1944年11月13日午後、マニラ・カヴィテ軍港。艦首を失い、桟橋に係留されたままの駆逐艦「秋霜」を、米機動部隊の艦上機が急襲した。駆逐艦長・中尾小太郎少佐は司令部に出向いて艦を離れており、指揮を執ったのは航海長・原田実大尉だった。一番砲塔前方と後部甲板に直撃弾3発。火災が発生し、まもなく火薬庫に誘爆した。翌14日未明、「秋霜」は右舷を下に転覆し、艦橋を海底に埋めたまま静かに着底した。
「秋霜」は夕雲型駆逐艦の18番艦として、大阪・藤永田造船所で1943年5月3日に起工、同年12月15日に進水、1944年3月11日に竣工した。姉妹艦「早霜」「清霜」とともに第2駆逐隊を編成し、第二水雷戦隊の一員として太平洋戦争終盤の激戦地を転戦する。だが「秋霜」を語るうえで欠かせないのは、その短い艦歴の大半が「沈む艦」ではなく「救う艦」として費やされたという事実である。潜水艦に沈められた僚艦「風雲」の生存者、空母「飛鷹」の乗組員、重巡「摩耶」の700名を超える将兵、そして軽巡「能代」の乗組員——「秋霜」は太平洋戦争末期のわずか半年余りの間に、少なくとも4度、海に投げ出された将兵を引き上げている。
そして「秋霜」の物語には、夕雲型19隻の中でただ1隻だけに許された、もうひとつの結末が待っていた。戦闘で沈んだのではなく、大破着底したまま終戦を迎え、10年後にようやく日本人技師の手で解体された艦——それが「秋霜」だった。
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竣工した「秋霜」は訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入され、瀬戸内海で猛訓練を受けた。だが1944年5月、第一機動艦隊への編入を控えた同水戦司令官・高間完少将は、連合艦隊や小沢機動部隊など各方面に対し「『秋霜』と『霜月』は訓練が十分ではないから、指導に関し配慮してほしい」とわざわざ要望を出している。竣工からわずか2ヶ月の新鋭艦にとって、それは戦局の切迫を何より雄弁に物語る評価だった。4月2日には初代艦長・平山敏夫少佐が姉妹艦「早霜」艦長へ転任し、後任として中尾小太郎少佐が「秋霜」を率いることになる。
訓練不足への懸念をよそに、「秋霜」はすぐに実戦の渦へ投げ込まれた。5月、戦艦「武蔵」や空母群を護衛してタウイタウイ泊地へ進出。6月8日、渾作戦に従事していた僚艦「風雲」が米潜水艦ヘイクの雷撃で沈没すると、「秋霜」は即座に救援へ向かい、生存者136名をダバオへ送り届けた。これが「秋霜」にとって最初の「救助」だった。この時点では、それが自らの艦歴を貫くテーマになるとは、誰も想像していなかっただろう。
1944年10月23日未明、レイテ沖海戦の緒戦、パラワン水道。栗田健男中将率いる第一遊撃部隊は、待ち伏せていた米潜水艦「ダーター」と「デイス」の雷撃を受けた。旗艦・重巡「愛宕」が沈没し、重巡「摩耶」は「デイス」の魚雷4本を受けてわずか数分で轟沈、重巡「高雄」も大破航行不能に陥る。開戦劈頭からの大損害に、艦隊全体が動揺した。
その海域に真っ先に踏みとどまったのが「秋霜」だった。「摩耶」轟沈の現場で救助にあたり、同艦乗員720名以上を引き上げた。一隻の駆逐艦の定員をはるかに超える人数が「秋霜」1隻に押し寄せ、艦内は身動きも取れないほどの状態になった。「700名以上が『秋霜』1隻に乗り込んだため、操艦もうまく行かなかった」と当時の関係者は振り返っている。それでも「秋霜」は救助を終えると主隊を追いかけ、午後4時頃、戦艦「武蔵」に横付けして「摩耶」の生存者たちを移乗させた。
駆逐艦の平均的な乗員定員はおよそ230名前後。そこへ700名以上を収容するというのは、通常の作戦行動では起こり得ない異常事態である。つまりこの日の「秋霜」は、砲弾を1発も撃たずに、艦の限界を超える働きで数百名の命をつないだということだ。
「秋霜」の救助劇は「摩耶」だけではない。6月20日のマリアナ沖海戦で空母「飛鷹」が米艦載機の攻撃を受けて沈没した際も、「秋霜」は僚艦とともに乗組員の救助にあたった。この時、「飛鷹」に安置されていた御真影と軍人勅諭が「秋霜」へ奉移された。軍艦にとって御真影を預かるということは、艦にとって特別な重みを持つ出来事だった。それは単なる人命救助を超えて、帝国海軍の「顔」を一時的に背負うという役割でもあった。
さらに10月26日、レイテ沖海戦からの撤退中、第二水雷戦隊旗艦の軽巡「能代」が空襲で被雷し沈没する。このときも「秋霜」は僚艦「浜波」とともに乗組員の救助にあたり、328名を収容した。就役からわずか半年あまりの間に、風雲・飛鷹・摩耶・能代——実に4度にわたって海に投げ出された将兵を引き上げたことになる。夕雲型19隻の中でも、これほど繰り返し「救助艦」としての役割を果たした艦は他に例がない。
