僚艦「梅」を見送り、今も小名浜港に眠る駆逐艦——「汐風」の全記録

1945年1月31日午後3時、台湾最南端ガランピ岬南方20海里。アパリへの緊急輸送任務に向かっていた駆逐艦「汐風」と、僚艦「梅」「楓」は、B-25爆撃機12機とP-47戦闘機4機の空襲を受けた。「梅」は直撃弾と至近弾により機関部を損傷し、20度ほど傾斜したまま航行不能に陥る。浸水を防ぐ手立てはもはや残されていなかった。「梅」の生存乗員全員が退艦したのを見届けた後、「汐風」は自らの手で「梅」を砲撃処分した。竣工からわずか半年余りで海に消えていく僚艦を、「汐風」は最後まで見届けたのである。

「汐風」は峯風型駆逐艦の8番艦として、舞鶴海軍工廠で1920年5月15日に起工、同年10月22日に進水、1921年7月29日に竣工した。空母「龍驤」の護衛、蘭印攻略戦でのオランダ掃海艇撃沈、そして太平洋戦争後半には南方輸送船団の護衛任務——「汐風」はその艦歴の中で、幾度となく米潜水艦の「群狼作戦(ウルフパック)」に翻弄される輸送船団を目撃し、時に守り、時に守り切れずに終わってきた。

そして「汐風」の物語は、太平洋戦争の終わりでも途切れなかった。終戦後、船体は解体された姉妹艦「澤風」と同じ福島県小名浜港へと運ばれ、防波堤として埋設された。「澤風」が1965年に撤去されたのに対し、「汐風」は今もなお、その場所に眠り続けている。2000年には、この防波堤について解説するプレートが設置され、艦尾部分のシルエットを囲む形でタイル舗装がなされている。竣工から100年以上を経た今も、「汐風」は静かに、その存在を伝え続けている。

■ 峯風型8番艦「汐風」基本諸元 ■
建造所
舞鶴海軍工廠
起工 1920年5月15日
進水・竣工
1920.10.22 → 1921.7.29
初代艦長(心得)高橋為次郎少佐
基準排水量
1,215t(竣工時)
→公試1,345t
全長 102.6m
最大速力
39.0ノット(計画)
出力38,500馬力
主砲
最終時:三年式12cm単装砲1門
回天搭載艦への改造で大幅減
最終兵装
25mm連装機銃6基・13mm単装8挺
魚雷・機雷関係は全て撤去
所属部隊
第三駆逐隊(島風・灘風・夕風)
第一航空艦隊第四航空戦隊他
特筆データ
回天搭載艦へ改造(回天4艇)
僚艦「梅」を自ら処分
最終結末
1948.8.25 小名浜港の防波堤に
現在も現地に現存
前史——潜水艦との衝突事故、そして龍驤との日々

竣工した「汐風」は横須賀鎮守府に所属し、同年12月、第三駆逐隊に編入された。1928年3月9日午前11時、横須賀湾で魚雷発射訓練中、速力試験を実施していた潜水艦「伊21」と衝突事故を起こし損傷、横須賀で修理を受けている。以後、第三駆逐隊は大湊要港部、横須賀鎮守府、横須賀警備戦隊と、幾度も所属を変えながら日本近海での任務を続けた。1937年からの日中戦争では華南沿岸作戦に参加している。

太平洋戦争開戦時、「汐風」は第一航空艦隊第四航空戦隊第三駆逐隊に所属していた。1941年11月29日、空母「龍驤」を護衛して佐世保を出港、12月5日にパラオへ到着し、以降「龍驤」と行動を共にする。1942年3月2日、ビリトン島南方80浬地点付近で、「汐風」は僚艦「松風」とともにオランダ海軍の掃海艇「エンデ」を撃沈した。同年4月には重巡「鳥海」の護衛でシンガポールから横須賀へ帰投、その後アリューシャン攻略作戦(AL作戦)に参加するため大湊へ移動し、特設水上機母艦「君川丸」の護衛にあたっている。

■ 「汐風」の全戦歴ハイライト ■
【1921.7.29】:舞鶴海軍工廠で竣工
【1928.3.9】:横須賀湾で潜水艦「伊21」と衝突事故
【1941.11-12】:空母「龍驤」護衛でパラオへ
【1942.3.2】:「松風」と共にオランダ掃海艇「エンデ」撃沈
【1943.9.13】:舟山群島沖、輸送船「大和丸」が被雷沈没
【1943.10.15】:台湾彰化沖、輸送船「志かご丸」沈没
【1943.10.27-28】:奄美大島沖、ウルフパック攻撃で「加茂丸」「富士丸」沈没
【1943.12.17】:沖縄南方、「さらわく丸」ほか損傷
【1944.10.17-18】:ルバング島沖、「あらびあ丸」「鎮西丸」「白鹿丸」喪失
【1945.1.31】:パトリナオ輸送作戦、僚艦「梅」を自らの手で処分
【1945.2.19】:呉で回天搭載艦への改造を受ける
【1945.8.15】:呉にて無傷で終戦
【1948.8.25】:小名浜港1号埠頭先端に防波堤として埋設。現存
エピソード①——ウルフパック、船団を切り裂く狼たち

