夕雲型駆逐艦の全解説——「理想の駆逐艦」甲型の最終形と、生存者ゼロの結末

1945年(昭和20年)4月7日——坊ノ岬沖。戦艦「大和」の海上特攻を護衛していた駆逐艦「朝霜」が、米軍艦載機の猛攻を受けて消息を絶った。夕雲型駆逐艦19番艦、そしてこの艦型で最後まで生き残っていた1隻だった。「朝霜」の戦没をもって、夕雲型19隻は全艦が戦没した。姉妹艦「陽炎型」が19隻中18隻を失いながらも「雪風」1隻を生還させたのに対し、夕雲型には生き残った艦が1隻もいない。

夕雲型駆逐艦——陽炎型が計画速力35ノットに届かなかった反省から、船体を延長し、対空仰角75度のD型主砲塔を搭載した改良型として設計された。陽炎型と合わせて「甲型駆逐艦」と呼ばれ、米海軍からは1番艦の名にちなみ「高波級」と呼称された。「艦隊決戦の理想形」として計画されたこの艦型は、しかし1隻たりとも本来の艦隊決戦を経験することなく、ソロモンの鼠輸送、レイテの死闘、フィリピン防衛戦へと次々に投入されていく。

19隻のうち、潜水艦による喪失はわずか2隻。残る大半は水上戦闘・空襲・触雷によって失われた——それは、この艦型がいかに酷使され続けたかを物語る数字である。1番艦「夕雲」の竣工は開戦直前の1941年12月5日、最終艦「清霜」の竣工は1944年5月15日。理想を追い求めて設計されながら、竣工した時にはすでに「艦隊決戦」という想定戦場そのものが消え去っていた——夕雲型19隻、その全艦戦没という記録がここにある。

IJN DESTROYER · YUGUMO CLASS · 甲型駆逐艦 · 1941–1944 · 対空仰角75度D型砲塔搭載型 夕雲型駆逐艦(甲型)
竣工期間
1941〜1944年
全19隻(甲型の最終形)
基準排水量
2,077 t
満載 約2,940 t
全長
119.3 m
出力 52,000 馬力
最大速力
35 ノット
(艦尾延長で速力安定)
主砲
50口径12.7cm D型連装砲 3基6門
最大仰角75度(陽炎型は55度)
魚雷兵装
61cm4連装発射管2基8門
九三式酸素魚雷(陽炎型と同型)
建造所
舞鶴・藤永田・浦賀の3箇所
陽炎型より建造所を集約
米側呼称
TAKANAMI CLASS DD
「高波級駆逐艦」
戦没率
19隻中19隻(100%)
陽炎型(18/19)を上回る
「理想の駆逐艦」に足りなかった一つの数字

1939年(昭和14年)、日本海軍は昭和十四年度海軍軍備充実計画(④計画)を策定し、駆逐艦(甲)18隻分の予算を成立させた。当初、これらは陽炎型として建造される予定だった。しかし試験運転で陽炎型が計画速力35ノットに届かないという問題が発覚する。原因は船体形状にあると推測され、艦尾を延長した改良型が第116号艦(後の「夕雲」)から建造されることになった——これが夕雲型の始まりである。基本計画番号はF50(陽炎型はF49)。皮肉なことに、この速力不足の原因は後に推進器の形状改善によって解決され、既存の陽炎型各艦も35ノット超を発揮できるようになる。それでも夕雲型の建造は既に動き出しており、船体延長で後甲板が広くなり、艤装がしやすくなるという副産物も得られた。

外観上、陽炎型との最大の違いは主砲塔にある。陽炎型のC型砲塔(最大仰角55度)に代わり、夕雲型は最大仰角75度のD型砲塔を搭載、測距儀も高角対応化された。航空戦力の脅威増大を見据えた対空火力強化の狙いだったが、実際にはD型砲は平射砲の仰角を引き上げただけの構造にすぎず、大仰角での連射能力に乏しかった。結果として、夕雲型の対空戦闘能力は当初の期待には遠く及ばなかった。同世代の米フレッチャー級が完全な両用砲と対空射撃指揮装置を備えていたことと比べると、この差は決定的だった。

兵装以外にも改良点は多い。朝潮型で試験的に採用され良好な結果を残していた交流電源が、夕雲型で初めて本格的に採用された。艦橋も拡張され、内部容積の増大により昇降口が2箇所(陽炎型は1箇所)設けられるなど、乗員の動線にも配慮が加えられている。一方で建造所は舞鶴・藤永田・浦賀の3箇所に絞られ、陽炎型に比べて量産体制が整理された。当初、1941年策定の⑤計画では夕雲型に続く次世代艦として島風型16隻の建造が構想されていたが、戦局悪化に伴う戦時急造計画(マル急計画)の見直しにより、島風型ではなく夕雲型の追加建造が優先されることになる。しかし1943年以降、夕雲型はもはや起工されず、代わって対空・対潜能力を重視した秋月型・松型の建造が優先されていった——夕雲型という艦型そのものが、戦局の変化に置き去りにされていく象徴でもあった。

