1943年12月18日、夜9時。沖縄の東の海で、船団を護衛していた駆逐艦「沼風」は、「爆雷攻撃中」と打電した。やがて米潜水艦「グレイバック」の魚雷が命中し、「沼風」は夜明けまで持ちこたえたのち、沈んだ。第1駆逐隊司令の渡辺大佐、艦長の山下喜義少佐を含む173名は、全員が戦死したとされる。
「沼風」は、峯風型駆逐艦の15番艦、すなわち番号のうえで15隻の最後の一隻にあたり、「野風型」の3番艦でもある。舞鶴海軍工廠で1922年7月24日に竣工し、神風・野風・波風とともに第1駆逐隊を組んで、千島・北海道方面の交通保護に就いた。太平洋戦争では大湊を拠点に北の海を守り続けた艦である。
その北の艦が南へ呼ばれたのは、沈む二十日足らず前のことだった。1943年11月30日付で海上護衛総司令部の第一海上護衛隊に編入され、九州・沖縄方面の船団護衛に就いた「沼風」は、着任後まもなく最後の航海に出る。しかも、雷撃した「グレイバック」もまた、約2か月後に東シナ海で消息を絶った。護衛の夜に沈んだ艦の航跡を、この記事は辿る。
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「沼風」は、1921年8月10日に舞鶴海軍工廠で起工され、翌1922年2月25日に進水した。竣工は7月24日である。艦長心得として最初に名が挙がるのは、柳沢恭亮中佐だ。同年12月28日、野風・波風、そして第一駆逐艦(のちの神風)とともに第1駆逐隊を編成し、千島・北海道方面の交通保護を担った。
野風型は、峯風型の砲と魚雷発射管の配置の弱点を改め、後檣を後部に移して3・4番砲を背中合わせに置いた改良型である。その最後の一隻が「沼風」だった。日中戦争では、華北・華中の沿岸作戦にも参加している。
1933年3月3日、昭和三陸地震が起きたとき、「沼風」は横須賀港にいた。同日の午後、神風・野風、そして第6駆逐隊の電・雷とともに出港し、翌4日の早朝までには被災地の沿岸に到着して、救援にあたっている。後続の敷設艦「厳島」は6日に釜石へ着いた。
その後の「沼風」は、第1駆逐隊の一員として北方の海を守る。日中戦争では華北・華中の沿岸作戦に加わり、太平洋戦争を迎えたときは大湊警備府に所属していた。1942年5月のアリューシャン作戦では予備部隊に回り、日本近海を出ていない。
日本語版Wikipediaの「沼風」の項は、4日早朝までに宮城県の女川に到着したと記す。一方、当サイトの野風の記事は、同じ出港について、4日早朝に岩手県の盛へ着いたとしている。本記事は、到着地を特定せず「被災地沿岸」とした。つまり、5隻が当日午後に出港して翌朝には現地にいたことは確かだが、各艦がどの港に着いたかは資料により揺れている。
1943年5月29日、アッツ島の守備隊が玉砕した。「沼風」はこの時期、アッツ・キスカへの輸送の護衛にも加わっていたとされる。北の海は、もはや静かな持ち場ではなかった。
6月6日、神風が米潜水艦S30を追い払った。「沼風」もこれを追撃していたが、濃霧の中で、支援に来た駆逐艦「白雲」と衝突する。損傷の程度は、確認できた資料に記載がない。これより先の6月2日には、山下喜義少佐が艦長に着任していた。そして夏、第五艦隊に一時編入されて、キスカ撤退作戦に関わったとする資料もある。ただし、その具体的な役割は確認できなかった。
日本語版Wikipediaに衝突の記述はなく、日付と相手は日本の軍艦(japanese-warship.com)の記述による。英語版Wikipediaも6月6日の白雲との衝突を記す。つまり、衝突の事実自体は複数の資料で一致するが、損傷の程度や修理の経過は確認できなかった。
1943年11月30日付で第一海上護衛隊に編入された「沼風」は、九州・沖縄方面の船団護衛に移った。そして12月15日、15隻の船団を護衛して高雄を出港し、門司へ向かう。
