開戦16日、見えない敵に消えた艦——霧級「狭霧」、最初の戦没の全記録

1941年12月24日午後8時45分、ボルネオ島クチン沖合35マイル。太平洋戦争開戦からまだ16日しか経っていないこの夜、駆逐艦「狭霧」はオランダ海軍潜水艦「K XVI」の雷撃を受けた。魚雷は右舷後部に命中。爆雷の誘爆による火災が弾薬庫と搭載魚雷に引火し、大爆発を引き起こす。被雷からわずか15分後、狭霧は海に消えた。戦死者121名、生存者119名——この艦は、太平洋戦争で日本海軍が失った最初期の駆逐艦のひとつとなった。

吹雪型駆逐艦14番艦・狭霧は、「天霧」「朝霧」「夕霧」と共に霧級4隻を編成した一艦である。竣工当初は第8駆逐隊に加わったものの、すぐに第10駆逐隊へ転出し、太平洋戦争開戦の直前にようやく霧級本隊へ復帰した。そして復帰からわずか4ヵ月、開戦からわずか16日で、狭霧は霧級の中で最初に戦没する艦になった。

そして——狭霧の戦没は、単なる一艦の損失では終わらなかった。この夜の犠牲は、霧級に残された3隻「天霧」「朝霧」「夕霧」がその後たどる、より長く、より激しい戦いの出発点になった。霧級の物語を最初から最後まで辿るなら、必ず狭霧から始めなければならない。

建造所 / 起工日
浦賀船渠
1929年3月28日
進水 / 竣工 / 初代艤装員長
1929年12月23日 進水
1931年1月31日 竣工
坂野民部 中佐
基準排水量 / 速力
1,700t
34.0kt
艦型・番艦
吹雪型14番艦
(特II型・霧級1番艦)
主砲型式・門数
12.7cm連装砲
3基6門
魚雷兵装
61cm3連装発射管
9射線
最後の艦長
杉岡幸七 中佐
(1940年11月〜戦没時生存)
特筆データ
霧級4隻中、
最初に戦没した艦
最終的な結末
1941年12月24日
クチン沖で潜水艦の雷撃により戦没
■ 吹雪型(特型)駆逐艦・霧級とは
ワシントン海軍軍縮条約による主力艦保有制限の中、補助艦艇の戦力強化を目的に建造された一等駆逐艦。凌波性能を追求した船形、密閉式艦橋による居住性改善、重武装(12.7cm連装砲3基、61cm魚雷9射線)により、当時の列強海軍に衝撃を与えた。狭霧は浦賀船渠で建造され、天霧・朝霧・夕霧と共に「霧級」を編成した。艤装当初は霧級最初の竣工艦だったが、艦艇類別等級表上では吹雪型14番艦、もしくは16番艦と記載される資料もある。

狭霧は1929年3月28日、浦賀船渠で起工した。進水の翌日には、同じ船渠で姉妹艦「」が起工するという巡り合わせもあった。1931年1月31日に竣工し、すでに編成されていた吹雪型3隻(天霧・朝霧・夕霧)の第8駆逐隊に編入されて、霧級は定数4隻を揃える。竣工直後の同年11月には、熊本での陸軍特別大演習統裁のため九州へ向かう昭和天皇の御召艦・戦艦「榛名」の供奉艦として、第8駆逐隊4隻が任務にあたった——平和な時代の一場面である。

■ 霧級から離れた11年——第10駆逐隊での日々 ■
1931年12月
編制替えにより第8駆逐隊から除籍。
1932年5月
姉妹艦「漣」と共に第10駆逐隊を新編(栗田健男中佐が初代司令)。初代司令駆逐艦に指定される。同年11月、「暁」編入で定数3隻に。
1933〜38年
第二水雷戦隊・第四水雷戦隊で日中戦争の輸送船団護衛や封鎖任務に従事。1935年2月、有明湾で多重衝突事故に遭い小破。
1939年4月
前駐米大使・斎藤博の遺骨を運ぶ米重巡「アストリア」を、天霧・暁と共に先導して横浜港へ入港。日米双方の国旗を半旗に掲げた、戦前最後の友好的な一幕。