1943年10月24日午後4時50分、「汐風」は貨客船「加茂丸」「富士丸」「鴨緑丸」で編成された門司行きのマ08船団を護衛して基隆を出港した。だが27日未明、奄美大島久慈湾西方108km地点付近で、船団は米潜水艦「グレイバック」「シャード」の群狼作戦(ウルフパック)による攻撃を受ける。「シャード」の魚雷が「加茂丸」の船首に命中し沈み始め、午後0時40分に船体放棄。停止して救助にあたっていた「富士丸」にも「グレイバック」の魚雷が命中し、午前6時50分に沈没した。

「鴨緑丸」は富士丸の生存者救助を終えて避退したのち、進路を戻して航行を再開する。「汐風」は引き続き救助活動を続けたが、午後0時25分、今度は「グレイバック」の魚雷が「鴨緑丸」に命中——幸い不発だったものの、「汐風」はこれ以上の危険を避けるため救助作業を打ち切らざるを得なかった。28日午後8時、「汐風」と「鴨緑丸」はようやく門司に到着する。一方、救助されなかった漂流者や「加茂丸」乗船者たちは、なおも浮いていた同船に戻って応急修理を行い、久慈湾に座礁させることで辛くも沈没を免れさせた。1つの船団が、複数の潜水艦による波状攻撃で次々と食い荒らされていく——このマ08船団の悲劇は、太平洋戦争後半の輸送船団護衛が置かれた過酷な現実を象徴していた。

■ マ08船団、ウルフパックの一夜 ■
0:27
「加茂丸」被雷、船体放棄へ
6:20-6:50
救助中の「富士丸」に被雷、沈没
12:25
「鴨緑丸」にも被雷(不発)、救助作業打ち切り
その後
「加茂丸」乗船者、応急修理の末に自力座礁で生還

翌年10月17日夜、「汐風」はマニラからミリへ退避する輸送船団を護衛して出港する。18日朝、ルバング島北西25km地点で船団は米潜水艦「ブルーギル」に発見された。午前7時16分、ブルーギルが放った魚雷は「あらびあ丸」の機関室付近と、「鎮西丸」に命中——鎮西丸は沈没した。さらに正午過ぎ、損傷していた「あらびあ丸」に追い打ちの雷撃、そして午後8時15分には実際には別の船として船団に加わっていた「白鹿丸」にまで魚雷が命中し、この艦も沈んでいった。1隻の潜水艦が、1日のうちに3隻もの輸送船を沈める——これもまた、太平洋戦争末期の輸送船団が直面していた、絶望的な戦況の縮図だった。

■ 1隻の駆逐艦では守り切れない現実
「汐風」がどれほど懸命に船団を護衛しても、複数の潜水艦による同時多発的な攻撃の前では、その努力にも限界があった。1943年末から1944年にかけての太平洋戦争後半、日本の輸送船団護衛は、質・量ともに敵側が圧倒的優位に立つ中で行われていた。
エピソード②——梅、バシー海峡に消ゆ

1945年1月31日午前9時、「汐風」は松型駆逐艦「梅」「楓」とともに高雄を出港した。目的地はルソン島最北端のアパリ——同地防衛のための高雄陸戦隊、燃料、車両、弾薬を運ぶ輸送任務だった。輸送部隊は速力24ノットで南下したが、出撃からわずか2時間後、偵察のB-24に発見される。対空砲火で追い払ったものの、さらなる空襲は避けられない情勢となった。

午後3時、台湾最南端ガランピ岬南方20海里で、第14航空軍所属のB-25爆撃機12機、P-38・P-47戦闘機の空襲を受ける。「汐風」は至近弾により右舷高低圧タービンと右舷推進軸が損傷、速力低下と乗員4名の負傷を被った。「楓」も艦首に被弾。そして「梅」は直撃弾と至近弾を受け機関部を損傷、航行不能に陥る。船体は20度ほど傾斜し、浸水を防ぐ手立てはもはや失われていた。

「梅」の生存乗員全員が退艦したのを見届けた後、「汐風」は自らの手で「梅」を砲撃処分した。竣工からわずか半年余りで戦没する僚艦を、味方の手で見送るという、駆逐艦にとって最も重い任務の1つだった。「梅」の生存者を乗せた「汐風」と「楓」は、作戦の中止を受けて高雄へ引き返した。この一件は、後年『駆逐艦「梅」バシー海峡に消ゆ』として、生存乗組員自身の手記に残されることになる。

■ パトリナオ輸送作戦、最期の数時間 ■
9:00
「汐風」「梅」「楓」高雄出港、アパリへ
出撃2時間後
偵察B-24に発見される
15:00
B-25・P-38・P-47の空襲。「梅」航行不能、「汐風」「楓」も被弾
直後
「梅」生存者全員退艦後、「汐風」が砲撃処分