■ 「理想」が裏切られた戦場
夕雲型は「漸減邀撃作戦」——艦隊決戦に備えた水雷襲撃戦——を主目的に設計された、日本海軍艦隊型駆逐艦の集大成だった。しかし実際に竣工した艦を待っていたのは、空母機動部隊の護衛、輸送船団の護衛、そしてガダルカナル島やニュージョージア諸島への「鼠輸送」だった。対空・対潜能力を欠いたまま、本来の戦場ではない任務に投入され続けた夕雲型は、次々と失われていくことになる。
■ 夕雲型 全戦歴ハイライト ■
【1941年12月5日】:1番艦「夕雲」竣工。夕雲型で唯一、開戦前に竣工
【1942年11月30日】:ルンガ沖夜戦、「高波」が孤軍奮闘し米重巡撃破に貢献するも戦没
【1943年10月6日】:第二次ベララベラ海戦、型名艦「夕雲」戦没
【1943年11月25日】:セント・ジョージ岬沖海戦、「巻波」「大波」戦没
【1944年10月24日】:レイテ沖海戦、「清霜」「浜風」が戦艦「武蔵」の最期を看取る
【1944年10月〜12月】:フィリピン防衛戦で急激に消耗、多数の艦を喪失
【1945年4月7日】:坊ノ岬沖海戦、最後の生存艦「朝霜」戦没。夕雲型19隻、全艦戦没が完結
夕雲型 全19隻——建造・艦歴・最期

夕雲型19隻は舞鶴・藤永田・浦賀の3箇所の造船所で建造された。型名艦「夕雲」は1943年10月にベララベラで戦没、最後まで生き残った「朝霜」も1945年4月、坊ノ岬沖で大和と運命を共にした。19隻中19隻——生存艦はゼロ。喪失原因の内訳は水上戦闘・空襲・触雷が大半を占め、潜水艦による喪失はわずか2隻にとどまる。これは、夕雲型が艦隊決戦ではなく、絶え間ない輸送・護衛任務の最前線で酷使され続けたことを如実に物語っている。