1939年11月、第10駆逐隊は解隊され、狭霧はようやく霧級本隊(第20駆逐隊)へ復帰する。1940年8月、霧級4隻(朝霧・夕霧・天霧・狭霧)が再び揃った。同年9月、第三水雷戦隊は北部仏印進駐に伴う陸軍輸送船団護衛任務に従事している。

■ マレー作戦——重巡「鳥海」の直衛艦として
太平洋戦争開戦時、狭霧は第三水雷戦隊・第20駆逐隊に所属していたが、実際の行動は本隊とは異なっていた。馬来部隊指揮官・小沢治三郎中将の旗艦「鳥海」の直衛艦として、狭霧は単独で鳥海と行動を共にする。マレー沖海戦の際も、馬来部隊主隊2隻(鳥海・狭霧)は同一行動を取った。12月9日深夜には、味方の索敵機が鳥海と狭霧を「英東洋艦隊」と誤認する一幕もあった——小沢中将が「我レ鳥海」と発信してもなお誤認が解けず、北方への避退を強いられている。

12月11日、馬来部隊水上部隊はカムラン湾に集結し、第二次マレー上陸作戦とボルネオ島攻略作戦が発動された。狭霧は重巡「熊野」「鈴谷」、駆逐艦「吹雪」と共に、第七戦隊司令官・栗田健男少将が指揮する護衛隊本隊に編入され、ボルネオ作戦の支援を命じられる。北部ボルネオ攻略を担う川口支隊(陸軍第18師団の一部、川口清健少将指揮)を乗せた輸送船団は、12月15日深夜から16日未明にミリへ到着し、上陸作戦を成功させた。

■ クチン攻略——空襲と潜水艦警報の中の前進 ■
【12月17日】:ミリ沖合で姉妹艦「東雲」が轟沈。第二護衛隊は艦を喪失。
【12月18〜22日】:天候不良と飛行場整備の遅延でクチン攻略を3日延期。連合軍機の空襲が続く中、護衛隊本隊(熊野・鈴谷・鬼怒・吹雪・狭霧)は船団の近接護衛を続けた。
【12月23日】:連合軍飛行艇の触接が続く。各隊からクチン方面に敵潜水艦在泊の報告。実際にはオランダ海軍潜水艦3隻が泊地に接近していた。
【22時40分】:オランダ潜水艦K XIVがクチン泊地周辺の輸送船団を襲撃。輸送船4隻が被雷・大破(香取丸は翌24日午前に沈没)。

栗田少将は、被害を受けた輸送船団の救援のため、狭霧を泊地に派遣した。クチン攻略部隊は12月24日午前3時頃より上陸を開始、予定より3日遅れだったが連合軍機の空襲をかわして占領は順調に進んだ。狭霧は午前8時30分にクチン泊地へ到着し、損傷船の救助作業に従事。作業が一段落すると、駆逐艦3隻(叢雲・狭霧・白雲)は泊地周辺の警戒任務に就いた。

■ 最期——被雷から15分の沈没
同日午後8時45分、クチンから約35マイル沖を航行していた狭霧は、オランダ海軍潜水艦「K XVI」の雷撃を受けた。魚雷は右舷後部に命中。爆雷の誘爆による火災が弾薬庫と搭載魚雷に引火し、大爆発を引き起こした。狭霧は被雷からわずか15分間で沈没した。第三号掃海艇や僚艦の短艇が救助にあたり、叢雲は周辺海域の制圧(魚雷2本回避、爆雷攻撃により敵潜撃沈確実と報告)、白雲は護衛・救助を実施した。12月28日時点の報告では、生存者は駆逐艦長以下119名、戦死者121名——犠牲は乗員のほぼ半数に及んだ。

