1942年10月11日午後9時43分、サボ島沖。重巡「青葉」の右前方を航行していた駆逐艦「吹雪」は、突如出現した米重巡洋艦隊から砲火を浴びた。日本側で最初に被弾したのは吹雪だった。艦中央部に命中弾を受けて爆発炎上し、青葉に同航しながら旋回を続けるが、サンフランシスコ以下の米艦隊の集中砲火を浴び、わずか10分後に撃沈された。山下鎮雄艦長以下220名が戦死し、生存者はわずか8名だった。
吹雪型(特型)駆逐艦のネームシップ・吹雪は、世界の駆逐艦史を変えた艦である。1928年の竣工当時、その重武装と凌波性能は列強海軍に衝撃を与え、ロンドン海軍軍縮会議で大型駆逐艦の保有枠が新設されるほどの存在感を示した。だが、その革命的な艦が最後に経験したのは、サボ島沖の闇の中での、わずか10分間の終焉だった。
そして——吹雪のその短い最期に至るまでの14年間、この艦は太平洋戦争のほとんど全期間にわたって前線で戦い続けていた。バタビヤ沖海戦では単艦で米英巡洋艦2隻を発見・追跡し、その撃沈に貢献している。ネームシップとしての誇りと、最前線での激しい消耗——吹雪の物語は、その両方を体現している。
1926年6月19日
1928年8月10日 竣工
34.0kt
(ネームシップ・雪級1番艦)
3基6門
9射線
(1940年10月〜戦没)
サボ島沖海戦で最初に被弾・撃沈
ワシントン海軍軍縮条約による主力艦保有制限の中、補助艦艇の戦力強化を目的に建造された一等駆逐艦。凌波性能を追求した船形、密閉式艦橋による居住性改善、排水量に対する重武装(12.7cm連装砲3基、61cm魚雷9射線)により、当時の列強海軍に衝撃を与えた。吹雪はこの艦型全24隻の1番艦であり、「特型駆逐艦」という呼称そのものの象徴的存在だった。竣工当初は「第三十五号駆逐艦」と呼ばれていたが、1928年8月1日に「吹雪」と改称された。日本海軍の艦船としては春雨型駆逐艦「吹雪」に続いて2隻目にあたる。
吹雪は1926年6月19日、舞鶴工作部で起工した。1927年11月15日に進水し、改名から間もない1928年8月10日に竣工。「白雪」「初雪」「深雪」と共に第11駆逐隊を編制する。1930年12月には、後に連合艦隊司令長官として歴史に名を残す南雲忠一大佐が同隊の司令を務めた。1931年、吹雪は第11駆逐隊から除籍され、新たに「東雲」「磯波」と共に第20駆逐隊を編制。1935年の第四艦隊事件では、姉妹艦「初雪」「夕霧」が艦首切断という大損害を受け、吹雪自身も艦体強度問題への対応として改装を受けることになった。
1941年9月、第11駆逐隊は最新鋭空母「翔鶴」「瑞鶴」と第一航空戦隊を編制する予定だった。しかし太平洋戦争の勃発により、吹雪以下第11駆逐隊が空母機動部隊に配属されることはなかった。開戦時、吹雪型3隻(吹雪・白雪・初雪)は第三水雷戦隊(旗艦川内)に所属し、小沢治三郎中将の南遣艦隊の一艦として南方作戦に参加することになる。
12月17日、ボルネオ・ミリ攻略中に「東雲」がオランダ軍飛行艇の攻撃で沈没。さらに12月24日、ボルネオ攻略部隊の輸送船団救援のため派遣された「狭霧」が、オランダ潜水艦「K XVI」の雷撃で爆沈した。第七戦隊を護衛していた吹雪は「初雪」「白雪」と合流すると現場へ急行し、僚艦から救助されていた狭霧生存者を移乗・回収。「熊野」「鈴谷」とともにカムラン湾へ帰投した。
1942年1月26-27日、吹雪はマレー半島南部東海岸でエンダウ沖海戦に参加する。英駆逐艦「サネット」と濠駆逐艦「ヴァンパイア」が日本側輸送船団を襲撃したのに対し、吹雪以下第三水雷戦隊が反撃。サネットは撃沈され、ヴァンパイアは煙幕を展開して南方へ脱出した。この戦闘で吹雪はサネットに対し主砲102発を発射している。
3月1日深夜、哨戒のためバビ島近海を単艦で行動していた吹雪は、北方から航行してきた米重巡「ヒューストン」と濠軽巡「パース」を発見し、味方に通報。約25分にわたって追跡し、距離2500mで魚雷9本を発射した(命中は報告のみで実際は外れていた)。その後、巡洋艦2隻は吹雪を砲撃したため、煙幕を展開して距離をとった。午前1時40分、吹雪は初雪・白雪と合流。バンタム湾に追い詰められたヒューストン・パースには日本側の砲撃・雷撃が集中し、両艦は相次いで沈没した。吹雪の初期発見・通報・追跡が、この戦果につながった。
3月10日、東雲を喪失していた第12駆逐隊が解隊され、叢雲が第11駆逐隊に編入。開戦時以来3隻体制だった第11駆逐隊は4隻(初雪・白雪・吹雪・叢雲)に増強された。その後、北部スマトラ掃蕩作戦、アンダマン攻略作戦に参加し、4月にはベンガル湾機動戦にも従事。6月のミッドウェー海戦では、第三水雷戦隊として連合艦隊主力部隊(戦艦大和・長門・陸奥ほか)を護衛した。