艦名 建造所 竣工日 特記・最期
夕雲(ゆうぐも)★型名艦 [諸元→] 舞鶴海軍工廠 1941.12.5
(夕雲型唯一の戦前竣工)
第十駆逐隊司令駆逐艦として機動部隊直衛を務めた。1943.10.6、第二次ベララベラ海戦で戦没。24名がイカダで漂流の末生還、機関長以下27名がブーゲンビル島に帰還。初代艤装員長・仙波繁雄中佐。
巻雲(まきぐも) [諸元→] 藤永田造船所 1942.3.14 ミッドウェー海戦で空母「飛龍」を雷撃処分。1943.2.1、ケ号作戦(ガダルカナル撤収)中に触雷し航行不能、味方の雷撃処分を受け沈没。初代艤装員長・藤田勇中佐。
風雲(かざぐも) [諸元→] 浦賀船渠 1942.3.28 第十駆逐隊で唯一、外南洋での喪失を免れ長く生き残った艦。1944.6.8、渾作戦従事中にダバオ湾で米潜水艦の雷撃を受け戦没。
長波(ながなみ) [諸元→] 藤永田造船所 1942年6月 第三十一駆逐隊で長く隊の中核を担い、鼠輸送の主力として奮闘した。1944.11.11、オルモック湾で戦没。
巻波(まきなみ) [諸元→] 舞鶴海軍工廠 1942年8月 長波と共に第三十一駆逐隊を新編。1943.11.25、セント・ジョージ岬沖海戦で「大波」と共に戦没。
高波(たかなみ)★孤軍奮闘の艦 [諸元→] 浦賀船渠 1942年8月 1942.11.30、ルンガ沖夜戦(タサファロンガ海戦)で先頭艦として敵に発見され集中砲火を浴びるも、味方本隊を援護し米重巡撃破の戦果に貢献して戦没。米側呼称「高波級」の由来艦。
大波(おおなみ) [諸元→] 藤永田造船所 1943.1.20
(31駆編入日)
1943.11.25、セント・ジョージ岬沖海戦で巻波と共に戦没。
清波(きよなみ) [諸元→] 浦賀船渠 1943.2.25
(31駆編入日)
1943.7.20、ベララベラ島沖で戦没。夕雲型の中でも早期に失われた艦の一隻。
玉波(たまなみ) [諸元→] 藤永田造船所 1943年前半 単艦で二水戦に在籍した後、第三十二駆逐隊へ編入。1944.7.7、マニラ湾沖で戦没。
涼波(すずなみ) 浦賀船渠 1943年8月 藤波・早波と共に第三十二駆逐隊を新編。1943.11.11、ラバウル空襲で戦没。
藤波(ふじなみ) 藤永田造船所 1943年8月 1944.10.27、レイテ沖で座礁した「早霜」を救援すべく接近した直後、米軍機の空襲を受け「早霜」「沖波」の目前で轟沈。
早波(はやなみ) 舞鶴海軍工廠 1943年7月 1944.6.7、タウイタウイ泊地沖で戦没。谷風・雪風らと同時期に対潜哨戒に従事していた。
浜波(はまなみ) 舞鶴海軍工廠 1943年10月 1944.11.11、オルモック湾上陸作戦(多号作戦)で戦没。書類上は第三十一駆逐隊にも在籍。
沖波(おきなみ) 舞鶴海軍工廠 1944.2.10
(31駆編入日)
レイテ沖海戦で重巡「鈴谷」生存者を救助し、座礁した「早霜」に燃料補給も試みた。1944.11.13、マニラ湾空襲で戦没。
岸波(きしなみ) 浦賀船渠 1944.2.10
(31駆編入日)
1944.12.4、フィリピン沖で戦没。
朝霜(あさしも)★最後の生存艦 [諸元→] 藤永田造船所 1944.2.10
(31駆編入日)
レイテ沖海戦を生還し、第二十一駆逐隊に転出。北号作戦を経て坊ノ岬沖海戦(天一号作戦)に参加、1945.4.7、大和と運命を共にし戦没——夕雲型19隻の中で最後まで生き残った艦。
早霜(はやしも) 舞鶴海軍工廠 1944.2.20 サマール沖海戦で至近弾を受け燃料タンク損傷、栗田艦隊から落伍。応急修理で自力航行し追及するも、1944.10.27、セミララ島付近で再度の空襲を受け座礁・放棄。最期の詳細は判然としない。
秋霜(あきしも) 藤永田造船所 1944.3.11 パラワン水道で重巡「摩耶」の生存者720名以上を救助。レイテ沖海戦では軽巡「能代」の生存者も救助した。多号作戦従事中に損傷しマニラで応急修理中の1944.11.13、マニラ大空襲で戦没。初代艤装員長・平山敏夫少佐。
清霜(きよしも)★最終艦 浦賀船渠 1944.5.15〜16
(夕雲型最終竣工)
シブヤン海で戦艦「武蔵」を護衛、沈没後に約500名を救助した。1944.12.26、礼号作戦(ミンドロ島攻撃)で被弾炎上、23時15分に大爆発を起こし戦没。礼号作戦唯一の喪失艦。
エピソード① ルンガ沖夜戦——「高波」、たった1隻の盾 →単艦記事はこちら

1942年11月30日、ガダルカナル島タサファロング沖。田中頼三少将率いる第二水雷戦隊は、ドラム缶輸送のためこの海域へ向かっていた。輸送隊の先頭を航行していたのが「高波」だった。米艦隊にレーダーで捕捉されると、高波は真っ先に発見され、集中砲火を浴びる。この時、高波が敵の注意を一身に引き受けたことで、本隊各艦は反撃態勢を整える時間を得た。日本側はこの海戦で酸素魚雷の威力を見せつけ、米重巡4隻を撃破するという大戦果を挙げるが、その代償として高波は炎上・沈没した。輸送そのものは失敗に終わったが、高波が果たした「盾」としての役割は、この海戦の帰趨を大きく左右した。

エピソード② 「清霜」——武蔵を看取り、礼号作戦で散った最終艦

夕雲型最終艦「清霜」は、1944年10月24日のシブヤン海海戦で、僚艦「浜風」と共に戦艦「武蔵」の護衛を命じられた。集中攻撃で完全に継戦能力を失った武蔵が沈没すると、清霜は約500名の乗組員を救助している。その2ヶ月後、僚艦のほとんどが既に失われる中、清霜は「朝霜」と共に礼号作戦(ミンドロ島攻撃)に参加した。しかし12月26日夜、B-25の爆撃を受け左舷中部に被弾。重油タンクの火災が艦全体に広がり、23時15分、大爆発を起こして沈没した。礼号作戦は日本海軍が太平洋戦争終盤に得た数少ない戦術的勝利とされるが、清霜はその中で唯一の喪失艦となった。

