1944年10月25日、サマール沖。米艦載機の猛攻で航行不能となった重巡「鳥海」のそばを、駆逐艦「藤波」は円を描くように旋回しながら警戒し続けた。一度は持ち直した鳥海だったが、再度の空襲で炎上・停止。日没に至り、藤波はついに修理不能と判断する。生存者を救出すると、自らの魚雷で鳥海に止めを刺し、発光信号を明滅させながら、まるで別れを惜しむかのように夕闇の中へ消えていった。漂流していた米護衛空母「ガンビア・ベイ」の乗員たちは、この時藤波の乗員が威儀を正し、敵兵である自分たちに向けて一斉に敬礼したのを目撃したという。
「藤波」は夕雲型駆逐艦11番艦として、藤永田造船所で建造され、1943年7月末に竣工した。涼波・早波と共に第三十二駆逐隊を編成し、輸送・護衛任務を中心に太平洋各地を転戦。竣工翌年のレイテ沖海戦では、栗田艦隊の一員として僚艦「鳥海」の最期を看取るという、駆逐艦乗りとして最も重い任務のひとつを果たした。
しかし——この鳥海への「介錯」から、わずか2日後。藤波もまた消息を絶った。救助したばかりの鳥海の生存者もろとも、藤波の乗員は誰一人生き残らなかった。この記事では、僚艦を看取った直後に自らも姿を消した藤波の、短くも重い艦歴を辿る。
約2,772〜2,940t(満載)
「藤波」は藤永田造船所で建造され、1943年7月末に竣工した。訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属した後、8月20日、涼波・早波と共に新編の第三十二駆逐隊に編入される。第二水雷戦隊への編入後は丁三号輸送部隊として前線へ進出し、以後は各方面の輸送作戦や船団護衛を中心に活動した。10月中旬には第三十二駆逐隊・軽巡「龍田」・戦艦「山城」「伊勢」と共に日本を出撃、トラック泊地を経てポナペ島への輸送任務を3回に分けて実施している。
11月上旬のラバウル進出では、僚艦「涼波」が壮絶な戦没を遂げた空襲の際、藤波にも魚雷1本が命中したが、幸運にも不発に終わった。その後も輸送作戦・護衛任務が続き、1944年1月には座礁事故で任務継続不能となった「時雨」の代役として戊二号輸送部隊に編入され、カビエンへの輸送を無事に成功させている。
1944年6月、マリアナ沖海戦(あ号作戦)。第三十二駆逐隊(玉波・藤波・浜波)は前衛部隊として参加するが、海戦は日本側の大敗に終わる。海戦後、僚艦「早波」が米潜水艦「ハーダー」により撃沈され、藤波は玉波・浜波と共に生き残った。しかし7月7日、マニラ湾口で今度は「玉波」が米潜水艦「ミンゴ」の雷撃を受け轟沈。玉波のいるあたりに立ち昇る火炎と爆炎を認めた藤波は反転し、断続的に捜索と爆雷攻撃を行ったが、生存者の手がかりはついに掴めなかった。
第三十二駆逐隊は夕雲型2隻(藤波・浜波)にまで消耗した。8月には潜水艦の猛攻を受けたヒ71船団の護衛にあたり、多数の僚船が撃沈される中を生き延び、タンカー「旭邦丸」の護衛任務も果たしている。10月、捷一号作戦発動に伴うレイテ沖海戦で、藤波(浜波と共に)は栗田健男中将指揮下の第一遊撃部隊(栗田艦隊)に所属することになった。
早波・玉波と僚艦を次々に失いながら、藤波は生き延び続けた。つまりどういうことか——太平洋戦争末期、生き残った艦にはより過酷な戦場が待っていた。第三十二駆逐隊の消耗史は、藤波をレイテという決戦の舞台へと導いていった。
1944年10月25日、サマール沖海戦。米護衛空母部隊との予期せぬ遭遇戦の中、重巡「鳥海」は米艦上機の猛攻を受け航行不能に陥った。付近には撃沈された米護衛空母「ガンビア・ベイ」の乗員が漂流していたという。一度は持ち直した鳥海だったが、追撃してきた米艦載機の攻撃を受け再び被弾・大炎上し、完全に停止する。
