ輸送船「山宮丸」の生存者たちである。その帆風が、今度は米潜水艦「パドル」の魚雷を受けた。艦長の染谷英一大尉は戦死し、救われた人々の半数以上も、再び海に消えたと記録されている。
「帆風」は峯風型駆逐艦の12番艦として、舞鶴海軍工廠で建造され、1921年末に竣工した一等駆逐艦である。昭和三陸地震では岩手県久慈で救援にあたり、開戦時には空母「春日丸」(のちの大鷹)の護衛に就いた。翌1942年には軽空母「祥鳳」や重巡「那智」を護衛し、アリューシャンのキスカ攻略作戦にも加わっている。
「帆風」の艦歴は、護衛と救助の連続だった。北の霧の海から南西方面の船団護衛へ、23年間走り続けた旧式艦の最後の航海を、この記事は辿る。
→公試1,345t
1922年12月、「帆風」は峯風型の羽風・秋風・太刀風とともに第四駆逐隊を編成し、第一水雷戦隊に編入された。1933年3月3日、昭和三陸地震が発生すると、大湊要港部にいた「帆風」は僚艦とともに直ちに出動し、岩手県久慈で救援にあたっている。同じ第4駆逐隊の太刀風は青森県の鮫、羽風は岩手県の大槌に入っており、三陸の海岸線に分かれて被災地に向かった艦のひとつだった。
歴代艦長には、のちにキスカ島撤退作戦を指揮することになる木村昌福の名も見える(1930年11月〜1932年1月)。この作戦は「帆風」が1942年に加わったキスカ攻略とは逆の、島からの撤退だった。1938年からの日中戦争では、華北・華中沿岸の哨戒に従事している。
1941年11月28日、「帆風」は空母「春日丸」(のちの大鷹)を護衛して佐世保を出港し、高雄、パラオを経て、12月中旬に徳山へ戻った。このとき「帆風」は第3駆逐隊として第四航空戦隊に属し、開戦の日を南方への護衛航海のうちに迎えている。
1942年2月4日から9日には、軽空母「祥鳳」を横須賀からトラックへ護衛し、現地で訓練に協力した。その祥鳳は、同年5月の珊瑚海海戦で沈没する。4月10日に第五艦隊直属となった「帆風」は、29日に重巡「那智」を護衛して横須賀を出港、5月28日に大湊へ到着してキスカ攻略部隊に加わった。7月にはアッツからの帰路で館山へ寄って整備を受け、8月4日には水上機母艦「君川丸」を護衛してキスカへ向かっている。
「帆風」が護衛した春日丸、祥鳳、君川丸は、いずれも客船や補助艦から改装された艦だった。本来の軍艦より防御の薄いこうした艦を、潜水艦から守る目の役割が、旧式駆逐艦に与えられた。
1942年10月1日、「帆風」は南西方面艦隊の第一海上護衛隊に編入された。11月3日に門司を出てからは、日本と台湾を結ぶ船団の護衛が主な任務となる。1943年3月には石川島の造船所で修理と改造を受け、ソナーを装備した。4月11日に横須賀を発って、ボルネオのバリクパパン方面の船団護衛へ向かう。5月15日には吉永源少佐が艦長に着任した。
1943年7月1日、事件は起きた。6月27日にスラバヤを出て、ラバウル方面へ向かう船団を護衛していた「帆風」は、マカッサル海峡で米潜水艦「スレッシャー」の雷撃を受ける。艦首が大きく損傷し、中程度の被害となった。3日にマカッサルへ入って応急修理を受け、さらにスラバヤへ回って本格的な修理が行われた。
修理を終えた「帆風」は、10月18日から11月28日までスラバヤと横須賀を結ぶ船団護衛に従事して、再び横須賀で入渠した。11月15日、第一海上護衛隊は海上護衛総司令部の指揮下に入る。1944年3月1日には、染谷英一大尉が艦長に着任。3月21日には横須賀から青島への船団護衛に出て、4月5日に第九艦隊直属、4月15日から23日にかけては松六号船団を護衛して東京からサイパンまで走った。
1944年5月5日、「帆風」は南西方面艦隊の第四南遣艦隊に編入された。6月26日から7月1日まではハルマヘラからアンボンへの船団護衛に従事。ところが7月2日、急報が入る。サンギ島(タフナ)沖で輸送船「山宮丸」が雷撃を受けたのである。「帆風」はアンボンから緊急出撃し、7月5日までにタフナへ入って生存者118名を収容した。
7月6日、「帆風」はタフナを出てハルマヘラへ向かう。セレベス海、メナドの北北東約105海里の洋上で、米潜水艦「パドル」の魚雷が命中した。艦長の染谷英一大尉は戦死し、収容した山宮丸の生存者のうち半数以上も、帆風とともに犠牲となった。生存者の総数ははっきりしていない。「帆風」は9月10日、除籍された。
英語版Wikipediaは、7月2日のアンボン出発を「高速輸送」と記すが、より詳しい行動記録(Table of Movement)では山宮丸の生存者救助のための急行とされている。本記事は後者に従った。「山宮丸」の漢字表記は、英語表記(Yamamiya Maru)からの推定である。
「帆風」の本質は、護衛と救助で生きた艦が、その任務の延長線上で最期を迎えた、という一点にある。春日丸や祥鳳を護り、那智に従って北の海へ出、南西方面では船団の盾となり続けた。そして最後の仕事は、沈んだ船の生存者を救い出すことだった。
その救助の帰路に雷撃を受けたことは、あまりに皮肉である。助けた人々の半数以上が、助けてくれた艦とともに再び海に沈んだ。攻撃を受けた時点で艦内にいた人数、救われた人の総数は、確認できた資料に記載がなく、本記事でも断定を避けた。ただ、艦長の戦死と多数の死者という記録は動かない。
歴代艦長に名を連ねた木村昌福は、のちに「撤退」という逆の任務で歴史に名を残す。「帆風」自身は、撤退の機会を得ることなく、最後まで任務のなかで沈んだ。猫工艦は、峯風型12番艦「帆風」と、救われた人々を含む乗り合わせた全ての人々に、深い敬意を表したい。
▼ 関連記事
■ 参考文献・資料
- ・伊藤大介「昭和三陸津波と軍隊」山本和重編『北の軍隊と軍港』(地域の中の軍隊1 北海道・東北)吉川弘文館、2015年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・『丸スペシャル』第51号「日本の駆逐艦Ⅱ」潮書房、1981年
- ・海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)海軍辞令公報(部内限)各号
- ・Wikipedia「帆風 (駆逐艦)」「峯風型駆逐艦」、English Wikipedia “Japanese destroyer Hokaze”、combinedfleet.com “IJN Hokaze: Tabular Record of Movement”