1943年11月25日深夜、ニューアイルランド島南端沖。電探を装備していながら、駆逐艦「大波」は接近する敵に気づかなかった。アーレイ・バーク大佐率いる米駆逐艦5隻が放った15本の魚雷の網に、警戒隊として先行していた大波と僚艦「巻波」が飛び込む形になる。大波に命中した魚雷は2本。艦はほぼ即死に等しい早さで沈んだ。第三十一駆逐隊司令・香川清登大佐、そして艦長・吉川潔中佐以下、乗組員全員が戦死した——セント・ジョージ岬沖海戦である。
「大波」は夕雲型駆逐艦7番艦として、藤永田造船所で1941年11月に起工され、1942年12月29日、ガダルカナル島の戦いも終盤に差し掛かった年の瀬に竣工した。この艦を語る上で欠かせないのが、初代艦長・吉川潔中佐の存在である。吉川艦長は、バリ島沖海戦で日本駆逐艦の強さを見せつけた「大潮」、そして第三次ソロモン海戦で敵陣中央に単艦突入した「夕立」——この2隻の伝説的な戦歴を築いた男が、次に任されたのが大波だった。
しかし大波自身は、竣工の遅さもあって主要な水上戦闘に参加する機会に恵まれず、護衛・輸送・救援という地味な任務が続いた。この記事では、伝説の艦長が最後に指揮した艦の全戦歴と、その最期を辿る。
約2,772〜2,940t(満載)
「大波」は1939年度(④計画)仮称第122号艦として、藤永田造船所で1941年11月15日に起工された。1942年6月20日に「大波」と命名され、夕雲型に類別される。11月15日、平山敏夫少佐が艤装員長(駆逐艦「白雲」艦長を兼務)に任命された。同僚艦「高波」の竣工(8月31日)から実に4ヶ月遅れの12月29日、ようやく竣工。ガダルカナル島の戦いの帰趨がほぼ決した、年の瀬のことだった。
12月20日、初代駆逐艦長として着任したのが吉川潔中佐である。吉川艦長は、朝潮型「大潮」の艦長としてバリ島沖海戦で日本駆逐艦の強さを見せつけ、続いて白露型「夕立」の艦長として第三次ソロモン海戦で敵陣中央に単艦突入するという、駆逐艦乗りとして輝かしい戦歴を積んできた人物だった。1943年1月20日、大波は第二水雷戦隊隷下の第三十一駆逐隊に編入される——ルンガ沖夜戦で「高波」を失った直後の補充だった。
1943年11月25日、大波はブカ島への輸送任務のため、第三十一駆逐隊司令・香川清登大佐が座乗する警戒隊の一員として、僚艦「巻波」と共に先行していた。後方には輸送隊(天霧・夕霧・卯月)が続く。この時、日本側の駆逐艦は電探(レーダー)を装備していたが、アーレイ・バーク大佐率いる米駆逐艦5隻の接近を捉えることができなかった。
警戒隊の大波・巻波は、まさに米側が予測した進路そのものを進んでいた。米駆逐艦隊が放った魚雷は実に15本。この魚雷の網に、大波と巻波は正面から飛び込む形となった。大波に命中した魚雷は2本——艦は「即死」と形容されるほどの早さで沈没した。巻波も1本被雷して航行不能となった後、米駆逐艦「スペンス」「コンヴァース」の砲撃を受けて撃沈されている。
電探という新技術を装備しながら、敵の接近を捉えられなかった。つまりどういうことか——装備の優劣だけでなく、運用の練度や戦術眼こそが、この時代の海戦の帰趨を分けていたことを、大波の最期は物語っている。
1943年11月11日、ラバウルは度重なる空襲に晒されていた。この日の空襲で、僚艦「長波」が艦尾に被弾し航行不能に陥る。大波はこれに気づくと、すぐさま長波の救援に向かった。まず大波自身が長波を曳航しようと試みたが、作業中に曳航索がスクリューに絡まるという事故が発生してしまう。
