夕雲型 · 18番艦 · 第2駆逐隊
AKISHIMO 秋霜
風雲・飛鷹・摩耶・能代——4度の救助を成し遂げ、10年後にマニラで解体された艦
藤永田造船所が建造した夕雲型駆逐艦18番艦。僚艦や友軍将兵を繰り返し救助しながら戦い続け、1944年11月のマニラ大空襲で誘爆・転覆。夕雲型19隻の中で唯一、戦後まで船体が確認され人の手で解体されるまでの諸元と全戦歴。
SPECIFICATIONS
SPEC
基本諸元サマリー
TYPE
夕雲型 18番艦
DISPLACEMENT
2,077 t
MAX SPEED
35 kt
MAIN GUN
12.7cm D型 × 6
TORPEDO
61cm × 8射線
FATE
1944.11.14 転覆着底
| 艦名 | 秋霜(あきしも) |
| 艦型・番艦 | 夕雲型駆逐艦 18番艦 |
| 建造所 | 藤永田造船所(大阪) |
| 仮称艦名 | 第346号艦(1942年度マル急計画) |
| 起工日 | 1943年(昭和18年)5月3日 |
| 命名 | 1943年(昭和18年)8月31日 |
| 進水日 | 1943年(昭和18年)12月15日 |
| 竣工日 | 1944年(昭和19年)3月11日 |
| 除籍日 | 1945年(昭和20年)1月10日 |
| 類別 | 一等駆逐艦 |
| 籍 | 横須賀鎮守府籍 |
| 全長 | 119.3m |
| 基準排水量 | 2,077t |
| 満載排水量 | 約2,900t |
| 出力 | 52,000馬力 |
| 最大速力 | 計画35ノット |
| 主砲 | 50口径三年式12.7cm連装砲D型 3基6門(最大仰角75度) |
| 機銃 | 九六式25mm連装機銃 2基(竣工時、後に増備) |
| 魚雷発射管 | 九二式61cm4連装発射管 2基8射線 |
| 搭載魚雷 | 九三式酸素魚雷 16本 |
| 爆雷兵装 | 九四式爆雷投射機 1基(九五式爆雷18〜36個) |
| 初代艤装員長・艦長 | 平山敏夫少佐(1944.1.22〜1944.4.2) |
| 2代目艦長 | 中尾小太郎少佐(1944.4.2〜戦没) |
| 所属部隊 | 第十一水雷戦隊(訓練)→第2駆逐隊(早霜・清霜)/第二水雷戦隊 |
| 特記事項 | 竣工から半年余りで風雲・飛鷹・摩耶・能代、4度にわたり僚艦や友軍将兵を救助。空母「飛鷹」の御真影・軍人勅諭を奉移した |
| 最期 | 1944年11月13日〜14日、マニラ・カヴィテで空襲を受け誘爆・炎上、右舷を下に転覆着底 |
| 戦後 | 1955年9月、船体を浮揚し日本人技師の手で解体。夕雲型19隻で唯一確認された戦後解体艦 |
TIMELINE
HISTORY
秋霜 全戦歴タイムライン
1943年5月3日 — 起工
藤永田造船所にて起工(仮称第346号艦)
- 1942年度マル急計画による駆逐艦として建造開始。8月31日に「秋霜」と命名、夕雲型駆逐艦に類別された。
1944年3月11日 — 竣工
竣工。第十一水雷戦隊で猛訓練
- 平山敏夫少佐が初代艦長に着任、横須賀鎮守府籍。瀬戸内海で訓練を受ける。
- 司令官・高間完少将は「秋霜は訓練が十分ではない」と各方面に配慮を要望した。
- 4月2日、平山艦長が「早霜」艦長へ転任、後任に中尾小太郎少佐が着任。
1944年6月8日 — 風雲救助
渾作戦中に沈んだ僚艦「風雲」の生存者を救助
- 「風雲」が米潜水艦ヘイクの雷撃で沈没。「秋霜」は「響」とともに救援に向かい、生存者136名をダバオへ送り届けた。
1944年6月20日 — 飛鷹救助
マリアナ沖海戦、空母「飛鷹」の乗員を救助・御真影を奉移
- 「飛鷹」が米艦載機の攻撃で沈没。「秋霜」は僚艦とともに乗組員を救助した。
- 「飛鷹」に安置されていた御真影・軍人勅諭が「秋霜」へ奉移された。
1944年8月15日 — 第2駆逐隊編成
早霜・清霜とともに第2駆逐隊を新編
- 第二水雷戦隊(司令官・早川幹夫少将)隷下に編入。駆逐隊司令は白石長義大佐。
1944年10月23日 — 摩耶救助
パラワン水道、重巡「摩耶」轟沈・720名以上を単艦で救助
- 米潜水艦「ダーター」「デイス」が栗田艦隊を奇襲。旗艦「愛宕」沈没、「摩耶」轟沈、「高雄」大破という開戦劈頭の大損害を受ける。
- 「秋霜」が「摩耶」沈没現場に急行し、720名以上(一部記録では769名)を単艦で収容。
- 午後4時頃、戦艦「武蔵」に横付けし生存者を移乗させた。
1944年10月24〜25日 — シブヤン海・衝突
シブヤン海海戦、僚艦「島風」との衝突
- 重巡「妙高」を一時護衛後、栗田艦隊主隊へ合流。対空戦闘で戦死者12名。