「秋霜」の戦闘記録に華々しい撃沈戦果は残っていない。だが海に投げ出された将兵を何度も引き上げたという事実は、砲雷撃戦の勝敗だけでは測れない駆逐艦のもうひとつの役割を物語っている。つまり「秋霜」は、勝つための艦である以前に、仲間を生きて連れ帰るための艦だった。
1944年11月10日、多号作戦(レイテ島への輸送作戦)に従事していた「秋霜」は、セブ島北端でP-38戦闘機十数機の空襲を受け、艦首に命中弾を受けた。一番砲塔より前部が切断され、戦死傷者55名(うち戦死20名)を出しながらも、速力14〜16ノットで護衛任務を続けた。艦首を失った「秋霜」はマニラ・カヴィテの工作部に回航され、応急修理のため桟橋に係留される。隣には同じく空襲で大破していた駆逐艦「曙」の姿もあった。
そして11月13日午後、マニラは米第38任務部隊艦上機の大空襲に見舞われる。艦長・中尾少佐が司令部へ出向いて不在の中、航海長・原田実大尉が対空戦闘の指揮を執った。だが直撃弾3発を受けて火災が発生し、まもなく火薬庫に誘爆。翌14日未明、「秋霜」は右舷を下に転覆し、艦橋を海面下に埋めたまま静かに着底した。航海長・原田大尉以下15名が戦死、25名が負傷。生存者110名以上は、マニラ地区の陸上部隊に編入され、そのまま地上戦を戦うことになる。1945年1月10日、「秋霜」は帝国駆逐艦籍から除籍された。
物語はここで終わらない。戦後、「秋霜」の船体は軽巡「木曾」や駆逐艦「曙」らとともに、マニラ湾に放置され続けた。独立したばかりのフィリピン政府には、これらの残骸を引き揚げるだけの資金がなかったのである。1955年(昭和30年)9月、日本の戦後賠償事業の一環として船体は浮揚され、播磨造船所(現IHI)呉船渠の技師の手によって現地で解体された。夕雲型駆逐艦19隻の中で、終戦時に船体が確認され、後年人の手によって解体されたことがはっきり分かっている艦は「秋霜」ただ1隻である。海に沈んで消えた僚艦たちとは異なる、静かで、どこか物悲しい最期だった。
「700名以上が『秋霜』1隻に乗り込んだため、操艦もうまく行かなかった」
パラワン水道での救助時、艦内はすし詰め状態だったと伝わる
——「摩耶」生存者救助時の証言記録より
「秋霜」の本質は、勝つための艦ではなく、生きて連れ帰るための艦だった、という一点にある。風雲・飛鷹・摩耶・能代——就役から半年余りの艦歴の中で、少なくとも4度にわたり海に投げ出された将兵を引き上げた記録は、夕雲型19隻の中でも際立っている。特にパラワン水道で「摩耶」の720名以上を単艦で収容したという事実は、駆逐艦という艦種の定員をはるかに超えた、限界を超えた任務遂行だった。
しかし「秋霜」の物語は美談だけでは終わらない。艦首を失いながらも護衛任務を続け、最後はマニラで誘爆・転覆という、決して劇的とは言えない終わり方を迎えている。艦長が司令部に出向いて不在の中、航海長が指揮を執らざるを得なかったという事実も、当時の日本海軍がどれほど人員と艦艇の余裕を失っていたかを物語る。そして戦後、船体が10年以上もマニラ湾に放置され続けたという事実は、戦争の後始末がいかに長く、そして地味に続くものであるかを静かに教えてくれる。
それでも「秋霜」が残したものは確かにある。海の上で仲間を見捨てなかった駆逐艦としての記録と、砲弾一発の戦果よりも重い、数百名の命そのものだ。派手な撃沈戦果を持たない艦の物語こそ、私たちに戦争の実相を静かに問いかけてくる。猫工艦は、その静かな最期までを含めて「秋霜」の全軌跡に敬意を捧げたい。
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風雲・飛鷹・摩耶・能代——4度の救助を成し遂げた「秋霜」の記録を、その身に纏え
「勝つための艦である以前に、仲間を生きて連れ帰るための艦だった」
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)駆逐艦秋霜戦闘詳報・軍艦摩耶比律賓沖海戦戦闘詳報・第1水雷戦隊戦時日誌
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書56巻『海軍捷号作戦(2) フィリピン沖海戦』、戦史叢書41巻『捷号陸軍作戦(1)』関連巻
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・山本平弥ほか『秋月型駆逐艦〈付・夕雲型・島風・丁型〉』潮書房光人社、2015年
- ・岸見勇美『地獄のレイテ輸送作戦 敵制空権下の多号作戦の全貌』光人社NF文庫、2010年
- ・Wikipedia「秋霜 (駆逐艦)」「夕雲型駆逐艦」「レイテ沖海戦」「多号作戦」