1941年12月11日、ウェーク島。第四艦隊・第六水雷戦隊に所属していた駆逐艦「疾風」は、米海兵隊の沿岸砲の砲撃を受け、ウィルクス島沖で轟沈した。これが太平洋戦争における日本艦艇の戦没第一号である。開戦からわずか3日、峯風型の改良型として生まれた神風型9隻のうちの1隻が、日本海軍にとって最も苦い記録の担い手となった。
神風型(2代)は、峯風型の後期3隻「野風型」の改良型として、八八艦隊計画の一環で計画された艦隊型駆逐艦だった。当初27隻という大量建造が予定され、艦名に使う名称すら不足すると見込まれたため、竣工時は番号だけの艦名——「第一駆逐艦」「第三駆逐艦」……——で就役した。ワシントン海軍軍縮条約により建造は結局9隻にとどまり、1928年(昭和3年)8月、ようやく固有の艦名が与えられる。峯風型と兵装レイアウトはほぼ同一だが、艦幅を9インチ広げて復原性を高め、後期建造の4隻(追風・疾風・朝凪・夕凪)では魚雷装填時間を1分から40秒に短縮するなど、着実な改良が重ねられていた。
9隻は太平洋戦争の全期間、駆逐艦籍のまま最前線と後方支援の両方を渡り歩いた。ペナン沖海戦と米潜水艦ホークビルとの死闘を生き延びた1番艦「神風」、米潜水艦シャークを爆雷34発で撃沈した3番艦「春風」、第一次ソロモン海戦とコロンバンガラ島沖海戦を戦い抜いた9番艦「夕凪」——それぞれの艦が、20年以上前の設計でありながら、太平洋戦争のあらゆる局面に投入され続けた記録を残している。
神風型(2代)は、戦艦「長門」の建造に代表される八八艦隊計画の中で、主力大型駆逐艦として構想された。八六艦隊完成案・八八艦隊完成案をあわせ、当初は27隻もの建造が計画されており、この規模ゆえに「艦名として使える名称が足りなくなる」という、日本海軍にとって前例のない事態が懸念された。そのため竣工した艦には固有の名前ではなく、「第一駆逐艦」「第三駆逐艦」……という番号だけの艦名が与えられることになった。
だが1922年(大正11年)のワシントン海軍軍縮条約締結により、この壮大な計画は整理され、神風型の建造は結局9隻にとどまる。皮肉にも、艦名不足の心配は消え去った。1928年(昭和3年)8月1日、番号名だった9隻は一斉に固有の艦名——神風・朝風・春風・松風・旗風・追風・疾風・朝凪・夕凪——を与えられ、正式に「神風型」と呼ばれるようになった。峯風型・神風型の基本設計は、続く睦月型駆逐艦にも踏襲されていく。
神風型の兵装配置や機関は、峯風型最終3隻「野風型」とほぼ同一だった。だが復原性・安定性を高めるため艦幅を9インチ拡大し、基準排水量は1,400トン(峯風型は1,345トン)に増加。後期建造の4隻ではボイラーに開放缶室装置を初採用し、機関室の高温環境を大きく改善するなど、峯風型から着実に一歩進んだ設計改良が積み重ねられていた。
神風型9隻は、三菱長崎造船所・舞鶴要港部工作部・浦賀船渠・東京石川島造船所・藤永田造船所・佐世保海軍工廠と、実に多くの造船所で分担建造された。峯風型に続き、太平洋戦争を通じて7隻が戦没、終戦時に残存したのは「神風」のみ——という過酷な戦没率を記録している。
| 艦名 | 建造所 | 竣工日 | 特記・最期 |
|---|---|---|---|
| 神風(かみかぜ)★型名艦・終戦生存 | 三菱長崎造船所 | 1922.12.28 | ペナン沖海戦・米潜水艦ホークビルとの死闘を経てシンガポールで無傷の終戦を迎える。戦後は復員輸送に従事するも、1946.6.7、座礁した海防艦「国後」を救援中に自らも御前崎付近で座礁・放棄。同年除籍。 |
| 朝風(あさかぜ) | 三菱長崎造船所 | 1923.6.16 | 南方攻略作戦と船団護衛に従事。1944.8.23、リンガエン湾西方30浬付近で米潜水艦「ハッド」の雷撃を受け戦没。 |
| 春風(はるかぜ)★シャーク撃沈の殊勲艦 | 舞鶴要港部工作部 | 1923.5.31 | 主に船団護衛に従事。1944.10.24、ルソン海峡で米潜水艦シャークを爆雷34発で撃沈。終戦時は艦尾を失いながらも残存、船体の一部は京都府竹野港の防波堤に転用されるもアイオン台風で破壊、その後解体。艦名は後に護衛艦「はるかぜ」へ継承。 |
| 松風(まつかぜ)★睦月型第30駆逐隊に編入 | 舞鶴要港部工作部 | 1924.4.5 | 主に船団護衛に従事。1944.5.1、睦月型の第30駆逐隊へ編入。同年6.9、父島東北方40浬付近で米潜水艦「ソードフィッシュ」の雷撃を受け戦没。 |
| 旗風(はたかぜ)★睦月型第30駆逐隊に編入 | 舞鶴要港部工作部 | 1924.8.30 | 主に船団護衛に従事。1944.12.26、睦月型の第30駆逐隊へ編入。1945.1.15、台湾・高雄でヒ87船団護衛中、米海軍機の攻撃を受け戦没。 |