狭霧沈没の報告を受けた栗田少将は、第11駆逐隊から2隻(吹雪・初雪)を現場へ急派した。12月25日午前8時、両艦は現場に到着し、狭霧生存者は「吹雪」に移乗。その後、3隻(熊野・鈴谷・吹雪)はカムラン湾へ帰投した。1942年1月15日、狭霧は吹雪型駆逐艦・第20駆逐隊・帝国駆逐艦籍のそれぞれから除籍された。同日付で艦長・杉岡幸七中佐の任も解かれ、他の幹部たちも次の任地へ向かった。

霧級4隻、それぞれの結末

狭霧(1941年12月)、朝霧(1942年8月)、夕霧(1943年11月)が次々と戦没する中、天霧だけが1944年4月まで生き延びた。

——霧級4隻の戦没順は、太平洋戦争という戦場がいかに長く、苛烈であったかを物語っている。

■ 狭霧の全戦歴ハイライト ■
【1931年1月】:吹雪型・霧級として竣工。第8駆逐隊(天霧・朝霧・夕霧・狭霧)の一艦に
【1932年5月】:第10駆逐隊新編(狭霧・漣、後に暁)。霧級本隊から一時離れる
【1933〜38年】:日中戦争の輸送船団護衛・封鎖任務
【1939年4月】:前駐米大使遺骨輸送の米重巡アストリアを先導、横浜港入港
【1939年11月〜1940年8月】:霧級本隊(第20駆逐隊)へ復帰、4隻が再び揃う
【1941年12月8日】:太平洋戦争開戦。重巡鳥海の直衛艦としてマレー作戦に従事
【1941年12月17日】:姉妹艦「東雲」がミリ沖で轟沈
【1941年12月23日】:クチン泊地でオランダ潜水艦が輸送船団を襲撃、狭霧が救援に派遣される
【1941年12月24日】:クチン沖でオランダ潜水艦K XVIの雷撃を受け、被雷15分後に沈没。戦死121名
【1942年1月15日】:吹雪型駆逐艦・帝国駆逐艦籍から除籍

狭霧の喪失後、3月10日には吹雪型「白雲」が第20駆逐隊に編入され、定数4隻が回復した。狭霧乗組員の一部は新造艦「巻雲」(夕雲型2番艦)に配属され、その後の戦争を生き続けた者もいる。一方、狭霧沈没時の艦長・杉岡幸七中佐は、その後駆逐艦「大」「嵐」の艦長を歴任し、1943年8月、ベラ湾夜戦での「嵐」沈没時に戦死した。狭霧という艦から始まった戦いは、形を変えながら、その後も長く続いていったことになる。

■ 猫工艦の考察 狭霧という艦の本質は、「戦争の本当の始まり」を最初に体現した艦だったことにある。開戦からわずか16日、戦果を挙げる機会もほとんどないまま、重巡の直衛任務と輸送船団救援という地味な役割の最中に、潜水艦の魚雷一発で半数近い乗員と共に海に消えた。

しかし、その早すぎる犠牲は無駄ではなかった。狭霧の戦没は、霧級に残された天霧・朝霧・夕霧が、その後の激戦をどう戦い抜くかを暗示する出発点になった。3隻のその後の艦歴——救助、輸送、夜戦、そして最終的な結末——は、狭霧が最初に経験した「潜水艦という見えない脅威」と「戦場の理不尽さ」を、それぞれの形で引き継いでいる。

狭霧が残したものは、勝利の記録ではない。だが、太平洋戦争という長い戦いが、開戦からわずか2週間あまりでどれほど多くの命を奪い始めていたかという事実そのものを、この艦の最期は静かに語り続けている。

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■ 参考文献・資料

  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年
  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書27『比島・マレー方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年
  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書46『中部太平洋方面海軍作戦』朝雲新聞社、1971年
  • ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考
  • ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
  • ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • ・木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年
  • ・歴史群像編集部『水雷戦隊I 特型駆逐艦』学習研究社、1998年
  • ・防衛庁防衛研修所戦史室、潜水艦攻撃関連資料、2016年
  • ・Wikipedia「狭霧 (駆逐艦)」

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