8月7日のガダルカナル島の戦い開始以降、吹雪は鼠輸送に従事し続けた。8月29日、第24駆逐隊・第11駆逐隊(初雪・吹雪・白雪)はガ島揚陸作戦を実施、一木支隊第1梯団上陸以来初の揚陸に成功。8月31日には川口清健陸軍少将を含む陸兵約1200名の揚陸を成功させた。9月以降も、飛行場砲撃、ルンガ泊地突入、大発動艇曳航など、地味だが欠かせない輸送任務を繰り返している。
9月16日、ガ島総攻撃失敗を受け、潮・吹雪・涼風は大発動艇2隻を曳航して出撃。空襲を回避したが吹雪の曳航する大発動艇は曳索切断で喪失した。10月1日、初雪・白雪・吹雪・叢雲は陸軍青葉支隊司令部80名と糧食を搭載して出撃、空襲回避中に初雪の舵が故障し司令駆逐艦は白雪に交代。白雪・吹雪・叢雲による揚陸は成功した。10月7日には時雨の指揮下で白雪・叢雲・綾波と共にガ島輸送を実施、被害もなく揚陸に成功している。
そして1942年10月11日、第六戦隊(重巡青葉・古鷹・衣笠)と共に第11駆逐隊第2小隊(吹雪・初雪)はガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃に向かった。第六戦隊司令部は、これまでの輸送任務で米艦隊の反撃が限定的だったことから、大兵力の反撃はないと判断していた。だが米軍はこの動きを察知し、ノーマン・スコット少将率いる重巡2隻・軽巡2隻・駆逐艦5隻をアイアンボトム・サウンドに伏せていた。
吹雪ハ2158青葉ノ左140度500米ヲ同航中ナリシモ火災ヲ惹起シ2213大火災トナリ、尓後爆発ノ音響ヲ聞キ間モナク沈没スルヲ認メタルモノアリ
最初に被弾し、炎上しながら青葉と同航を続けた吹雪の最期が、戦闘詳報にこう記録されている。
——1942年10月11日深夜、サボ島沖海戦(第二次ツラギ夜戦)。外南洋部隊支援隊戦闘詳報第二號、第六戦隊司令部より。
21時43分、スコールから出た日本艦隊はサボ島方向に艦影を認めるが、敵か日進輸送隊か判断がつかず、識別を行っている間に米艦隊が砲撃を開始した。青葉艦橋にいた貴島参謀の手記によれば、最初に被弾したのは青葉の右斜め前方にいた吹雪で、艦中央部に命中弾を受けて爆発炎上したという。ほぼ同時に青葉も被弾し五藤司令官が致命傷を負う。青葉は煙幕を展開して離脱を図ったが、吹雪は青葉に同航しながら旋回を続け、重巡「サンフランシスコ」以下の集中砲火を浴びて撃沈された。米側記録では21時53分(米時間)に爆発を起こして沈没したとされる。山下鎮雄艦長以下220名が戦死、日本側が救助した生存者はわずか8名だった。
アメリカ側資料に基づく英文書籍には、吹雪乗組員109名を米軍が救助したとの記述もある。この場合、米軍に救助された者はニュージーランドの捕虜収容所で「フェザーストン事件」に遭遇したという。第六戦隊は重巡2隻・駆逐艦1隻撃沈、巡洋艦1隻大破という戦果を報告したが、実際の米側損害は駆逐艦「ダンカン」沈没、軽巡「ボイシ」大破、重巡「ソルトレイクシティー」小破、駆逐艦「ファレンホルト」大破というものだった。それでも日本側の輸送作戦そのものは成功し、日進輸送隊は戦場を離脱して帰投している。
1942年11月15日、サボ島沖海戦で沈没した「夏雲」「叢雲」と共に吹雪は除籍された。同日、ネームシップである吹雪自身の喪失により『吹雪型駆逐艦』という呼称は『白雪型駆逐艦』に改定される。この艦型を世界に知らしめた1番艦が消えたことで、艦型の名称そのものが書き換えられることになった。
しかし、先頭に立つということは、最も早く危険に晒されることでもある。サボ島沖海戦で米艦隊の砲火を最初に受けたのは、青葉の右斜め前方を航行していた吹雪だった。ネームシップとしての誇りと、最前線に立つがゆえの早すぎる消耗——その両方が、この艦の14年間に刻まれている。
吹雪が残したものは、艦型の名称そのものが書き換えられるほどの存在感だ。今を生きる私たちに、この艦が問いかけるのは——先駆者であることの誇りと代償は、常に表裏一体である、という事実かもしれない。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)
- ・宇垣纏『戦藻録』原書房、1968年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集16 駆逐艦 吹雪型[特型]』光人社、1997年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「吹雪 (吹雪型駆逐艦)」「吹雪型駆逐艦」