| 追風(おいて) | 浦賀船渠 | 1925.10.30 | 主に船団護衛に従事。1944.2.18、トラック島空襲で米海軍機の攻撃を受け戦没。 |
| 疾風(はやて)★太平洋戦争戦没第一号 | 東京石川島造船所 | 1925.12.21 | 1941.12.11、第四艦隊・第六水雷戦隊所属としてウェーク島攻略作戦に参加、米海兵隊沿岸砲の砲撃によりウィルクス島沖で轟沈。太平洋戦争における日本艦艇の戦没第一号となった。 |
| 朝凪(あさなぎ) | 藤永田造船所 | 1924.12.29 | 主に船団護衛に従事。1942年7月下旬、陸軍参謀・辻政信中佐便乗中に至近弾で損傷、辻中佐も負傷。1944.5.22、父島北西方沖で米潜水艦「ポラック」の雷撃を受け戦没。 |
| 夕凪(ゆうなぎ) | 佐世保海軍工廠 | 1925.4.24 | 第一次ソロモン海戦に参加、以後コロンバンガラ島沖海戦を含むニュージョージア島の戦いで輸送隊として常に最前線に投入。1944.8.25、ルソン島北西岸で米潜水艦「ピクーダ」の雷撃を受け戦没。 |
1941年12月11日、開戦からわずか3日で、「疾風」はウェーク島攻略戦において米海兵隊沿岸砲の砲撃を受け、瞬時に轟沈した。同じ戦いで睦月型「如月」も戦没しているが、時刻・戦況の記録上、「疾風」の喪失こそが太平洋戦争における日本艦艇戦没の第一号とされている。竣工から16年、峯風型・神風型という「艦隊駆逐艦の原型」を担った1隻が、太平洋戦争という4年近くに及ぶ長い戦争の、その最初の一頁に名を刻んだのである。この戦いは日本軍の当初の戦力評価の甘さを露呈させ、後に続く多くの艦の運命を予感させる、苦い幕開けとなった。
戦争末期、神風型の「松風」「旗風」は、いずれも睦月型駆逐艦の第30駆逐隊へ編入されている。「松風」は1944年5月1日、「旗風」は同年12月26日、それぞれ竣工から20年を超える艦体のまま、睦月型の生き残りと肩を並べて最前線任務にあたった。峯風型の「秋風」が同じ第30駆逐隊に編入されていた事実とあわせ、日本海軍が戦争末期、艦型の垣根を越えて、動ける艦をかき集めるように運用していたことを物語っている。「松風」は編入後まもなく父島沖で戦没し、「旗風」も高雄で戦没するなど、この編入が必ずしも延命にはつながらなかった。
神風型で唯一終戦まで生き延びた「神風」は、戦後、復員輸送に従事していた。だが1946年6月、座礁した海防艦「国後」を救援しようとした際、自らも御前崎付近で座礁し、放棄されることになる。戦争中の幾多の危機を切り抜けた艦が、平和な戦後の救難活動でその生涯を終えたという結末は、駆逐艦という艦種が最後まで「誰かを助けようとする」存在であり続けたことを、静かに物語っている。
神風型(2代)の本質は、当初27隻という大量建造が計画され「艦名が足りなくなる」とまで危惧されながら、軍縮条約で9隻に縮小され、そしてその9隻もまた、太平洋戦争でほとんどが失われていったという一点にある。峯風型の改良発展型として着実な技術的進歩を積み重ねた艦型だったが、その9隻中7隻が戦没するという結果は、艦の性能や設計の優劣だけでは測れない、戦争という現実の過酷さを物語っている。
しかし神風型の物語は、単なる喪失の記録ではない。「春風」がシャークを撃沈した戦果、「疾風」が太平洋戦争最初の犠牲となったという歴史的な重み、そして「松風」「旗風」が神風型のまま睦月型の艦隊に加わって戦い続けたという事実——これらは、艦型という区分を超えて、日本海軍の駆逐艦全体が一つの大きな運命共同体として機能していたことを示している。
神風型が残したものは何か。それは、開戦から終戦まで、太平洋戦争という長い戦争の全期間を通じて戦い続けた記録そのものである。太平洋戦争最初の犠牲艦「疾風」から、終戦後の救難活動でその生涯を終えた「神風」まで——猫工艦は、艦名すら足りなくなると心配されたこの艦型の9隻すべてに、深い敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書31『海軍軍戦備〈1〉昭和十六年十一月まで』、戦史叢書46『海上護衛戦』朝雲新聞社
- ・岩重多四郎『日本海軍小艦艇ビジュアルガイド 駆逐艦編』大日本絵画、2012年
- ・片桐大自『聯合艦隊銘銘伝』光人社、1993年
- ・『日本駆逐艦史』世界の艦船1992年7月号増刊第453集、海人社、1992年
- ・雨ノ宮洋之介『駆逐艦戦記 駆逐艦「神風」電探戦記』光人社、2011年
- ・牧野茂、福井静夫編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年
- ・Wikipedia「神風型駆逐艦 (2代)」「神風 (2代神風型駆逐艦)」「春風 (2代神風型駆逐艦)」「疾風 (2代神風型駆逐艦)」