- サンベルナルジノ海峡付近で僚艦「島風」と衝突、艦首とスクリューに軽微な損傷を受ける。
1944年10月25日 — サマール沖
サマール沖海戦、空襲被害と早霜護衛
- 米空母機の空襲で戦傷者が発生。「島風」衝突箇所の浸水が拡大した。
- 損傷した僚艦「早霜」を護衛して栗田艦隊本隊を追及した。
1944年10月26日 — 能代救助
軽巡「能代」沈没、328名を救助
- 第二水雷戦隊旗艦「能代」が空襲で被雷、沈没。「浜波」とともに乗組員を救助し、「秋霜」に328名が乗艦した。
- 燃料不足の駆逐艦5隻でコロン湾へ分離、その後ブルネイへ帰投。
1944年11月10日 — 艦首切断
多号作戦従事中、空襲で艦首を喪失
- 第四次多号作戦(レイテ島輸送)で「金華丸」護衛のためセブ島北端を航行中、P-38十数機の攻撃を受ける。
- 艦首に命中弾、一番砲塔より前部が切断。戦死傷者55名(戦死20名)を出す。
- 速力14〜16ノットに低下するも僚艦「潮」に護衛され、「金華丸」を守り抜いた。マニラ・カヴィテ工作部へ回航され応急修理待機。
1944年11月13〜14日 — 戦没
マニラ大空襲、誘爆・転覆着底
- 米第38任務部隊艦上機がマニラを大空襲。艦長・中尾少佐は司令部出向中で不在、航海長・原田実大尉が対空戦闘の指揮を執る。
- 一番砲塔前方と後部甲板に直撃弾3発、火災発生後に火薬庫へ誘爆。
- 14日未明、右舷を下に転覆し着底。原田大尉以下15名が戦死、25名が負傷。生存者110名以上はマニラ地区地上部隊に編入された。
1945年1月10日 — 除籍
帝国駆逐艦籍・夕雲型駆逐艦・第2駆逐隊から除籍
- マニラ湾に船体が残されたまま、正式に艦籍を除かれる。
1955年9月 — 船体解体
戦後10年、船体が浮揚され日本人技師の手で解体される
- 戦後、「木曾」「曙」「第5蓬莱丸」とともにマニラ湾に放置され続ける。
- 財政難のフィリピン政府に代わり、日本の戦後賠償事業の一環として1955年9月に浮揚。
- 播磨造船所(現IHI)呉船渠の技師の手により現地マニラで解体された。
SUMMARY
RECORD
秋霜 全艦歴まとめ
秋霜は1944年3月に藤永田造船所で竣工した夕雲型駆逐艦18番艦。竣工からわずか8ヶ月あまりの艦歴の中で、渾作戦で沈んだ僚艦「風雲」の生存者、マリアナ沖海戦で沈没した空母「飛鷹」の乗員(御真影・軍人勅諭も奉移)、パラワン水道で轟沈した重巡「摩耶」の720名以上、レイテ沖海戦からの撤退中に沈没した軽巡「能代」の328名——実に4度にわたり僚艦・友軍の将兵を救助した。1944年11月10日には多号作戦従事中に空襲で艦首を切断されながらも護衛任務を続け、11月13〜14日、マニラ大空襲で誘爆・転覆して事実上の最期を迎える。翌年1月10日に除籍されたが、船体はマニラ湾に放置され続け、1955年9月、戦後賠償事業として浮揚・解体された。夕雲型19隻の中で、終戦時の船体残存と戦後の人為的解体がはっきり確認されている唯一の艦である。
4度の救助という記録——夕雲型19隻の中でも、これほど繰り返し「救助艦」としての役割を果たした艦は他に例がない。撃沈戦果を持たない代わりに、数百名の命を海から引き上げた記録が残る。
唯一の戦後解体艦——他の18隻はいずれも海中に没したか消息不明のまま終わったが、秋霜だけは船体がマニラ湾に残り続け、1955年に日本人技師の手で解体された。夕雲型で唯一、人の手による「見送り」を受けた艦である。
⚓ 猫工艦ミリタリーグッズはこちら
4度の救助と、戦後10年を経た解体——「秋霜」の静かな軌跡を、その身に纏え
「700名以上が秋霜1隻に乗り込んだため、操艦もうまく行かなかった」
SHOP を見る →RELATED
ARTICLES
関連記事
■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)駆逐艦秋霜戦闘詳報・軍艦摩耶比律賓沖海戦戦闘詳報・第1水雷戦隊戦時日誌
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書56巻『海軍捷号作戦(2) フィリピン沖海戦』、戦史叢書41巻『捷号陸軍作戦(1)』関連巻
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・山本平弥ほか『秋月型駆逐艦〈付・夕雲型・島風・丁型〉』潮書房光人社、2015年
- ・岸見勇美『地獄のレイテ輸送作戦 敵制空権下の多号作戦の全貌』光人社NF文庫、2010年
- ・Wikipedia「秋霜 (駆逐艦)」「夕雲型駆逐艦」