香り浅き「梅」、バシー海峡に消えたり

熾烈なる対空戦闘の果て、誕生六ヶ月余りで海底に没した愛艦への鎮魂歌

——当時「梅」乗組・海軍上等兵曹 市川國雄の手記より

エピソード③——回天搭載艦への変貌、そして無傷の終戦

「梅」を処分した「汐風」は基隆で応急修理を受けた後、1945年2月15日、大湊警備府部隊第1駆逐隊に編入される。翌16日には、本土呉港を目指す北号作戦の護衛に参加を命じられるが、暗黒と悪天候の中、速度を上げる艦隊本隊からはぐれてしまった。19日、単独で呉に到着した「汐風」は、修理と同時に大きな改造を受けることになる。特攻兵器「回天」の搭載艦として生まれ変わる改造だった。

魚雷兵装、機銃、機雷関係の設備が全て撤去され、主砲も1番砲を残して撤去。代わりに艦橋直前・2番砲跡・3番砲跡に25mm連装機銃を各2基、合計6基が装備された。艦形も大きく変わり、後部マストを3番砲跡直後に移設、その後方の上部構造物を全て撤去して、そこに回天を縦横2列ずつ、計4艇搭載するスペースが設けられた。艦尾にはスロープが新設され、回天を艦尾から直接発進させる構造となった。かつての峯風型駆逐艦の面影は、この改造によって大きく姿を変えていた。

3月1日、第1駆逐隊は連合艦隊付属となる。だが「汐風」が回天を発進させる機会が訪れることのないまま、終戦を迎える。1945年8月15日、「汐風」は呉にて無傷のまま終戦を迎えた。同年10月5日に除籍、12月1日には特別輸送艦(復員輸送艦)の指定を受け、復員輸送に従事している。竣工から実に24年、幾多の海戦と船団護衛、そして特攻兵器搭載艦への変貌までを経験した「汐風」は、最後は多くの日本人を故郷へ送り届ける任務で、その現役生活を終えた。

■ 今も現地に眠る、姉妹艦との対照的な結末
復員輸送任務を終えた「汐風」は解体され、船体は1948年8月25日、姉妹艦「澤風」と同じ福島県小名浜港に運ばれ、1号埠頭先端の防砂防波堤として埋設された。「澤風」が1965年に撤去されたのとは対照的に、「汐風」は今もその場所に眠り続けている。2000年には解説プレートが設置され、艦尾部分のシルエットを囲む形でタイル舗装が施された。竣工から100年以上を経た現在も、「汐風」は静かにその存在を伝え続けている。
猫工艦の考察

「汐風」の本質は、太平洋戦争を通じて幾度となく輸送船団護衛の最前線に立ち続け、その中で「守り切れなかった」という現実を何度も突きつけられながら、最後まで任務を全うし続けた艦だった、という一点にある。マ08船団でのウルフパック攻撃、ルバング島沖での連続喪失——「汐風」が目撃した悲劇の数々は、太平洋戦争後半の輸送船団護衛がどれほど絶望的な戦況の中で行われていたかを物語っている。

しかしこの艦の物語で最も重い意味を持つのは、僚艦「梅」を自らの手で処分したという1945年1月の出来事だろう。竣工わずか半年余りの艦を、生存者を救い上げた後に自ら沈めるという任務は、駆逐艦乗りたちにとって最も辛い決断の1つだったに違いない。それでも「汐風」はその任務を果たし、そして自らも回天搭載艦への変貌という、時代の要請に応え続けた。

「汐風」が残したものは何か。それは、太平洋戦争が終わってなお、防波堤として地域を支え続け、そして今もなお小名浜港の海底にその姿をとどめているという、静かな存在感である。派手な戦果を持たない艦だからこそ、私たちに戦争の現実——守ろうとしても守り切れない絶望、それでも任務を全うし続けた献身——を、100年以上を経た今も語り続けてくれる。猫工艦は、峯風型8番艦「汐風」と、その乗組員たち、そして「梅」の乗組員たちすべてに、深い敬意を表したい。

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■ 参考文献・資料

  • ・アジア歴史資料センター(JACAR)AL作戦経過概要・佐世保鎮守府戦時日誌・第一海上護衛隊戦時日誌・第百四号哨戒艇戦時日誌・第三十一戦隊戦時日誌・武装商船警戒隊戦闘詳報各号
  • ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
  • ・駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年
  • ・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編』光人社NF文庫、1995年
  • ・志賀博ほか『駆逐艦物語 車引きを自称した駆逐艦乗りたちの心意気』潮書房光人社、2016年
  • ・山本平弥ほか『秋月型駆逐艦〈付・夕雲型・島風・丁型〉』潮書房光人社、2015年
  • ・市川國雄「香り浅き『梅』バシー海峡に消えたり」
  • ・Wikipedia「汐風 (駆逐艦)」「峯風型駆逐艦」
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