18日、「敵潜水艦ヲ発見」と打電。午後9時には「爆雷攻撃中」と打電した。しかし、米潜水艦「グレイバック」の魚雷は、貨物船「玉嶺丸」と「沼風」に命中する。「玉嶺丸」は沈み、「沼風」は夜明けまで持ちこたえたのちに沈んだ。沖縄の東、北緯26度29分、東経128度26分付近である。
沈没日は、日本語版Wikipediaの本文が12月19日早朝、同項の表と日本の軍艦(japanese-warship.com)が12月18日、米側記録も18日と19日に分かれる。本記事は「18〜19日」と記した。船団も、日本語版Wikipediaは高雄発の15隻、japanese-warshipは基隆から門司へ向かう第227船団とし、米側記録は貨物船4隻と護衛艦3隻の船団と記している。位置は日本語版が「沖縄南東」、米側が「那覇の東北東約50海里」と異なるが、座標は北緯26度29〜30分、東経128度26分でほぼ一致する。司令の名は、日本語版Wikipediaが「渡辺保正」、英語版Wikipediaが「Watanabe Yasumasa」(安正にあたるとみられる)と記し、本記事では氏名を特定せず「渡辺大佐」とした。つまり、細部は揺れているが、船団護衛中にグレイバックの雷撃を受け、全員が戦死したことは、どの資料も一致している。
「沼風」は1944年2月5日に除籍された。戦死者には、司令の渡辺大佐、艦長の山下喜義少佐のほか、砲術長の香月武彦、水雷長の亀卦川運七らが含まれる。
「沼風」を沈めたグレイバックは、その後も東シナ海で戦果を重ね、1944年1月4日に真珠湾へ戻った。しかし、同年2月下旬の10回目の哨戒で、日本側の航空機などの攻撃を受け、乗員全員とともに失われたとみられている。喪失日は資料により2月26日、27日と揺れ、米海軍は3月30日付で喪失と推定した。
「沼風」の本質は、15隻の最後の一隻が、船団の盾として最後まで持ち場にとどまったという一点にある。1922年に竣工した古い艦は、大湊の北の海から南の航路へ呼ばれ、護衛の任に就いた直後に、爆雷攻撃の電報を最後に沈んだ。「爆雷攻撃中」の一言は、護衛艦が潜水艦に立ち向かっていたことを、資料に残る形で示している。
ただし、確認できた資料には限界がある。1941年から1943年前半の「沼風」の行動は、日付つきの記述が少なく、ミッドウェーとキスカの時期の役割も曖昧だ。沈没の夜についても、生存者がいないため、艦内で何が起きたかを伝える証言はない。本記事は、確認できた事実だけを書き、わからない部分はわからないと記した。
資料で名が確認できたのは司令・艦長・砲術長・水雷長にとどまるが、173名の一人ひとりに持ち場があった。「沼風」という艦が、峯風型の最後の番号を背負い、護衛の務めを果たして沈んだことは、確かな事実である。猫工艦は、峯風型15番艦「沼風」と、船団の盾となった173名の乗組員たちに、深い敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・『丸スペシャル』第51号「日本の駆逐艦Ⅱ」潮書房、1981年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻・第9巻・第10巻、第一法規出版、1995年
- ・浅井将秀編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年
- ・伊藤大介「昭和三陸津波と軍隊」、山本和重編『北の軍隊と軍都』吉川弘文館、2015年
- ・Wikipedia「沼風 (駆逐艦)」「峯風型駆逐艦」、English Wikipedia “Japanese destroyer Numakaze”・”USS Grayback (SS-208)”、日本の軍艦(japanese-warship.com)「沼風」、uboat.net “USS Grayback”、DANFS “Grayback I (SS-208)”