曳航索が使えなくなった大波に代わり、僚艦「巻波」が長波の曳航を引き継いだ。結果的に大波自身の曳航は失敗に終わったが、危険な空襲下で真っ先に僚艦の救援に動いたという事実は変わらない。この2週間後、大波自身がその巻波と共にセント・ジョージ岬沖で命を落とすことになるとは、この時誰も想像しなかっただろう。
曳航索のトラブルで大波の救援は不発に終わったが、それでも真っ先に動いた事実は消えない。つまりどういうことか——結果が伴わなくとも、危険を顧みず僚艦を助けようとした意志そのものに価値がある。
大波という艦を語る時、艦長・吉川潔中佐の存在を抜きにすることはできない。吉川艦長は大波に着任する以前、朝潮型駆逐艦「大潮」の艦長としてバリ島沖海戦を戦い、続いて白露型駆逐艦「夕立」の艦長として第三次ソロモン海戦に臨んでいる。「夕立」はこの海戦で敵陣中央に単独で突入するという、日本海軍屈指の激闘を演じた艦として知られている。
2隻の艦でそれぞれ歴史に残る戦歴を築いた吉川艦長にとって、大波は3隻目の指揮艦だった。しかし大波自体は竣工の遅れもあって、大潮や夕立のような華々しい水上戦闘に参加する機会がないまま、護衛・輸送・救援任務が続いた。そして1943年11月25日、セント・ジョージ岬沖海戦——吉川艦長は、これまでの輝かしい戦歴とは対照的な、電探の死角を突かれた一方的な奇襲の中で、香川司令・乗員全員と共にその生涯を終えた。
大潮・夕立・大波——吉川潔中佐が指揮した3隻はいずれも太平洋戦争で戦没している。つまりどういうことか——1人の優秀な艦長が、これほど立て続けに激戦地の駆逐艦を任され続けたという事実は、太平洋戦争中期の日本海軍がいかに人材と艦艇の両方を消耗させ続けていたかを物語っている。
大波の本質は、華々しい戦果とは無縁のまま、護衛・輸送・救援という地味な任務を淡々とこなし続けた艦だったという点にある。竣工が遅れ、伝説的な艦長を迎えながらも大きな海戦に参加する機会に恵まれなかった大波にとって、セント・ジョージ岬沖海戦は初めての本格的な水上戦闘であり、そして最後の戦闘でもあった。
しかし、地味な任務の積み重ねにこそ、戦争の実相がある。11月11日の長波救援は結果的に失敗したが、危険を顧みず真っ先に動いたという事実は、この艦の乗員たちの資質を物語っている。一方で、電探という新技術を持ちながら奇襲を許し、乗員全員を失うという結末は、どれほど優れた艦長・乗員であっても、技術的・戦術的な劣勢を覆せない場面があったことを示している。
大波が残したものは何か——それは、大潮・夕立という2隻の名艦を指揮した吉川潔という艦長が、最後に見た景色である。華々しい武勲の艦から、地味な任務の艦へ。そして突然の、防ぎようのない最期へ。この艦歴の落差は、太平洋戦争という戦争が、どれほど優れた人材であっても平等に飲み込んでいったという現実を静かに物語っている。猫工艦は、3隻の艦を渡り歩き、最後まで職務を全うした吉川艦長と、大波の乗員全員に敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第31駆逐隊戦時日誌・第4水雷戦隊戦時日誌・第14戦隊戦時日誌戦闘詳報
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書『死闘ガダルカナル』『水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦』関連巻
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・山本平弥ほか『秋月型駆逐艦〈付・夕雲型・島風・丁型〉』潮書房光人社、2015年
- ・Wikipedia「大波 (駆逐艦)」「夕雲型駆逐艦」「セント・ジョージ岬沖海戦」「大潮 (駆逐艦)」「夕立 (白露型駆逐艦)」