■ 語られにくい艦たちの記録
高波や清霜のように、戦記の中で繰り返し語られる艦がある一方、「玉波」「岸波」のように、資料の乏しさから艦歴の詳細があまり知られていない艦も少なくない。玉波は単艦での行動が多く、1944年7月、マニラ湾沖で静かに姿を消した。岸波もフィリピン防衛戦の消耗の中、同年12月に戦没している。派手な戦果や劇的なエピソードが残されていないというだけで、これらの艦の乗員たちが果たした任務の重みが軽くなるわけではない。むしろ、記録の少なさそのものが、この艦型がどれほど絶え間ない実務任務に追われ続けていたかを物語っている。
エピソード③ 「朝霜」の最期——大和と共に、夕雲型19隻の物語を締めくくる →単艦記事はこちら

1944年11月15日、「朝霜」は第三十一駆逐隊から第二十一駆逐隊(初霜・霞)に転出し、そのまま終戦まで生き延びる数少ない古参艦となった。1945年1月には北号作戦にも参加し、貴重な戦略物資を本土へ運んだ。しかし4月7日、坊ノ岬沖海戦(天一号作戦)で戦艦「大和」の海上特攻に随伴した朝霜は、米軍艦載機の猛攻の中で消息を絶つ。この時点で、夕雲型19隻の中で残っていたのは朝霜ただ1隻だった。陽炎型の「雪風」が奇跡的に生還を果たしたのとは対照的に、朝霜の戦没によって、夕雲型19隻は文字通り全滅という結末を迎えることになった。

■ 「雪風」と「朝霜」、対照的な最後の1隻
甲型駆逐艦38隻(陽炎型19隻・夕雲型19隻)の中で、終戦まで生き残ったのはただ1隻、陽炎型の「雪風」だけだった。夕雲型の最後の生存艦だった朝霜は、僚艦がすべて失われた後もなお約半年間戦い続けたが、最終的には坊ノ岬沖で力尽きた。つまりどういうことか——夕雲型は、生存の可能性が「雪風」よりもさらに厳しい戦場に置かれ続けた艦型であり、その最後の1隻でさえ生き残ることは叶わなかった。
猫工艦の考察:「理想」の艦が辿った、生存者ゼロという結末

夕雲型の本質は、「艦隊決戦のための理想の駆逐艦」として設計されながら、その理想が発揮される戦場を一度も与えられなかった艦型だという点にある。対空仰角75度のD型砲塔という改良は、対空戦闘の脅威増大を見据えた先進的な発想だったが、実戦では連射性能の低さが露呈し、真に必要とされた能力を提供できなかった。皮肉なことに、この艦型が実際に投入されたのは、輸送・護衛・撤退支援という、設計思想とはかけ離れた任務ばかりだった。

「高波」の孤軍奮闘、「清霜」の武蔵護衛と礼号作戦での最期、「朝霜」が坊ノ岬沖で見せた最後まで戦い続ける姿——これら19隻それぞれの艦歴は、単なる技術的な優劣を超えた、乗員たちの献身の記録でもある。19隻中18隻を失いながらも「雪風」1隻を生還させた陽炎型と比べ、夕雲型は生存艦をただの1隻も残さなかった。この違いは、単なる運の差ではなく、夕雲型がより過酷な戦局——制空権・制海権をすでに失いつつあった時期——に、より集中的に投入され続けたことの証左でもある。

夕雲型が残したものは何か。それは、「理想」を追い求めて設計された艦型が、現実の戦局の前にどれほど無力であり得るかという、重い教訓である。19隻という数字、そして生存者ゼロという結末は、太平洋戦争後半における日本海軍の消耗の激しさを、これ以上ないほど雄弁に物語っている。猫工艦は、艦隊決戦を夢見ながら、その夢が叶うことのないまま海に消えていった夕雲型19隻すべてに、深い敬意を表したい。

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理想を追い求め、全艦が海に消えた——夕雲型19隻の意志を、その身に纏え

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■ 参考文献・資料

  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書31・56『海軍軍戦備(1)/海軍捷号作戦(2) フィリピン沖海戦』朝雲新聞社
  • ・アジア歴史資料センター(JACAR)夕雲型各艦関連公文書・第十駆逐隊/第三十一駆逐隊/第三十二駆逐隊/第二駆逐隊戦時日誌
  • ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社〈福井静夫著作集第5巻〉、1993年
  • ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • ・岩重多四郎『日本海軍小艦艇ビジュアルガイド 駆逐艦編』大日本絵画、2012年
  • ・福田幸弘『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』時事通信社、1981年
  • ・Wikipedia「夕雲型駆逐艦」「夕雲 (駆逐艦)」「巻雲 (夕雲型駆逐艦)」「早霜 (駆逐艦)」「秋霜 (駆逐艦)」「清霜 (駆逐艦)」「坊ノ岬沖海戦」
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