藤波は動かなくなった鳥海のそばを円を描くように旋回しながら警戒を続け、再起を待った。しかし日没に至り、修理不能との判断が下される。藤波は鳥海の生存者を救出すると、自らの魚雷でこれに止めを刺した——僚艦への「介錯」である。そして発光信号を明滅させながら、別れを惜しむかのように夕闇の中へと消えていったという。この時、漂流していたガンビア・ベイの乗員たちに気づいた藤波の乗組員たちは、威儀を正し一斉に敬礼、敵兵に敬意を表したとも伝えられている。
僚艦を処分し、敵兵にすら敬礼を送る——極限の戦場においてなお、藤波の乗員たちは礼節を失わなかった。つまりどういうことか——勝敗を超えた場所に、駆逐艦乗りたちが守り続けた矜持があったということだ。
鳥海への介錯からわずか2日後の10月27日頃、藤波は米軍機の空襲を受け消息を絶った。10月26日昼過ぎ、駆逐艦「沖波」がセミララ島近海で藤波らしき駆逐艦が空襲により轟沈するのを目撃しているが、これが正確に藤波を指すものかは確定していない。アメリカ軍側の記録では、藤波は10月27日に艦載機の空襲で撃沈されたとされている。
鳥海が2019年に海底で発見されるまで、その正確な沈没状況は長らく謎に包まれていた。それは、鳥海の最期を見届けたはずの藤波もまた、証言を残すことなく海に消えてしまったからである。両艦に生存者が一人もいなかったため、藤波には長らく単独の慰霊碑が建てられることはなかった。現在、佐世保の旧海軍墓地東公園には、鳥海と藤波、2隻の連名による慰霊碑が建立されている。
藤波は鳥海の乗員を救い出したが、その2日後、救われた者たちもろとも自らも海に沈んだ。つまりどういうことか——この結末は、戦場における「救助」が必ずしも生還を意味しないという、残酷ながらも動かしがたい事実を物語っている。それでも、藤波が鳥海の生存者を見捨てず救い出したという事実そのものは、消えることなく記録に残っている。
藤波の本質は、太平洋戦争の最も過酷な局面において、なお礼節と責任を失わなかった艦だという点にある。炎上する鳥海を見捨てず旋回し続け、日没まで再起を待ち、最後は自らの手で処分するという重い決断——これは駆逐艦乗りとしての責任感の極致である。そして敵兵にすら敬礼を送ったという逸話は、戦争という非情な状況の中にも、人としての尊厳を保とうとした乗員たちの姿を伝えている。
しかし、藤波の物語には救いのない残酷さも同居している。鳥海の生存者を救ったその手で、2日後には自らも海に消え、救った者と救われた者が共に還らぬ人となった。この結末を美談として語ることは容易ではない。だが、藤波が最後まで果たそうとした責務——僚艦を看取り、生存者を救おうとした行為そのもの——は、結果がどうであれ、消えることのない事実として残る。
藤波が残したものは何か——それは、生存者が一人もいなかったがゆえに、長く単独の慰霊碑さえ持てなかった艦の、静かな存在感である。鳥海との連名の慰霊碑という形でしか記憶されえなかったこの艦の艦歴を、猫工艦はここに記録し、藤波と、その手で救われながら共に海に消えた鳥海の乗員たち、両方に敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第32駆逐隊戦時日誌・第一遊撃部隊戦時日誌
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書『捷号作戦』『レイテ沖海戦』『サマール沖海戦』関連巻
- ・山本平弥ほか『秋月型駆逐艦〈付・夕雲型・島風・丁型〉』潮書房光人社、2015年
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・Wikipedia「藤波 (駆逐艦)」「夕雲型駆逐艦」「鳥海 (重巡洋艦)」「サマール沖海戦」